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中学高校の思い出
私は桐朋女子という、中学高校が一貫の私立の学校に通っていたのですが、中1と高3で担任をしてもらったT先生がご病気で亡くなってしまい、今朝、告別式に行ってきました。
数年前から闘病されているとは伺っていたんですが、54歳ですって。若いですね・・・。
私はいくつかある母校の中でも一番郷愁を感じるというか、好きだなと思うのがこの中学高校なのです。
かといって当時はすごい反抗期だったから先生と仲が良かったわけでもないし、人付き合いが上手なわけでもないから友達が多かったわけでもないし(笑)、たまに同窓会などに行っても、仲間たちとわーと手を取り合って再会を喜ぶほどでもないんですけど(^^;
大人になったって10代のころと頭の中身がそれほど変わるわけでもないけれど、今は「ちぇっ、あの人嫌い」と思っても口にも顔にも出さない程度には大人になったし(笑)、まあほどほどの人付き合いもできるようになりましたが、桐朋に通っていたころはもっと思うままにとげとげしながら生きてたものです。
たとえばホームから電車に乗るときに、おじさんたちが先を争って人を押しのけて自分が座る席を確保しているのを見て、「自分のために人を押しのけるなんて、なんて恥ずかしい大人がいるものかしら」とわざと大声で言ったりとか・・・
間違った行動を指摘すること自体は悪いことではないかもしれないけど、今だったらもっと別な声かけのしかたを考えるだろうと思います。ダメな行動をしている人に批判の言葉を浴びせるだけでは、自分がせいせいするだけで、相手も不愉快な気分になるだけで反省もしないだろうし、全体の課題は解決しないですからね。
まあ、一事が万事で10代の頃はすべてのことになんだか腹を立てて反抗してたなあと思います。学校の先生にも親にも。
あとで思えば「あちゃー・・・」と思うような状態だけど、でもそんな私でも排除されることもなく、なんとなく自然に受け入れてもらえていたような学校の雰囲気が好きだったなあと思い出します。
今回亡くなったT先生にもいつも「プンッ」としてた記憶しかないし・・・。
桐朋女子には学年色というものがあって、入学から卒業まで同じ色がついてまわります。6色が循環している・・・干支みたいなものです。
日常の呼び名も「何年生の人」ではなくて「何色の人」と呼ぶ。部活で後輩が先輩を呼ぶ時も「何色のかた」と呼ぶ。
私の学年色は紫だったので、後輩には「紫のかた」と呼ばれて、なんだか高貴な人のようだなと思った記憶があります。
亡くなった先生は最後は赤の学年にいたそうで、夏休み中だからでしょう、現役の生徒たちも告別式に来ていました。
私は高校時代の友人と待ち合わせていたので、参列者の生徒たちを眺めて、「ここにいる人はだいたいみんな赤なのかなあ」と友人に話しかけました。・・・桐朋の学年色のしくみを知らない人が聞いたら、いったいどういうことだと思う会話ですねぇ(^^;
葬儀の手伝いをしていた人の中に、中3のときの担任のK先生を見つけたので、「先生、紫の卒業生の加藤木です」と話しかけます。
K先生、「僕も、亡くなったT先生にはお世話になったんだよ・・・子どもたちを連れて合宿に行って、子ども達が僕によじ登ってきたために僕が怪我をしてしまったことがあったんだ。その時にT先生は代わりに僕の荷物を持ってくれた。
それに、子どもたちを連れて山登りに行ったら体調を崩した子が出たときにも、T先生にその子を背負って降りてもらったり・・・。」
なんだ、担いでもらった記憶ばかりだなあ、と思って聞いていると、
「君たちは独身なのか。そうかやっぱり。うちの卒業生は独身が多いねぇ。結婚しても離婚したりねぇ・・・」としみじみK先生。
うーむ
、ずいぶんユニークな先生に囲まれて中高時代を過ごしていたんだなあと再認識して帰ってきました。
桐朋に最後に行ったのは教育実習をしに行ったときなので、もう10年くらい前。
気になりながら会えなかった人に再会できて、昔を思い出すことができたけど、それがお葬式の場というのは残念。
桐朋に通っていたころに毎日の生活の様子を話していた私の母もすでに亡くなってしまったし、「T先生が亡くなっちゃったよ」「K先生に会ってきたよ」と報告してわかってもらえる人もいないんだなあとしみじみ。(反抗期だったので当時は父とは口をきいておらず
、父は先生の名前くらいしか知らないので。)
毎年のように親しい人の中から誰か亡くなってしまうし、だんだん、親しい人もいなくなってしまうんだなあと思うと、淋しいですね。
数年前から闘病されているとは伺っていたんですが、54歳ですって。若いですね・・・。
私はいくつかある母校の中でも一番郷愁を感じるというか、好きだなと思うのがこの中学高校なのです。
かといって当時はすごい反抗期だったから先生と仲が良かったわけでもないし、人付き合いが上手なわけでもないから友達が多かったわけでもないし(笑)、たまに同窓会などに行っても、仲間たちとわーと手を取り合って再会を喜ぶほどでもないんですけど(^^;
大人になったって10代のころと頭の中身がそれほど変わるわけでもないけれど、今は「ちぇっ、あの人嫌い」と思っても口にも顔にも出さない程度には大人になったし(笑)、まあほどほどの人付き合いもできるようになりましたが、桐朋に通っていたころはもっと思うままにとげとげしながら生きてたものです。
たとえばホームから電車に乗るときに、おじさんたちが先を争って人を押しのけて自分が座る席を確保しているのを見て、「自分のために人を押しのけるなんて、なんて恥ずかしい大人がいるものかしら」とわざと大声で言ったりとか・・・

