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東京ゴミトラ物語・メリーちゃん/加藤木雅義
(1995年作品)
こんどの配置異動で、私の担当地区が浅草にきまったとき、「山谷のドヤ街でクラクションを鳴らしたら駄目だぞ」と前任者のキィちゃんに注意を受けた。
もう少し進めば、ごみの集積所にたどり着けるのに、労務者がたむろしていてなかなか先に進むことができない。
「どいて欲しくて軽く、『ピッ、ピッ』と鳴らしただけなんだ。そしたら、『うるせえナ』、『なんだよォ』と清掃車が取り囲まれるじゃないの。もう、肝を潰しちゃって―。奴ら、ヒマなものだからすぐに寄ってくるからナ」
浅草に配置されると一日おきに山谷地区を回ることになる。泪橋の交差点に通じる大通りはスムーズに作業できるのだが、横丁に入ればたちまち労務者の人通りが多くなってノロノロ運転が続く。
山谷の朝は早い。
朝6時半頃までに手配師や職安に引かれなければ、もうその日はアブレということになってしまう。アブレの原因といえばそれぞれで、仕事が気に入らず自分の方が断ってしまう場合もあるが、頑健な若者だけが選ばれて年配者だけが置き去りにされるケースは多い。近頃は、長引く不況で求人数は激減しているはずで、働く側に職を選択している余裕はないだろう。アブレてたむろしている者たちの年齢の高さがそれを物語ってもいる。清掃車がこの路地に入り込むのは朝の9時近くだから、この時間にブラブラしているのは、みんなアブレた者たちの群れだった。
パチンコ屋の裏手から角を曲がり、ひとしきり労務者の群れをやりすごすと、目立って人だまりの多い小道に出る。ここは日当たりがよく、冬場になると手持ちぶさたのアブレ者たちが自然に集まってしまう場所となっている。めったに車が出入りしないことが幸いしているかもしれない。車道と歩道を区切る低い段差の上にすわり込んで談笑する者や、ただ佇んでいるだけの者もいる。足元にワンカップや缶ビールの飲みかけが置いてあるのが、朝のひとときを華やかに見せている。
キィちゃんがトラブルに巻き込まれたというのは、たぶん、この通りのことだったのだろう。
その難関を抜けると、泪橋の交差点に通じる大通りに清掃車は顔を出す。通りの真向かいに有名なマンモス交番が見える。今でこそ聞くことはなくなったが、25年くらい前までは山谷の暴動が頻々とおこり、暴徒による投石の標的になることで有名な交番だった。間口は普通なのにどうして「マンモス」なのかわからなかったが、留置所があって奥行きがあるためにそう呼ばれている、と教えてもらった。どうもミニ警察署としての機能を備えているらしい。
そのマンモス交番から数メートル浅草側に寄ったところに、かつて私が常宿としていたドヤ(簡易宿泊所)の「パレスホテル」が建っている。皇居の向かい側に同じ名のホテルがあるが、もちろん、それとは全然関係のない経営のはずだ。
私はその日、山谷の住人になりたいと思ってバッグひとつで家を出たものの、泊まる場所が定まらない。木造二階建てのドヤ街を何軒まわっても、すべて「いっぱい」だと断られていた。世間知らずだった私は、ちょうど年の暮れであったことに気づかずにいたのである。建設や土木工事の現場はこのころから一斉に正月休みに入る。それで居食つきの飯場を追い出された者たちが、馴染みのドヤに戻ってくる時期と重なっていたのだ。
当時のドヤでは珍しい鉄筋4階建ての「パレスホテル」は、収容人員も大きかったためか、私が入り口に立つと、「はい、どうぞ」とあっさり部屋に迎え入れてくれた。
19歳の冬のことだった。
1泊300円足らずの相部屋は、壁際にそって下2台、上2台からなる二段ベッドがしつらえてあり、それが両壁に並んでいるから8名が寝泊まりできるものだった。宿泊人の出入りが激しいためか部屋の先客たちは、新参者が入ってきてもベッドの中でめいめいの姿勢をとっているだけで特別な関心をよこさなかった。そのことに、とりあえず私は安堵していた。
案内された寝台の東部には小さな板が張ってあって、そこに私はバッグを置いた。ベッドだけが自分のスペースで、一部屋に8軒長屋があるようなものである。
長屋の半数は常宿者で、それ以外は顔ぶれが毎日のように変わるらしく、それでも部屋としては平均的なもののようだ。
私の隣りの寝台で暮らす今井は、関西地方で傷害事件を引き起こした兇状持ちで、ここに逃げ込んできたという。俗に言う住所不定。山谷では、防寒服に作業ズボンが定番のユニホームなのに、彼がノーネクタイのスーツ姿で山谷の街を歩くさまは異質で、どう見ても組のおニイさんとしか思えない。エンジ色の遊び人風に仕立てたスーツを袖を通さずに引っかけて歩くものだから、ドヤ街の連中でさえよけて通るのがおかしかった。
今井の向かいにいるクモ公と呼ばれたじいさんは、「俺ァ、今はこんなだけど昔は―」とだれにでも同じことを言うために、同宿者から軽んじられている人だった。
「おい、アンちゃん、もう聞かされたのか?」と投宿して二日目に、始めて口を利いてくれたのはヤクザの今井だった。私を常宿者と認めたためだろう。彼によると、新参者はクモ公の昔話の洗礼を受けるのがこの部屋のしきたりになっているらしい。
