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- 2015-08-25
- カテゴリ : 未分類
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熊本県水俣に行ってきました
私は昨年度から「We」という雑誌で連載をしているのですが、その雑誌を作っている人や読者が実行委員会をつくって「Weフォーラム」というイベントをやっています。ほとんど毎年やっていて、2012年は福島、2013年は横浜、2014年は再び福島、というように各地で開催しているのですが、今年は熊本県水俣での開催でした。

(美しい水俣の海)
福島で原発事故が起きてから、福島と水俣の共通点が言われ、水俣の教訓を生かせるのではないかと言われることがあります。
私も共通する部分は感じるのですが、それは例えば
・公害問題を引き起こした企業(水俣で海に水銀を流したチッソ、福島の東京電力)は、都心を中心とした便利な生活を成り立たせるためにあった
・立地地域はそれまで農業や漁業以外には働く場所が少ないために出稼ぎに出るなど、家族がずっと一緒に暮らせないこともあったため、働く場ができることは地域の人にとっても大事なことではあった。しかしそれはひとたび事故を起こせば危険な場でもあった。
・地域には原因企業で働いている人も一緒に暮らしているし、働いている人自身も被害に遭っている場合もあって、それぞれの立場で複雑な思いがある
などです。
福島の事故が起きた時、こどもへの放射能の影響が心配されました。しかし結婚していない世代の若い女性たちは「自分たちの健康は大丈夫なのか」「このままここで暮らし続けられるのか」という不安を持っていても自分自身はこどもではないしまだこどもを産んでいる立場でもないために心配される対象から抜け落ちがちになっており、そして不安になっていてもそのことをあまり言葉に出して話す機会も持てないという経験をされたそうです。そこで今は同じ思いを持つ女性たちで集まってアクセサリーを作ったり発信をする活動をしている人たちがいます。
実際のところ、低線量被ばくも含めて放射能による人体や環境への影響がどのように出るのか、まだわからない面も多く、対処の仕方として明確な「正解」がない中で、これからどの地域で生活していくべきなのかなどの生活設計について、放射線量の高い地域に住む人の中には悩みながら暮らしている方も多くいらっしゃるかと思います。そして、その思いを口には出せずにいる方もいらっしゃるかもしれません。
今回の水俣での勉強会は、福島在住の方も参加されて意見交換する場もありました。
水俣出身の女性は、関東で生活していた時、「水俣出身」と名乗ると、「ああ、水俣病の?」と言われることに傷ついてきたそうです。
水俣病は、原因が水銀汚染によるのだと判明するまで「うつるのではないか」という誤解による差別が起こったことがあります。その歴史が今でも水俣に暮らす人を傷つけることがあるのかもしれません。
水俣出身ではない人―特に関東など離れた地域に住む人にとっては、水俣の名を聞くのはこどもの頃に学校で公害病のひとつであると少し習った水俣病のことだけ、ということが多いと思います。だから、水俣という場所を差別したりさげすんだりするつもりではなく、ただ単純に「ああ、水俣病で聞いたことがある地名だな」と思う場合が多いと思いますが、しかしそうやって悪気なく発する言葉が、当事者には差別の言葉と受け取られる場合があるということには、想像力を働かせなければならないと思いました。
今、熊本県内の小学校では5年生の時に水俣病のことを学ぶ機会が作られているそうです。水俣病の原因や歴史、どんな差別があったのかなど、水俣病を患った当事者である語り部から話を聞いたり、現在の水俣のこと(おいしい農作物を作るなどの活動があります)を学ぶことによって、こどもたち同士が水俣病のこと、水俣のことを語り合う機会を持つことができます。そうすることによって、水俣というふるさとをポジティブに捉えていくことにつながっているようです。

(水俣の山間部にあるお茶畑の見学もさせていただきました。)
福島の事故はまだ収束していないという問題が残されていますが、福島に生まれ育った人がふるさとを想うときに辛い気持ちばかりになってしまうことがないように、事故の経過を明らかにしながら、市民が事故のことや自分自身の不安な気持ち、もやもやとした気持などを語り合える場を作っていくことが必要になってくるのかもしれません。
また、東京に住む者としての私にとっては、水俣は都心を中心に使ってきたプラスチック製品を作るために海が汚染されてきたこと、福島は東京で使う電力を作るために原発があって事故によって海も山も汚染されてしまったのだということを心に留め、東京に住む私たちも当事者であることを忘れてはいけないと思っています。