間違った行動を指摘すること自体は悪いことではないかもしれないけど、今だったらもっと別な声かけのしかたを考えるだろうと思います。ダメな行動をしている人に批判の言葉を浴びせるだけでは、自分がせいせいするだけで、相手も不愉快な気分になるだけで反省もしないだろうし、全体の課題は解決しないですからね。
まあ、一事が万事で10代の頃はすべてのことになんだか腹を立てて反抗してたなあと思います。学校の先生にも親にも。
あとで思えば「あちゃー・・・」と思うような状態だけど、でもそんな私でも排除されることもなく、なんとなく自然に受け入れてもらえていたような学校の雰囲気が好きだったなあと思い出します。
今回亡くなったT先生にもいつも「プンッ」としてた記憶しかないし・・・。
桐朋女子には学年色というものがあって、入学から卒業まで同じ色がついてまわります。6色が循環している・・・干支みたいなものです。
日常の呼び名も「何年生の人」ではなくて「何色の人」と呼ぶ。部活で後輩が先輩を呼ぶ時も「何色のかた」と呼ぶ。
私の学年色は紫だったので、後輩には「紫のかた」と呼ばれて、なんだか高貴な人のようだなと思った記憶があります。
亡くなった先生は最後は赤の学年にいたそうで、夏休み中だからでしょう、現役の生徒たちも告別式に来ていました。
私は高校時代の友人と待ち合わせていたので、参列者の生徒たちを眺めて、「ここにいる人はだいたいみんな赤なのかなあ」と友人に話しかけました。・・・桐朋の学年色のしくみを知らない人が聞いたら、いったいどういうことだと思う会話ですねぇ(^^;
葬儀の手伝いをしていた人の中に、中3のときの担任のK先生を見つけたので、「先生、紫の卒業生の加藤木です」と話しかけます。
K先生、「僕も、亡くなったT先生にはお世話になったんだよ・・・子どもたちを連れて合宿に行って、子ども達が僕によじ登ってきたために僕が怪我をしてしまったことがあったんだ。その時にT先生は代わりに僕の荷物を持ってくれた。
それに、子どもたちを連れて山登りに行ったら体調を崩した子が出たときにも、T先生にその子を背負って降りてもらったり・・・。」
なんだ、担いでもらった記憶ばかりだなあ、と思って聞いていると、
「君たちは独身なのか。そうかやっぱり。うちの卒業生は独身が多いねぇ。結婚しても離婚したりねぇ・・・」としみじみK先生。
うーむ

桐朋に最後に行ったのは教育実習をしに行ったときなので、もう10年くらい前。
気になりながら会えなかった人に再会できて、昔を思い出すことができたけど、それがお葬式の場というのは残念。
桐朋に通っていたころに毎日の生活の様子を話していた私の母もすでに亡くなってしまったし、「T先生が亡くなっちゃったよ」「K先生に会ってきたよ」と報告してわかってもらえる人もいないんだなあとしみじみ。(反抗期だったので当時は父とは口をきいておらず

毎年のように親しい人の中から誰か亡くなってしまうし、だんだん、親しい人もいなくなってしまうんだなあと思うと、淋しいですね。
2件のコメント
[C392]
- 2011-08-18
- 編集
[C393] chikaさん
コメントありがとうございました。そうですか、chikaさんはおばあちゃん子だったんですね。ひ孫ちゃんは見せることができたんですね。
親しい人が亡くなると、亡くなったすぐ後も悲しいけど、日常のふとした瞬間に、「ああ、いつもだったらこういう時にはあの人に話をしたのにな」って思う時にすごくさみしいですよね。
昨年は私の大学時代の友人が亡くなったんですが、一緒にゼミの代表をしていた子だったんです。だから今でもゼミの同窓会を開く企画を立てる時につい、その子に電話して相談しようと思ってしまって、「あ、そうか、いないんだった・・・」と気づいて改めて淋しい気持ちになります。
親しい人が亡くなると、亡くなったすぐ後も悲しいけど、日常のふとした瞬間に、「ああ、いつもだったらこういう時にはあの人に話をしたのにな」って思う時にすごくさみしいですよね。
昨年は私の大学時代の友人が亡くなったんですが、一緒にゼミの代表をしていた子だったんです。だから今でもゼミの同窓会を開く企画を立てる時につい、その子に電話して相談しようと思ってしまって、「あ、そうか、いないんだった・・・」と気づいて改めて淋しい気持ちになります。
- 2011-09-02
- 編集
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私自身、母方の祖母が亡くなった時は本当に悲しくて悲しくて・・・
両親が共働きだったので、保育園に預けられ、学校に入れば長期休み中は歩いてすぐの祖母の家に。
実家にいるより、祖母の家にいる事が多かったので、
ひ孫を見せる事が出来て本当に嬉しかったのを覚えています。
最近まで病院通いしていた私ですが、
待合室で高齢のご婦人方の楽しいおしゃべりを聞いていたら、
祖母とそんなに年齢が変わらないご婦人方だったので、
懐かしくなり「おばあちゃんに会いたいよ・・・」と半ベソに。