クモ公は、自分は浪曲師・桃中軒雲右衛門の弟子で、かつては「雲坊」と名乗っていたと自称する。それが「クモ公」などという呼び名に変わってしまうのだから、だれも信用していないことは私にも理解はできた。だが私は一方で、浪曲師などという時代がかった職業を自慢することに妙なリアリティを感じていて、彼の身の上話にちょっと信頼を寄せてもいた。
「それほど言うなら、ここで一曲やれよ」
クモ公が、予想したとおりに私に向かって語り始めたとき、待ち構えた今井がニヤついてそう言った。
「えッ、い、いや、アタシは三味線が無いと―」と何故かクモ公は慌てふためいて答える。
「そういえば、講談と浪曲の違いは一体何なの?」日頃から疑問に思っていたことを私がぶつけると、彼は、「あれは同じもンで、節をつけると浪曲で、つけないと講談になるんだ」と立派に答える。なのに、「なら、講談だったら三味線なしでもできるじゃないか。それでいいからやってみてくれよ」と今井が横からニヤニヤすると、「いや、アタシは浪曲師だから、違うことはどうも―」と防戦に必死になるから不思議だった。
「でも、今、オメエは浪曲と講談は同じだと言ったじゃアないか。できないのか?」
「違うことをすると芸が荒れるもんで」
残念ながら、クモ公の言う<芸>というものを誰も聴いた者はいない。
力が弱くて、工事現場でツルハシを持たせても役に立たない。今は機械化が進んで道路を掘るのもショベルカーがやってしまうが、当時はまだ人力でツルハシを打ち込む作業が主流であった。
このツルハシは実際に持ってみるとけっこうな重さがある。その重さと振り下ろす力とが合わさって地面につき刺さるようになっているらしいのだが、地面に達した瞬間に手元がしっかりしていないと金属部分の重みでツルハシが横倒しになってしまう。非力なクモ公がそれだった。重さにたえかねたようにヨロヨロと振りかぶり、ようやくの思いで打ち降ろす。するとバタッとツルハシが倒れる。それを懸命に立ち直らせてまた振り上げる。打ち降ろすとツルハシがバタッ。このくり返しでちっとも仕事が進まない。
ネコと呼ばれた一輪車。これもまた当時の工事現場にはつきものの道具だった。物を積んで運ぶのも、一輪車だから狭い足場を簡単にすり抜けられる。だが、動かすためにはバランス感覚が必要となる。
もちろん、クモ公にはそんなものの持ち合わせはない。ブロックをいっぱい積んで動き出したとたん、ヨロヨロとよろけてあっというまに道路にぶちまけてしまう。拾って積み込んで再び動き出すとゴロン。そんなことばかりだった。
芸人というのは力が無いのが特徴で、労働に適さない人間が自分の生きる道を求めて、昔は芸人になると聞いていた。私は彼のこうした只ならぬ力の無さから、やっぱり芸人だったのではないかと思い込んでしまうくらいだった。
そして、私の寝台の上には田中さんが住んでいた。五十歳を超えたように見える彼は実直な雰囲気のままで、「自分は出稼ぎ者で、田舎に帰らずに山谷に居ついてしまった」と言った。
今では「出稼ぎ」という言葉を聞くことも少なくなったが、そのころはまだ都会と農村の貧富の差は大きく、田圃が雪に埋まる農閑期には、とうちゃんが現金収入を得るために東京の工事現場にやってくることは少なくなかった。ところがそれに付随して、都会の刺激的な生活に触れてしまったとうちゃんが、そのまま田舎と家族を棄てて音信不通になってしまうということを新聞の三面記事が報じたりもしていた。
東北本線の発着する上野駅から、三つ目に山谷地区に通じる駅がある。出稼ぎ者の行き着く先としては絶好の交通の便といえる。田舎を棄てた者の多くは、都会人になりきれずに山谷に落ち込んでドヤ街の住人になったりする。
どうしてこの人が家族を―と思うほど田中さんは家族を棄てるにふさわしくない人のように、私には見えた。
その朝、クモ公が風邪をひいた。普通の風邪なのだが、年齢のためにこたえるらしく、シワクチャな顔が赤い。咳をまき散らして寝台の中で唸っている。
「ばい菌をまき散らしてみんなにうつすんじゃねェぞ」と今井が同情もしないで怒鳴った。明日をも知れない山谷で体が動かなくなることは、そのまま「死」を連想させるともいえる。今井の言葉は、ここに住む誰もが持っている密かな恐怖であることを知ったうえでの罵声でもある。
「おい、どうした。仕事を探しに行くぞ」
今度は、グズグズしている田中さんを認めて今井はさらに苛ついた。
「そんな奴ァ、看病したって恩返しするようなタマじゃァないんだぞ」田中さんの気持ちを先回りするかのように毒づいた。
「こいつが、人の情けなんてわからない人間だということぐらい、アンタだって知っているだろうに」
だが、どうせ仕事もみつからないこと、だから今日は休むことを、田中さんは今井の顔を見ずに言っていた。
「どうせ仕事も見つからない」と言ったが、彼の仕事ぶりはヤマ(山谷)の人間にしては堅実で、それを知っている手配師から引く手あまたなのを、私は後で知らされる。
「くたばる奴はくたばってしまえばいいンだ。それを承知でこの稼業をやっているんだからナ。アンタ、バカじゃないのか」と今井がぷりぷりして部屋を出て行った。
その日、私が仕事を終えて帰ると、クモ公は、田中さんの首に巻き付いていたタオルを額にのせて眠っていた。もう最盛期を越えたことは、その静かな寝息で分かる。田中さんの姿はなく、クモ公の荷物置きに湯気で袋が張り付いてしまった冷たいタイ焼きが置いてあった。