(美しい水俣の海)
福島で原発事故が起きてから、福島と水俣の共通点が言われ、水俣の教訓を生かせるのではないかと言われることがあります。
私も共通する部分は感じるのですが、それは例えば
・公害問題を引き起こした企業(水俣で海に水銀を流したチッソ、福島の東京電力)は、都心を中心とした便利な生活を成り立たせるためにあった
・立地地域はそれまで農業や漁業以外には働く場所が少ないために出稼ぎに出るなど、家族がずっと一緒に暮らせないこともあったため、働く場ができることは地域の人にとっても大事なことではあった。しかしそれはひとたび事故を起こせば危険な場でもあった。
・地域には原因企業で働いている人も一緒に暮らしているし、働いている人自身も被害に遭っている場合もあって、それぞれの立場で複雑な思いがある
などです。
福島の事故が起きた時、こどもへの放射能の影響が心配されました。しかし結婚していない世代の若い女性たちは「自分たちの健康は大丈夫なのか」「このままここで暮らし続けられるのか」という不安を持っていても自分自身はこどもではないしまだこどもを産んでいる立場でもないために心配される対象から抜け落ちがちになっており、そして不安になっていてもそのことをあまり言葉に出して話す機会も持てないという経験をされたそうです。そこで今は同じ思いを持つ女性たちで集まってアクセサリーを作ったり発信をする活動をしている人たちがいます。
実際のところ、低線量被ばくも含めて放射能による人体や環境への影響がどのように出るのか、まだわからない面も多く、対処の仕方として明確な「正解」がない中で、これからどの地域で生活していくべきなのかなどの生活設計について、放射線量の高い地域に住む人の中には悩みながら暮らしている方も多くいらっしゃるかと思います。そして、その思いを口には出せずにいる方もいらっしゃるかもしれません。
今回の水俣での勉強会は、福島在住の方も参加されて意見交換する場もありました。
水俣出身の女性は、関東で生活していた時、「水俣出身」と名乗ると、「ああ、水俣病の?」と言われることに傷ついてきたそうです。
水俣病は、原因が水銀汚染によるのだと判明するまで「うつるのではないか」という誤解による差別が起こったことがあります。その歴史が今でも水俣に暮らす人を傷つけることがあるのかもしれません。
水俣出身ではない人―特に関東など離れた地域に住む人にとっては、水俣の名を聞くのはこどもの頃に学校で公害病のひとつであると少し習った水俣病のことだけ、ということが多いと思います。だから、水俣という場所を差別したりさげすんだりするつもりではなく、ただ単純に「ああ、水俣病で聞いたことがある地名だな」と思う場合が多いと思いますが、しかしそうやって悪気なく発する言葉が、当事者には差別の言葉と受け取られる場合があるということには、想像力を働かせなければならないと思いました。
今、熊本県内の小学校では5年生の時に水俣病のことを学ぶ機会が作られているそうです。水俣病の原因や歴史、どんな差別があったのかなど、水俣病を患った当事者である語り部から話を聞いたり、現在の水俣のこと(おいしい農作物を作るなどの活動があります)を学ぶことによって、こどもたち同士が水俣病のこと、水俣のことを語り合う機会を持つことができます。そうすることによって、水俣というふるさとをポジティブに捉えていくことにつながっているようです。

(水俣の山間部にあるお茶畑の見学もさせていただきました。)
福島の事故はまだ収束していないという問題が残されていますが、福島に生まれ育った人がふるさとを想うときに辛い気持ちばかりになってしまうことがないように、事故の経過を明らかにしながら、市民が事故のことや自分自身の不安な気持ち、もやもやとした気持などを語り合える場を作っていくことが必要になってくるのかもしれません。
また、東京に住む者としての私にとっては、水俣は都心を中心に使ってきたプラスチック製品を作るために海が汚染されてきたこと、福島は東京で使う電力を作るために原発があって事故によって海も山も汚染されてしまったのだということを心に留め、東京に住む私たちも当事者であることを忘れてはいけないと思っています。
- 2015-08-16
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気仙沼ツアー③
気仙沼の旅の報告、最終回です。
3日目は朝から「ヤマヨ水産」に向かいました。
ヤマヨ水産のページはこちら
ヤマヨ水産の復興の経緯が分かる記事はこちら
ヤマヨ水産にお邪魔するのは前回のツアーに続き今回が2回目です。
旅の仲間に「復興・オーナー制度」に参加している方がいて、ご紹介いただいたことがきっかけでした。
今回は前回よりもじっくりと見学、お話できました。

この写真は海から牡蠣の加工場のほうを撮った写真です。小さくて見えづらいので、写真をクリックして拡大してみてください。
真ん中より少し右のほうに建物が見えるかと思いますが、これがヤマヨ水産の加工場。震災後に再建した場所です。この建物の上の丘の中腹に、少しオレンジ色のものが見えるでしょうか。それが置いてあるあたりまで、津波は来たそうです。
それだけの津波ですから、いかだも加工場も住んでいた家もすべて被害にあってしまいました。
職場と家を再建させるためには億におよぶようなお金がかかってしまうような状況。
続けるか辞めるか、悩むような状況の中で、やはり再建させようと決断し始めたのが「復興・オーナー制度」。
ヤマヨ水産を応援したいと思う人は1口1万円を出す。それを元手にしてヤマヨ水産はいかだや加工場を再建させて牡蠣の養殖を再開させる。
このしくみは今でも続いていますが、特に震災当初は従来通りに牡蠣が育つかどうか、育ったとしても放射性物質など影響がないかどうか、まったく分からない状態でのスタートだったわけです。そして万一出荷できない状態だった場合は応援してくれた人にはそれを説明して理解してもらう。牡蠣がうまく育ったら、牡蠣をお返しする。
そんなしくみです。
現在、8月31日までの期間で第3期のオーナー募集中です。

今回も皆で船に乗り、牡蠣の養殖をしている場所の見学をさせていただきました。

ホヤも育てているそうです。
この見学の途中で私は船の上からスマートフォンを落下させました…20メートルくらいの深さがあるそうなので、あきらめるしかないのですが。
ホヤを指でつつくとキュンっと動いて可愛かったので、スマホで動画を撮ったのですが、なくなってしまいました。残念。(ブログに載せている他の写真はカメラで撮っていたものです。)