あっという間のことだったという。田舎に帰らなくなって、気がつくと十年の歳月が流れていた。
「金でもいっぱい持って帰れればいいだけンど、こんな恰好で今さらどんな顔で帰ればいいと思う?」と田中さんは寝台に横になったままで言う。一年帰らなかったら帰りそびれて、気になりながらまた一年が過ぎ、そして十年になった。
「段々と年を喰ってきたせいか、考えるのはクニのことばかりなンだ」
ヤマの労務者に企業の側はあまり期待をしていない。ここにくる仕事といえば、「この鉄筋をあっちの場所に移して」と指示されたのを一日がかりで片付けたり、鳶のそばに控えていて、「あれを取ってくれ」と言われたら指された道具を手渡す、業界でいう「手元」という単純な作業が多い。それが却っておもしろくて、私はあちこちを出歩くようになっていた。もういっぱしにヤマの人間になったつもりになっていたのだ。私の心が外に向かうのと比例するように、そのころから田中さんは仕事に出ずに、寝台の中にいる時間が多くなっていた。
確か、岡林信康が「山谷ブルース」を唄ったのは昭和43年のころで、私が山谷を訪れる3年前のことだった。
歌の世界では、ビートルズの来日で端を発したグループサウンズの波が去り、フォークソングのブームが到来していた。専業の作詞家や作曲家が作った曲を歌手が唄うという分業の伝統を覆すかのように、自作自演の歌手が次々とデビューして、フォークソングが一分野を担うようになっていた。現在の歌謡界の主流になったシンガーソングライターのはしりといえばよいのだろうか。
専門家という他人ではなく、自分自身が作るのだから、当然、曲には自分の主張や思いが表れて、今まであり得なかったような反体制の歌も出回り始めていた。それがまた70年安保を目前として騒然とする世の若者達に広く支持される。その旗頭と目されていたのが〈アングラフォーク〉の岡林信康だった。
その対極に位置して身辺雑記風な歌で登場した井上陽水や吉田拓郎はそれから数年後になるから、社会に対してメッセージを送り続ける岡林は「フォークの神様」として注目を集めるようになっていた。
きょうの仕事はつらかった
あとは焼酎をあおるだけ
どうせ どうせ 山谷のドヤ住まい
他にやること ありゃしねえ
「山谷ブルース」は、働く者の姿を、それも世間が顧みることのない山谷の労務者にスポットをあてた刺激的な歌だったが、岡林はこの曲でメジャーになってしまった。
今でいうキャンペーンの一貫だったのか、彼は、山谷にある玉姫公園でコンサートを開く。こんなことも歌の世界では画期的な出来事だった。
きょうの仕事はつらかった
あとは焼酎をあおるだけ―
と唄ったところで、公園に集まった労務者から声があがった。
「おーい、山谷の連中は焼酎なんか呑んでないぞ」
「俺たち、毎晩、スコッチだもんね」
アハハハ。
思いがけない野次だった。しかし、いったんは立ち往生したが、岡林はひるまなかった。
「ウルセェッ」と壇上で叫ぶと、「黙って聴けッ」と演奏を続行したのだという。無料のコンサートだったのだろう。その気易さで叫んだに違いない。
だが、それを伝え聞いたファンは岡林のその行為に快哉の声を挙げた。
「岡林が山谷の人間を黙らせたンだって」
「へぇー、かっこいい」
今のように芸能マスコミが発達していなかったし、フォーク歌手の大部分はテレビに出演することはなかった。彼らの動静を知るのは直接コンサートに出向くしかなかった時代だった。岡林のこの武勇伝は、私にも口コミで伝わってきた。
聴衆に罵声を浴びせる歌手なんて初めてだった。このことで「フォークの神様」たる岡林信康の伝説は、若者たちの間で益々増大してゆくのである。
だが、私の受け止め方は少し違っていた。黙らせたことに感心するよりもむしろ、山谷のことを唄っていながらその当人たちに受け入れられなかったことにショックを感じていたのである。
どうして受け入れられないのだろうか。出だしは確かに暗いが、歌は終盤にさしかかると、いつか働く者の世の中が来るから、そのときは「一緒に泣こうぜ、嬉し泣き」と転換がなされている。辛いことや苦しいことを冒頭に置き、最後に明るさを持って来るうまいつくりになっている。
もっとも、働く者の世の中が来ることを〈明るさ〉とすることが違っているのかもしれない。山谷の反発がそれを表していないか、とそう思った。
私が山谷で暮らしたいと考えたのは、岡林の歌とその住人たちのギャップを自分の目で確かめたいと思ったためだった。
田中さんが仕事に出ないで部屋にこもりっきりなのは、これを訊き出すには好都合だった。一日中じっくりと話ができるチャンスだと思えたからである。
だが彼は、「岡林信康」という名前におぼえが無いという。山谷の歌を唄って、玉姫公園でコンサートをやった、と説明したところでようやく思い出したくらいだった。
「あの人は、山谷の人間をみじめに唄っているから―」とハナから否定的に言った。「いくら俺たちがみじめだからって、ことさらに強調することはないよナ。あの歌をはじめて聴いたとき、ヤマの人間が唄ってるんじゃないなと思ったよ」