このいかだの下で牡蠣が育っています。いかだの上にはウミネコが休んでいます。写真の手前、茶色っぽいので見えづらいですが、まだ毛の生えた赤ちゃんがいます。
オーナー制度は設備の復興の手段としておこなわれているだけではなく、消費者との顔の見える関係を作るという意義があるものです。私たちはヤマヨ水産の小松さんのことを思い浮かべながら牡蠣が食べれるし、小松さんたちも牡蠣を食べている人がどんな人か、そして食べて喜んでいる姿を思い浮かべてお仕事ができる。
そのしくみがとてもすてきだなと思って、これからも交流を続けられたらと思っています。
旅の最終日だったこの日は、ヤマヨ水産見学後、フェリーに乗って南町紫市場に戻り、買い物しました。
南町紫市場は今、本設に向けた話し合い、設計などがおこなわれています。
今あるところから少し行った場所で、5階建ての建物の1階と2階の一部が商店街、そこから上は公営住宅というつくりの建物が予定されているそうです。
建物の着工が今年の秋ごろで、着工してから完成まで1年くらいかかるのではないかという見通しだとお聞きしました。
今、復興やオリンピックのことで工事の人手不足や資材不足が起こっており、被災地に限らず全国各地で工事が遅れたり入札が不調となることがあります。そんな状況の中、本設の商店街の工事もやはり遅れ気味であるということを感じました。
また、今仮設商店街に入っている店舗が必ずしも皆本設に移行できるわけではないようです。被災してから5年もの月日が過ぎ、生活の状況が変わっていたり、後継者の問題があったり、これから改めて移転してローンを組んでやっていくことができないという事情があったりするのだと思います。
今回、訪ねるにあたり、あらかじめ参加メンバーでオリエンテーションをしました。
メンバーの中には2011年から継続的に参加してくれている方もいますが、だいたい毎回3分の1は初参加です。
そこで、2012年にNHKで放送された、南町紫市場ができるまでを追ったドキュメンタリー番組を録画しておいたものを改めて皆と視聴しました。
番組で言われていたことを一部紹介します。
仮設商店街を作るにあたっては一定程度、国や自治体からの支援がありますが、それだけでは足りず、商店街がみずから負担しなければならないものもありました。
国の支援のしくみとしては、「気仙沼市が土地を用意し、仮設を建てる申請を国にする→国は市に対して仮設を建てるための支援をする」という流れ。
でも震災直後、市がすべてをやるのを待っていたのではいつになるか分からないので、商店街の人は自分たちで仮設を建てられる土地を探し、それを市に言って承認してもらって建てるということをやりました。
国が仮設を建てる条件として、その土地が更地で整地されている状態である必要があったのですが、予定地は津波で建物が流され、土台がでこぼこと残っている状態の土地でした。そこでまずは更地に戻さないと国の支援は受けられないのですが、更地にするための工事費用は国からも自治体からも出ず、商店街が負担しなければならなかったそうです。その額約150万。
ただこの一点だけでもこれだけ多額の費用がかかってしまうのだから、再建全体を見ればもっともっとたくさんのご苦労をされたかと思います。
一方で、商店街はボランティア団体のように非営利の団体ではないので、ボランティア団体を対象にしたような助成金はなかなか対象にならなかったとも聞きます。
そんなご苦労をうかがっていたため、私は2011年12月に商店街がオープンするにあたり、皆さんにカンパの呼びかけをさせていただいたのでした。
本設に移るにあたってもおそらくはこのようなご苦労が絶えないのではないかと思います。
私たちがお送りしているカンパは2015年6月15日現在、累計で122万770円となっています。この金額は今までずっと貯めて、本設への移行に備えていてくださっているそうです。
少なくとも本設に移動し、落ち着くまではカンパを続けたいと思いますので、どうぞ引き続きのご協力をお願いします。
郵便振り込みで
市民ふくしフォーラム 00130-2-496362
通信欄に「気仙沼募金」とご記入ください。
気仙沼ツアーも今後も定期的に続けていきたいと考えています。
今回はご参加くださった方の中から、「私も今度友人を誘って自分でツアーをやろうと思う」と言って下さった方もいらっしゃり、嬉しかったです。
3日目は朝から「ヤマヨ水産」に向かいました。
ヤマヨ水産のページはこちら
ヤマヨ水産の復興の経緯が分かる記事はこちら
ヤマヨ水産にお邪魔するのは前回のツアーに続き今回が2回目です。
旅の仲間に「復興・オーナー制度」に参加している方がいて、ご紹介いただいたことがきっかけでした。
今回は前回よりもじっくりと見学、お話できました。

この写真は海から牡蠣の加工場のほうを撮った写真です。小さくて見えづらいので、写真をクリックして拡大してみてください。
真ん中より少し右のほうに建物が見えるかと思いますが、これがヤマヨ水産の加工場。震災後に再建した場所です。この建物の上の丘の中腹に、少しオレンジ色のものが見えるでしょうか。それが置いてあるあたりまで、津波は来たそうです。
それだけの津波ですから、いかだも加工場も住んでいた家もすべて被害にあってしまいました。
職場と家を再建させるためには億におよぶようなお金がかかってしまうような状況。
続けるか辞めるか、悩むような状況の中で、やはり再建させようと決断し始めたのが「復興・オーナー制度」。
ヤマヨ水産を応援したいと思う人は1口1万円を出す。それを元手にしてヤマヨ水産はいかだや加工場を再建させて牡蠣の養殖を再開させる。
このしくみは今でも続いていますが、特に震災当初は従来通りに牡蠣が育つかどうか、育ったとしても放射性物質など影響がないかどうか、まったく分からない状態でのスタートだったわけです。そして万一出荷できない状態だった場合は応援してくれた人にはそれを説明して理解してもらう。牡蠣がうまく育ったら、牡蠣をお返しする。
そんなしくみです。
現在、8月31日までの期間で第3期のオーナー募集中です。

今回も皆で船に乗り、牡蠣の養殖をしている場所の見学をさせていただきました。

ホヤも育てているそうです。
この見学の途中で私は船の上からスマートフォンを落下させました…20メートルくらいの深さがあるそうなので、あきらめるしかないのですが。
ホヤを指でつつくとキュンっと動いて可愛かったので、スマホで動画を撮ったのですが、なくなってしまいました。残念。(ブログに載せている他の写真はカメラで撮っていたものです。)

このいかだの下で牡蠣が育っています。いかだの上にはウミネコが休んでいます。写真の手前、茶色っぽいので見えづらいですが、まだ毛の生えた赤ちゃんがいます。
オーナー制度は設備の復興の手段としておこなわれているだけではなく、消費者との顔の見える関係を作るという意義があるものです。私たちはヤマヨ水産の小松さんのことを思い浮かべながら牡蠣が食べれるし、小松さんたちも牡蠣を食べている人がどんな人か、そして食べて喜んでいる姿を思い浮かべてお仕事ができる。
そのしくみがとてもすてきだなと思って、これからも交流を続けられたらと思っています。
旅の最終日だったこの日は、ヤマヨ水産見学後、フェリーに乗って南町紫市場に戻り、買い物しました。
南町紫市場は今、本設に向けた話し合い、設計などがおこなわれています。
今あるところから少し行った場所で、5階建ての建物の1階と2階の一部が商店街、そこから上は公営住宅というつくりの建物が予定されているそうです。
建物の着工が今年の秋ごろで、着工してから完成まで1年くらいかかるのではないかという見通しだとお聞きしました。
今、復興やオリンピックのことで工事の人手不足や資材不足が起こっており、被災地に限らず全国各地で工事が遅れたり入札が不調となることがあります。そんな状況の中、本設の商店街の工事もやはり遅れ気味であるということを感じました。
また、今仮設商店街に入っている店舗が必ずしも皆本設に移行できるわけではないようです。被災してから5年もの月日が過ぎ、生活の状況が変わっていたり、後継者の問題があったり、これから改めて移転してローンを組んでやっていくことができないという事情があったりするのだと思います。
今回、訪ねるにあたり、あらかじめ参加メンバーでオリエンテーションをしました。
メンバーの中には2011年から継続的に参加してくれている方もいますが、だいたい毎回3分の1は初参加です。
そこで、2012年にNHKで放送された、南町紫市場ができるまでを追ったドキュメンタリー番組を録画しておいたものを改めて皆と視聴しました。
番組で言われていたことを一部紹介します。
仮設商店街を作るにあたっては一定程度、国や自治体からの支援がありますが、それだけでは足りず、商店街がみずから負担しなければならないものもありました。
国の支援のしくみとしては、「気仙沼市が土地を用意し、仮設を建てる申請を国にする→国は市に対して仮設を建てるための支援をする」という流れ。
でも震災直後、市がすべてをやるのを待っていたのではいつになるか分からないので、商店街の人は自分たちで仮設を建てられる土地を探し、それを市に言って承認してもらって建てるということをやりました。
国が仮設を建てる条件として、その土地が更地で整地されている状態である必要があったのですが、予定地は津波で建物が流され、土台がでこぼこと残っている状態の土地でした。そこでまずは更地に戻さないと国の支援は受けられないのですが、更地にするための工事費用は国からも自治体からも出ず、商店街が負担しなければならなかったそうです。その額約150万。
ただこの一点だけでもこれだけ多額の費用がかかってしまうのだから、再建全体を見ればもっともっとたくさんのご苦労をされたかと思います。
一方で、商店街はボランティア団体のように非営利の団体ではないので、ボランティア団体を対象にしたような助成金はなかなか対象にならなかったとも聞きます。
そんなご苦労をうかがっていたため、私は2011年12月に商店街がオープンするにあたり、皆さんにカンパの呼びかけをさせていただいたのでした。
本設に移るにあたってもおそらくはこのようなご苦労が絶えないのではないかと思います。
私たちがお送りしているカンパは2015年6月15日現在、累計で122万770円となっています。この金額は今までずっと貯めて、本設への移行に備えていてくださっているそうです。
少なくとも本設に移動し、落ち着くまではカンパを続けたいと思いますので、どうぞ引き続きのご協力をお願いします。
郵便振り込みで
市民ふくしフォーラム 00130-2-496362
通信欄に「気仙沼募金」とご記入ください。
気仙沼ツアーも今後も定期的に続けていきたいと考えています。
今回はご参加くださった方の中から、「私も今度友人を誘って自分でツアーをやろうと思う」と言って下さった方もいらっしゃり、嬉しかったです。
- 2015-07-26
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気仙沼ツアー②
気仙沼の旅2日目は、大島に渡る日でした。朝起きて、気仙沼市内をぐるっと車で回った後、フェリー乗り場へ。大島はフェリーで25分ほどの距離にあります。