そんなことは、全部を聴いてみなければわからない、と私は執拗と思えるほど田中さんに言い続けた。ただの歌でしかないものに、どうしてここまでのめり込んだのか、自分でも説明がつかない。私は二人きりの部屋のなかで、「山谷ブルース」を最後まで唄うことにしてみた。
「―アンちゃん、歌がうまいじゃないか。他に何か唄ってくれよ」
唄い終わると田中さんは寝台に伏せたままで、私の思惑と違うことを要求していた。世間の学生や若者たちは働く者の世の中が来ることを新して騒動を起こしているが、そんなことは田中さんにとってはどうでも良いことなのは、その反応にあらわれている。
「未だ、コウチャクジョウタイが続いております」
他の部屋から浅間山荘事件の実況が聞こえてくる。アブれた人間が携帯ラジオを聴いているらしい。警察に追われた連合赤軍が楽器会社の保養所に逃げ込んで、三日前から立て籠もっている。働く者の世の中を信じた若者たちが、銃を持って機動隊と対峙しているのだ。現場でもドヤでもこの話にもちきりになっているが、しかしそれは、犯人がいつ逮捕されるかの興味でしかなかった。
歌の得意でない私は田中さんのリクエストに困っていたが、寺山修司作詞の「花いちもんめ」を唄うことにした。
わたしゃ 酒場の泣き女
誰か悲しいひとがいりゃ
そばで代わりに泣いてやる 涙まとめて
花いちもんめ
花いちもんめ
という出だしで始まる曲は浅川マキという歌手が唄ったが、あまり知る人はいない。
「ある日、男がやってきて、黙って酒を飲んでいた」
訊くと男は船乗りで
海から帰ってきたならば
女房が男と逃げていた
(中略)
それで、女は男の身の上にほだされる。
その夜二人は深い仲
かもめ倉庫の藁束で
あたしは恋をしちまった
「ところが朝起きたら、男は何処へ言ったか、消えちまって、酒の飲み代踏み倒し」
酒場の主人の言うことにゃ
あれは知られたペテン師で
ただ酒飲みのすけこまし
そして、冒頭のフレーズが重なる。
わたしゃ 酒場の泣き女
人のためには泣くけれど
自分のことでは泣かれよか
「そりゃ違うよ!」と田中さんが私の歌声を引き裂くように突然叫んだ。びっくりして彼を振り仰ぐと、布団の中で目に一杯涙をためている。
「違うんだよ―」
いや、これはただの歌で、作り物で、違うのはわかってるんだ、と慌てて言っても聞き入れてくれない。どうも彼は、歌の登場人物に肩入れしてしまったようだ。自分たちのことを唄っている「山谷ブルース」のときとは大きく違う反応に、私は戸惑っていた。それでいながら、ありもしない酒場女に思わず同情してしまう田中さんの心持ちの方に惹かれてもいた。
最近、彼が床に伏せがちになっていることが、このとき何だかわかったような気がしていた。
それから数日後の朝だった。
はじめは何が起きているのかわからなかった。パレスホテルの従業員が部屋に来たと思ったら、慌てた様子で走り去っていく。それから十数分後に、下の通りに救急車がやってきたのがサイレンの停止でわかった。
田中がおかしいらしい―
今井が口を開いた。上の寝台を覗くと、田中さんが布団の中で目を開けたままで寝ている。
「田中さん―」
呼びかけても目が動かない。血色は良く、呼吸もあるが表情が動かないのだ。たまったドヤ賃の請求に来た係員が、田中さんの異変に気づいたらしい。
やがて、白いヘルメット姿の救急隊員が一人で部屋に入って来た。ツカツカと寝台に歩み寄ると、「おい、歩いて行けるんだろッ」よく通る命令口調で呼びかけた。「歩けるんだろッ」もう一度言うと、「はい、歩けます―」我に返った田中さんが小さな声で応える。
「なら、降りた、降りた」すべてが命令口調だ。山谷の人間にナメられたくないとでも思っているのか、救急隊員の物腰は横柄な態度にあふれている。
なぜ担架を用意しない。田中さんが山谷の人間だからなのか。私は気づかないうちに隊員の横顔を睨んでいた。
どうしてみんなは怒らないのだろうか。岡林を野次った奴はどこへ行ったンだろう。ずっと後に、キイちゃんの清掃車を取り囲んだ奴らは一体どこにいるのか。
ヤクザの今井はぼうっと見守っているだけだし、田中さんに恩義のあるクモ公は自分の寝台の上で見て見ぬふりをしている。
寝台のはしごを伝わって、田中さんが降りてくると、「じゃァ、こっち」と言う隊員に促されて歩いて部屋を出て行った。しばらくすると下の道路からサイレンが遠ざかるのが聞こえた。
―歌なんか唄わなければよかった。私の歌声が田中さんの寂しさを募らせてしまった、と考えるのは思い過ごしなのだろうか。
それから数ヵ月後、私は駅からドヤ街に通じる道を今井とその呑み仲間と歩いていた。
「今井さん―」私は前へ行く彼を呼び止める。面倒な顔で振り返ったのを待って、「田中さん、どうしてるかな?」と、訊いても無駄なことを言ってみた。歩いて救急車に乗ったことを思うと、彼は普通の病院に連れて行かれたのではない、と私は直感していた。
ノイローゼ。精神病院に持って行かれたなら、引受人もいない人間はおいそれと外には戻されないだろう。その不安が私の質問になっていた。けれど、うまく言えない。
「何だお前、そんなこと考えていたのか。大丈夫だよ、病院で元気にしてるよ」と軽く言って、今井は前で待つ仲間の方に行ってしまった。
そんないい加減ナ―。残された私はひとりでつぶやいていた。「病院で」そして「元気に」という言い方の矛盾が、場当たり的な答でしかないことを表している。