(フェリーから見た景色)
到着後、大島中学校のグラウンドにある仮設住宅にお邪魔しました。
ここも、前回からお邪魔して、住民の方からお話をうかがっています。今回も10人近くの方が集会室に集まってくださり、お話を聞かせてくださいました。仮設住宅から公営住宅に移るまではまだしばらくの時間がかかるようです。
(お家なので、残念ですが写真はお見せすることができません。)
その後、食堂で昼食をとり、「おおしまハーティケアセンター」へ向かいました。
ここも前回からお邪魔していますが、高齢者のデイサービスをやっている施設です。
今回は施設の所長さんと地域の児童館の館長さんがギターを練習してくださっていて、それにあわせて皆で歌いました。
練馬から行った、歌の上手なKさんが音頭をとって歌ってくださった場面も。

その後、場所を移動して大島小にある児童館で、館長さんから被災したときの経験を伺いました。

この写真は現在、大島にある「亀山」という山から大島と海を見渡した写真です。
この亀山に登るために、以前はリフトがあったそうなのですが、震災と津波が起きた時に気仙沼に広範囲にわたる火事が起き、亀山も火災が起こってしまってリフトはなくなってしまったそうです。

この写真は、かつてあったリフトに、気仙沼のゆるキャラ・ホヤぼーやが乗っているところです。
児童館長は震災当時は小学校の校長をされていたため、学校での対応に当たられていたということですが、こどもたちが津波の被害にあってしまったと分かったときのつらかったお気持ちなどもお話してくださいました。
思い出すのもつらい経験をお話いただき、感謝しています。
そして亀山に登り、大島を一望。

(亀山にある神社の狛犬。口が「~」のような形で可愛い。)
宿泊先の民宿へ移動しました。

今回宿泊した民宿「みかみ」さんは、この5月にオープンしました。かつて営んでいた民宿は津波の被害にあい、ようやく再建されたそうです。詳しくはこちらの記事をご覧ください。
民宿のご主人から再建にいたるお話を聞いたり、美味しい旬のお魚をいただいて民宿でのひとときを過ごしました。
次回へ続く

(フェリーから見た景色)
到着後、大島中学校のグラウンドにある仮設住宅にお邪魔しました。
ここも、前回からお邪魔して、住民の方からお話をうかがっています。今回も10人近くの方が集会室に集まってくださり、お話を聞かせてくださいました。仮設住宅から公営住宅に移るまではまだしばらくの時間がかかるようです。
(お家なので、残念ですが写真はお見せすることができません。)
その後、食堂で昼食をとり、「おおしまハーティケアセンター」へ向かいました。
ここも前回からお邪魔していますが、高齢者のデイサービスをやっている施設です。
今回は施設の所長さんと地域の児童館の館長さんがギターを練習してくださっていて、それにあわせて皆で歌いました。
練馬から行った、歌の上手なKさんが音頭をとって歌ってくださった場面も。

その後、場所を移動して大島小にある児童館で、館長さんから被災したときの経験を伺いました。

この写真は現在、大島にある「亀山」という山から大島と海を見渡した写真です。
この亀山に登るために、以前はリフトがあったそうなのですが、震災と津波が起きた時に気仙沼に広範囲にわたる火事が起き、亀山も火災が起こってしまってリフトはなくなってしまったそうです。

この写真は、かつてあったリフトに、気仙沼のゆるキャラ・ホヤぼーやが乗っているところです。
児童館長は震災当時は小学校の校長をされていたため、学校での対応に当たられていたということですが、こどもたちが津波の被害にあってしまったと分かったときのつらかったお気持ちなどもお話してくださいました。
思い出すのもつらい経験をお話いただき、感謝しています。
そして亀山に登り、大島を一望。

(亀山にある神社の狛犬。口が「~」のような形で可愛い。)
宿泊先の民宿へ移動しました。

今回宿泊した民宿「みかみ」さんは、この5月にオープンしました。かつて営んでいた民宿は津波の被害にあい、ようやく再建されたそうです。詳しくはこちらの記事をご覧ください。
民宿のご主人から再建にいたるお話を聞いたり、美味しい旬のお魚をいただいて民宿でのひとときを過ごしました。
次回へ続く
- 2015-07-16
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気仙沼ツアー①
6月29日までで区議会の定例会が終わり、7月1日~3日まで2泊3日で宮城県気仙沼に出かけてきました。
2011年12月に気仙沼の仮設商店街・南町紫市場がオープンして以来、カンパをお送りしていますが、ご協力いただいている皆さんにお声かけして、私を含め11名で出かけてきました。
何回かに分けてその様子をご紹介します。
今回は一ノ関まで新幹線で行き、そこからレンタカー2台に分乗して気仙沼に出かけました。
1日目は残念ながら雨でしたが、2日目からはお天気に恵まれました。
初日はまず南町紫市場に向かい、皆好きなお店で昼食をとりました。
ちなみに私は、商店街の会長さんがやっているお寿司屋さん「あさひ鮨」へ。


気仙沼の名物・フカヒレを使ったお寿司があります。
紫市場をすこし見て歩いたあと、同じ気仙沼市内にある仮設商店街「復幸マート」へ移動しました。

2月に練馬で区政報告会を行ったとき、スカイプ(テレビ電話のような形)で気仙沼とつないで、紫市場の方と復幸マートの方とお話をしました。
復幸マートのほうは私はあまり交流がなかったので、この2月の会でご紹介いただいたご縁でつながりを持ちましたので、今回訪ねてきました。

写真は、小野寺商店の小野寺由美子さんと。

この商店街の近くには以前、「共徳丸」という大きな船が津波で打ち上げられていて残っていましたが、今は撤去されてすっかりなくなっており、その後はかさ上げ工事が続けられています。
上の写真は復幸マートの2階から駐車場と向かいの土地を見渡したものですが、向かいの土地が今かさ上げ工事中。5.5メートルまでかさ上げされる予定だそうです。
その後、「リアス・アーク美術館」へと向かいました。

館内を写すことはできませんが、とても良い美術館ですので、気仙沼に行かれる方はぜひ足を運んでみてはと思います。
気仙沼の古くからの歴史(漁業・農業、食文化の歴史など)といった民俗資料もとてもわかりやすいですし、東日本大震災の被災物を展示しているブースもとても充実しています。震災が起こった当初から、美術館の役割と考えて写真などの記録をとることをしてこられたようで、たくさんの写真の展示とエピソードが書かれています。
被災した人のエピソードは、聞き取ったものや収集した被災物から推測されるエピソードをふまえて再構成した「フィクション」としているという注意書きがあります。個人的な経験を人へ伝えるときの配慮として再構成することは必要なのだろうと思います。
直接当事者から聞かなければ分からないような経験をより多くの人が知り、学ぶためには、こうした工夫が必要なのだと思います。震災のことだけでなく、たとえば福祉のことも、当事者にとっての経験や困り事にどんなことがあるのか、知る方法としてこのように事実を再構成しながら人に伝えていく工夫は大事だなと思いながら見学をしてきました。
私がこの美術館に行くのは2度目ですが、内容がとても盛り沢山だし、何度行っても学ぶことのある場だと思っています。
美術館見学の時間を長めにとって、その後は再び紫市場へ。ちょうどこの日は石井里佳さんという方のコンサートがあったので、私たちも一緒に楽しませていただきました。