そのまま浮かない顔をして歩いていると、先のほうで急に今井が歩みを止めた。振り返った彼に追いつくと、今井は、「大丈夫だよ。病院で元気にしてるよ」と再び言った。言葉は同じだったが、今度は私の右肩を拳骨で乱暴に叩いた。
(以下略)
こんどの配置異動で、私の担当地区が浅草にきまったとき、「山谷のドヤ街でクラクションを鳴らしたら駄目だぞ」と前任者のキィちゃんに注意を受けた。
もう少し進めば、ごみの集積所にたどり着けるのに、労務者がたむろしていてなかなか先に進むことができない。
「どいて欲しくて軽く、『ピッ、ピッ』と鳴らしただけなんだ。そしたら、『うるせえナ』、『なんだよォ』と清掃車が取り囲まれるじゃないの。もう、肝を潰しちゃって―。奴ら、ヒマなものだからすぐに寄ってくるからナ」
浅草に配置されると一日おきに山谷地区を回ることになる。泪橋の交差点に通じる大通りはスムーズに作業できるのだが、横丁に入ればたちまち労務者の人通りが多くなってノロノロ運転が続く。
山谷の朝は早い。
朝6時半頃までに手配師や職安に引かれなければ、もうその日はアブレということになってしまう。アブレの原因といえばそれぞれで、仕事が気に入らず自分の方が断ってしまう場合もあるが、頑健な若者だけが選ばれて年配者だけが置き去りにされるケースは多い。近頃は、長引く不況で求人数は激減しているはずで、働く側に職を選択している余裕はないだろう。アブレてたむろしている者たちの年齢の高さがそれを物語ってもいる。清掃車がこの路地に入り込むのは朝の9時近くだから、この時間にブラブラしているのは、みんなアブレた者たちの群れだった。
パチンコ屋の裏手から角を曲がり、ひとしきり労務者の群れをやりすごすと、目立って人だまりの多い小道に出る。ここは日当たりがよく、冬場になると手持ちぶさたのアブレ者たちが自然に集まってしまう場所となっている。めったに車が出入りしないことが幸いしているかもしれない。車道と歩道を区切る低い段差の上にすわり込んで談笑する者や、ただ佇んでいるだけの者もいる。足元にワンカップや缶ビールの飲みかけが置いてあるのが、朝のひとときを華やかに見せている。
キィちゃんがトラブルに巻き込まれたというのは、たぶん、この通りのことだったのだろう。
その難関を抜けると、泪橋の交差点に通じる大通りに清掃車は顔を出す。通りの真向かいに有名なマンモス交番が見える。今でこそ聞くことはなくなったが、25年くらい前までは山谷の暴動が頻々とおこり、暴徒による投石の標的になることで有名な交番だった。間口は普通なのにどうして「マンモス」なのかわからなかったが、留置所があって奥行きがあるためにそう呼ばれている、と教えてもらった。どうもミニ警察署としての機能を備えているらしい。
そのマンモス交番から数メートル浅草側に寄ったところに、かつて私が常宿としていたドヤ(簡易宿泊所)の「パレスホテル」が建っている。皇居の向かい側に同じ名のホテルがあるが、もちろん、それとは全然関係のない経営のはずだ。
私はその日、山谷の住人になりたいと思ってバッグひとつで家を出たものの、泊まる場所が定まらない。木造二階建てのドヤ街を何軒まわっても、すべて「いっぱい」だと断られていた。世間知らずだった私は、ちょうど年の暮れであったことに気づかずにいたのである。建設や土木工事の現場はこのころから一斉に正月休みに入る。それで居食つきの飯場を追い出された者たちが、馴染みのドヤに戻ってくる時期と重なっていたのだ。
当時のドヤでは珍しい鉄筋4階建ての「パレスホテル」は、収容人員も大きかったためか、私が入り口に立つと、「はい、どうぞ」とあっさり部屋に迎え入れてくれた。
19歳の冬のことだった。
1泊300円足らずの相部屋は、壁際にそって下2台、上2台からなる二段ベッドがしつらえてあり、それが両壁に並んでいるから8名が寝泊まりできるものだった。宿泊人の出入りが激しいためか部屋の先客たちは、新参者が入ってきてもベッドの中でめいめいの姿勢をとっているだけで特別な関心をよこさなかった。そのことに、とりあえず私は安堵していた。
案内された寝台の東部には小さな板が張ってあって、そこに私はバッグを置いた。ベッドだけが自分のスペースで、一部屋に8軒長屋があるようなものである。
長屋の半数は常宿者で、それ以外は顔ぶれが毎日のように変わるらしく、それでも部屋としては平均的なもののようだ。
私の隣りの寝台で暮らす今井は、関西地方で傷害事件を引き起こした兇状持ちで、ここに逃げ込んできたという。俗に言う住所不定。山谷では、防寒服に作業ズボンが定番のユニホームなのに、彼がノーネクタイのスーツ姿で山谷の街を歩くさまは異質で、どう見ても組のおニイさんとしか思えない。エンジ色の遊び人風に仕立てたスーツを袖を通さずに引っかけて歩くものだから、ドヤ街の連中でさえよけて通るのがおかしかった。
今井の向かいにいるクモ公と呼ばれたじいさんは、「俺ァ、今はこんなだけど昔は―」とだれにでも同じことを言うために、同宿者から軽んじられている人だった。
「おい、アンちゃん、もう聞かされたのか?」と投宿して二日目に、始めて口を利いてくれたのはヤクザの今井だった。私を常宿者と認めたためだろう。彼によると、新参者はクモ公の昔話の洗礼を受けるのがこの部屋のしきたりになっているらしい。
クモ公は、自分は浪曲師・桃中軒雲右衛門の弟子で、かつては「雲坊」と名乗っていたと自称する。それが「クモ公」などという呼び名に変わってしまうのだから、だれも信用していないことは私にも理解はできた。だが私は一方で、浪曲師などという時代がかった職業を自慢することに妙なリアリティを感じていて、彼の身の上話にちょっと信頼を寄せてもいた。
「それほど言うなら、ここで一曲やれよ」
クモ公が、予想したとおりに私に向かって語り始めたとき、待ち構えた今井がニヤついてそう言った。
「えッ、い、いや、アタシは三味線が無いと―」と何故かクモ公は慌てふためいて答える。
「そういえば、講談と浪曲の違いは一体何なの?」日頃から疑問に思っていたことを私がぶつけると、彼は、「あれは同じもンで、節をつけると浪曲で、つけないと講談になるんだ」と立派に答える。なのに、「なら、講談だったら三味線なしでもできるじゃないか。それでいいからやってみてくれよ」と今井が横からニヤニヤすると、「いや、アタシは浪曲師だから、違うことはどうも―」と防戦に必死になるから不思議だった。
「でも、今、オメエは浪曲と講談は同じだと言ったじゃアないか。できないのか?」
「違うことをすると芸が荒れるもんで」
残念ながら、クモ公の言う<芸>というものを誰も聴いた者はいない。
力が弱くて、工事現場でツルハシを持たせても役に立たない。今は機械化が進んで道路を掘るのもショベルカーがやってしまうが、当時はまだ人力でツルハシを打ち込む作業が主流であった。
このツルハシは実際に持ってみるとけっこうな重さがある。その重さと振り下ろす力とが合わさって地面につき刺さるようになっているらしいのだが、地面に達した瞬間に手元がしっかりしていないと金属部分の重みでツルハシが横倒しになってしまう。非力なクモ公がそれだった。重さにたえかねたようにヨロヨロと振りかぶり、ようやくの思いで打ち降ろす。するとバタッとツルハシが倒れる。それを懸命に立ち直らせてまた振り上げる。打ち降ろすとツルハシがバタッ。このくり返しでちっとも仕事が進まない。
ネコと呼ばれた一輪車。これもまた当時の工事現場にはつきものの道具だった。物を積んで運ぶのも、一輪車だから狭い足場を簡単にすり抜けられる。だが、動かすためにはバランス感覚が必要となる。
もちろん、クモ公にはそんなものの持ち合わせはない。ブロックをいっぱい積んで動き出したとたん、ヨロヨロとよろけてあっというまに道路にぶちまけてしまう。拾って積み込んで再び動き出すとゴロン。そんなことばかりだった。
芸人というのは力が無いのが特徴で、労働に適さない人間が自分の生きる道を求めて、昔は芸人になると聞いていた。私は彼のこうした只ならぬ力の無さから、やっぱり芸人だったのではないかと思い込んでしまうくらいだった。
そして、私の寝台の上には田中さんが住んでいた。五十歳を超えたように見える彼は実直な雰囲気のままで、「自分は出稼ぎ者で、田舎に帰らずに山谷に居ついてしまった」と言った。
今では「出稼ぎ」という言葉を聞くことも少なくなったが、そのころはまだ都会と農村の貧富の差は大きく、田圃が雪に埋まる農閑期には、とうちゃんが現金収入を得るために東京の工事現場にやってくることは少なくなかった。ところがそれに付随して、都会の刺激的な生活に触れてしまったとうちゃんが、そのまま田舎と家族を棄てて音信不通になってしまうということを新聞の三面記事が報じたりもしていた。
東北本線の発着する上野駅から、三つ目に山谷地区に通じる駅がある。出稼ぎ者の行き着く先としては絶好の交通の便といえる。田舎を棄てた者の多くは、都会人になりきれずに山谷に落ち込んでドヤ街の住人になったりする。
どうしてこの人が家族を―と思うほど田中さんは家族を棄てるにふさわしくない人のように、私には見えた。
その朝、クモ公が風邪をひいた。普通の風邪なのだが、年齢のためにこたえるらしく、シワクチャな顔が赤い。咳をまき散らして寝台の中で唸っている。
「ばい菌をまき散らしてみんなにうつすんじゃねェぞ」と今井が同情もしないで怒鳴った。明日をも知れない山谷で体が動かなくなることは、そのまま「死」を連想させるともいえる。今井の言葉は、ここに住む誰もが持っている密かな恐怖であることを知ったうえでの罵声でもある。
「おい、どうした。仕事を探しに行くぞ」
今度は、グズグズしている田中さんを認めて今井はさらに苛ついた。
「そんな奴ァ、看病したって恩返しするようなタマじゃァないんだぞ」田中さんの気持ちを先回りするかのように毒づいた。
「こいつが、人の情けなんてわからない人間だということぐらい、アンタだって知っているだろうに」
だが、どうせ仕事もみつからないこと、だから今日は休むことを、田中さんは今井の顔を見ずに言っていた。
「どうせ仕事も見つからない」と言ったが、彼の仕事ぶりはヤマ(山谷)の人間にしては堅実で、それを知っている手配師から引く手あまたなのを、私は後で知らされる。
「くたばる奴はくたばってしまえばいいンだ。それを承知でこの稼業をやっているんだからナ。アンタ、バカじゃないのか」と今井がぷりぷりして部屋を出て行った。