この日は雨だったので、コンサートはcadoccoというスペースを使って実施。
仮設商店街は南町紫市場に限らず多くの場合、仮設住宅とは地理的に離れていることが多く、地元の人に利用してもらう、たくさんのお客さんに来てもらうことに頭を悩ませていらっしゃると聞きます。紫市場ではこのように定期的にいろいろなイベントを行うことで、お客さんに来てもらう工夫をしていると以前から聞いていたので、こうしたイベントにご一緒できたのも私たちにとって良い経験でした。
その後、南町紫市場内の飲食店で夕飯をいただき、この日は気仙沼プラザホテルに宿泊をして、1日が終わりました。
次回へ続く。
2011年12月に気仙沼の仮設商店街・南町紫市場がオープンして以来、カンパをお送りしていますが、ご協力いただいている皆さんにお声かけして、私を含め11名で出かけてきました。
何回かに分けてその様子をご紹介します。
今回は一ノ関まで新幹線で行き、そこからレンタカー2台に分乗して気仙沼に出かけました。
1日目は残念ながら雨でしたが、2日目からはお天気に恵まれました。
初日はまず南町紫市場に向かい、皆好きなお店で昼食をとりました。
ちなみに私は、商店街の会長さんがやっているお寿司屋さん「あさひ鮨」へ。


気仙沼の名物・フカヒレを使ったお寿司があります。
紫市場をすこし見て歩いたあと、同じ気仙沼市内にある仮設商店街「復幸マート」へ移動しました。

2月に練馬で区政報告会を行ったとき、スカイプ(テレビ電話のような形)で気仙沼とつないで、紫市場の方と復幸マートの方とお話をしました。
復幸マートのほうは私はあまり交流がなかったので、この2月の会でご紹介いただいたご縁でつながりを持ちましたので、今回訪ねてきました。

写真は、小野寺商店の小野寺由美子さんと。

この商店街の近くには以前、「共徳丸」という大きな船が津波で打ち上げられていて残っていましたが、今は撤去されてすっかりなくなっており、その後はかさ上げ工事が続けられています。
上の写真は復幸マートの2階から駐車場と向かいの土地を見渡したものですが、向かいの土地が今かさ上げ工事中。5.5メートルまでかさ上げされる予定だそうです。
その後、「リアス・アーク美術館」へと向かいました。

館内を写すことはできませんが、とても良い美術館ですので、気仙沼に行かれる方はぜひ足を運んでみてはと思います。
気仙沼の古くからの歴史(漁業・農業、食文化の歴史など)といった民俗資料もとてもわかりやすいですし、東日本大震災の被災物を展示しているブースもとても充実しています。震災が起こった当初から、美術館の役割と考えて写真などの記録をとることをしてこられたようで、たくさんの写真の展示とエピソードが書かれています。
被災した人のエピソードは、聞き取ったものや収集した被災物から推測されるエピソードをふまえて再構成した「フィクション」としているという注意書きがあります。個人的な経験を人へ伝えるときの配慮として再構成することは必要なのだろうと思います。
直接当事者から聞かなければ分からないような経験をより多くの人が知り、学ぶためには、こうした工夫が必要なのだと思います。震災のことだけでなく、たとえば福祉のことも、当事者にとっての経験や困り事にどんなことがあるのか、知る方法としてこのように事実を再構成しながら人に伝えていく工夫は大事だなと思いながら見学をしてきました。
私がこの美術館に行くのは2度目ですが、内容がとても盛り沢山だし、何度行っても学ぶことのある場だと思っています。
美術館見学の時間を長めにとって、その後は再び紫市場へ。ちょうどこの日は石井里佳さんという方のコンサートがあったので、私たちも一緒に楽しませていただきました。

この日は雨だったので、コンサートはcadoccoというスペースを使って実施。
仮設商店街は南町紫市場に限らず多くの場合、仮設住宅とは地理的に離れていることが多く、地元の人に利用してもらう、たくさんのお客さんに来てもらうことに頭を悩ませていらっしゃると聞きます。紫市場ではこのように定期的にいろいろなイベントを行うことで、お客さんに来てもらう工夫をしていると以前から聞いていたので、こうしたイベントにご一緒できたのも私たちにとって良い経験でした。
その後、南町紫市場内の飲食店で夕飯をいただき、この日は気仙沼プラザホテルに宿泊をして、1日が終わりました。
次回へ続く。
- 2015-07-14
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