その日、私が仕事を終えて帰ると、クモ公は、田中さんの首に巻き付いていたタオルを額にのせて眠っていた。もう最盛期を越えたことは、その静かな寝息で分かる。田中さんの姿はなく、クモ公の荷物置きに湯気で袋が張り付いてしまった冷たいタイ焼きが置いてあった。
あっという間のことだったという。田舎に帰らなくなって、気がつくと十年の歳月が流れていた。
「金でもいっぱい持って帰れればいいだけンど、こんな恰好で今さらどんな顔で帰ればいいと思う?」と田中さんは寝台に横になったままで言う。一年帰らなかったら帰りそびれて、気になりながらまた一年が過ぎ、そして十年になった。
「段々と年を喰ってきたせいか、考えるのはクニのことばかりなンだ」
ヤマの労務者に企業の側はあまり期待をしていない。ここにくる仕事といえば、「この鉄筋をあっちの場所に移して」と指示されたのを一日がかりで片付けたり、鳶のそばに控えていて、「あれを取ってくれ」と言われたら指された道具を手渡す、業界でいう「手元」という単純な作業が多い。それが却っておもしろくて、私はあちこちを出歩くようになっていた。もういっぱしにヤマの人間になったつもりになっていたのだ。私の心が外に向かうのと比例するように、そのころから田中さんは仕事に出ずに、寝台の中にいる時間が多くなっていた。
確か、岡林信康が「山谷ブルース」を唄ったのは昭和43年のころで、私が山谷を訪れる3年前のことだった。
歌の世界では、ビートルズの来日で端を発したグループサウンズの波が去り、フォークソングのブームが到来していた。専業の作詞家や作曲家が作った曲を歌手が唄うという分業の伝統を覆すかのように、自作自演の歌手が次々とデビューして、フォークソングが一分野を担うようになっていた。現在の歌謡界の主流になったシンガーソングライターのはしりといえばよいのだろうか。
専門家という他人ではなく、自分自身が作るのだから、当然、曲には自分の主張や思いが表れて、今まであり得なかったような反体制の歌も出回り始めていた。それがまた70年安保を目前として騒然とする世の若者達に広く支持される。その旗頭と目されていたのが〈アングラフォーク〉の岡林信康だった。
その対極に位置して身辺雑記風な歌で登場した井上陽水や吉田拓郎はそれから数年後になるから、社会に対してメッセージを送り続ける岡林は「フォークの神様」として注目を集めるようになっていた。
きょうの仕事はつらかった
あとは焼酎をあおるだけ
どうせ どうせ 山谷のドヤ住まい
他にやること ありゃしねえ
「山谷ブルース」は、働く者の姿を、それも世間が顧みることのない山谷の労務者にスポットをあてた刺激的な歌だったが、岡林はこの曲でメジャーになってしまった。
今でいうキャンペーンの一貫だったのか、彼は、山谷にある玉姫公園でコンサートを開く。こんなことも歌の世界では画期的な出来事だった。
きょうの仕事はつらかった
あとは焼酎をあおるだけ―
と唄ったところで、公園に集まった労務者から声があがった。
「おーい、山谷の連中は焼酎なんか呑んでないぞ」
「俺たち、毎晩、スコッチだもんね」
アハハハ。
思いがけない野次だった。しかし、いったんは立ち往生したが、岡林はひるまなかった。
「ウルセェッ」と壇上で叫ぶと、「黙って聴けッ」と演奏を続行したのだという。無料のコンサートだったのだろう。その気易さで叫んだに違いない。
だが、それを伝え聞いたファンは岡林のその行為に快哉の声を挙げた。
「岡林が山谷の人間を黙らせたンだって」
「へぇー、かっこいい」
今のように芸能マスコミが発達していなかったし、フォーク歌手の大部分はテレビに出演することはなかった。彼らの動静を知るのは直接コンサートに出向くしかなかった時代だった。岡林のこの武勇伝は、私にも口コミで伝わってきた。
聴衆に罵声を浴びせる歌手なんて初めてだった。このことで「フォークの神様」たる岡林信康の伝説は、若者たちの間で益々増大してゆくのである。
だが、私の受け止め方は少し違っていた。黙らせたことに感心するよりもむしろ、山谷のことを唄っていながらその当人たちに受け入れられなかったことにショックを感じていたのである。
どうして受け入れられないのだろうか。出だしは確かに暗いが、歌は終盤にさしかかると、いつか働く者の世の中が来るから、そのときは「一緒に泣こうぜ、嬉し泣き」と転換がなされている。辛いことや苦しいことを冒頭に置き、最後に明るさを持って来るうまいつくりになっている。
もっとも、働く者の世の中が来ることを〈明るさ〉とすることが違っているのかもしれない。山谷の反発がそれを表していないか、とそう思った。
私が山谷で暮らしたいと考えたのは、岡林の歌とその住人たちのギャップを自分の目で確かめたいと思ったためだった。
田中さんが仕事に出ないで部屋にこもりっきりなのは、これを訊き出すには好都合だった。一日中じっくりと話ができるチャンスだと思えたからである。
だが彼は、「岡林信康」という名前におぼえが無いという。山谷の歌を唄って、玉姫公園でコンサートをやった、と説明したところでようやく思い出したくらいだった。
「あの人は、山谷の人間をみじめに唄っているから―」とハナから否定的に言った。「いくら俺たちがみじめだからって、ことさらに強調することはないよナ。あの歌をはじめて聴いたとき、ヤマの人間が唄ってるんじゃないなと思ったよ」
そんなことは、全部を聴いてみなければわからない、と私は執拗と思えるほど田中さんに言い続けた。ただの歌でしかないものに、どうしてここまでのめり込んだのか、自分でも説明がつかない。私は二人きりの部屋のなかで、「山谷ブルース」を最後まで唄うことにしてみた。
「―アンちゃん、歌がうまいじゃないか。他に何か唄ってくれよ」
唄い終わると田中さんは寝台に伏せたままで、私の思惑と違うことを要求していた。世間の学生や若者たちは働く者の世の中が来ることを新して騒動を起こしているが、そんなことは田中さんにとってはどうでも良いことなのは、その反応にあらわれている。
「未だ、コウチャクジョウタイが続いております」
他の部屋から浅間山荘事件の実況が聞こえてくる。アブれた人間が携帯ラジオを聴いているらしい。警察に追われた連合赤軍が楽器会社の保養所に逃げ込んで、三日前から立て籠もっている。働く者の世の中を信じた若者たちが、銃を持って機動隊と対峙しているのだ。現場でもドヤでもこの話にもちきりになっているが、しかしそれは、犯人がいつ逮捕されるかの興味でしかなかった。
歌の得意でない私は田中さんのリクエストに困っていたが、寺山修司作詞の「花いちもんめ」を唄うことにした。
わたしゃ 酒場の泣き女
誰か悲しいひとがいりゃ
そばで代わりに泣いてやる 涙まとめて
花いちもんめ
花いちもんめ
という出だしで始まる曲は浅川マキという歌手が唄ったが、あまり知る人はいない。
「ある日、男がやってきて、黙って酒を飲んでいた」
訊くと男は船乗りで
海から帰ってきたならば
女房が男と逃げていた
(中略)
それで、女は男の身の上にほだされる。
その夜二人は深い仲
かもめ倉庫の藁束で
あたしは恋をしちまった
「ところが朝起きたら、男は何処へ言ったか、消えちまって、酒の飲み代踏み倒し」
酒場の主人の言うことにゃ
あれは知られたペテン師で
ただ酒飲みのすけこまし
そして、冒頭のフレーズが重なる。
わたしゃ 酒場の泣き女
人のためには泣くけれど
自分のことでは泣かれよか
「そりゃ違うよ!」と田中さんが私の歌声を引き裂くように突然叫んだ。びっくりして彼を振り仰ぐと、布団の中で目に一杯涙をためている。
「違うんだよ―」
いや、これはただの歌で、作り物で、違うのはわかってるんだ、と慌てて言っても聞き入れてくれない。どうも彼は、歌の登場人物に肩入れしてしまったようだ。自分たちのことを唄っている「山谷ブルース」のときとは大きく違う反応に、私は戸惑っていた。それでいながら、ありもしない酒場女に思わず同情してしまう田中さんの心持ちの方に惹かれてもいた。
最近、彼が床に伏せがちになっていることが、このとき何だかわかったような気がしていた。
それから数日後の朝だった。
はじめは何が起きているのかわからなかった。パレスホテルの従業員が部屋に来たと思ったら、慌てた様子で走り去っていく。それから十数分後に、下の通りに救急車がやってきたのがサイレンの停止でわかった。
田中がおかしいらしい―
今井が口を開いた。上の寝台を覗くと、田中さんが布団の中で目を開けたままで寝ている。
「田中さん―」
呼びかけても目が動かない。血色は良く、呼吸もあるが表情が動かないのだ。たまったドヤ賃の請求に来た係員が、田中さんの異変に気づいたらしい。
やがて、白いヘルメット姿の救急隊員が一人で部屋に入って来た。ツカツカと寝台に歩み寄ると、「おい、歩いて行けるんだろッ」よく通る命令口調で呼びかけた。「歩けるんだろッ」もう一度言うと、「はい、歩けます―」我に返った田中さんが小さな声で応える。
「なら、降りた、降りた」すべてが命令口調だ。山谷の人間にナメられたくないとでも思っているのか、救急隊員の物腰は横柄な態度にあふれている。
なぜ担架を用意しない。田中さんが山谷の人間だからなのか。私は気づかないうちに隊員の横顔を睨んでいた。
どうしてみんなは怒らないのだろうか。岡林を野次った奴はどこへ行ったンだろう。ずっと後に、キイちゃんの清掃車を取り囲んだ奴らは一体どこにいるのか。
ヤクザの今井はぼうっと見守っているだけだし、田中さんに恩義のあるクモ公は自分の寝台の上で見て見ぬふりをしている。
寝台のはしごを伝わって、田中さんが降りてくると、「じゃァ、こっち」と言う隊員に促されて歩いて部屋を出て行った。しばらくすると下の道路からサイレンが遠ざかるのが聞こえた。
―歌なんか唄わなければよかった。私の歌声が田中さんの寂しさを募らせてしまった、と考えるのは思い過ごしなのだろうか。
それから数ヵ月後、私は駅からドヤ街に通じる道を今井とその呑み仲間と歩いていた。
「今井さん―」私は前へ行く彼を呼び止める。面倒な顔で振り返ったのを待って、「田中さん、どうしてるかな?」と、訊いても無駄なことを言ってみた。歩いて救急車に乗ったことを思うと、彼は普通の病院に連れて行かれたのではない、と私は直感していた。
ノイローゼ。精神病院に持って行かれたなら、引受人もいない人間はおいそれと外には戻されないだろう。その不安が私の質問になっていた。けれど、うまく言えない。
「何だお前、そんなこと考えていたのか。大丈夫だよ、病院で元気にしてるよ」と軽く言って、今井は前で待つ仲間の方に行ってしまった。
そんないい加減ナ―。残された私はひとりでつぶやいていた。「病院で」そして「元気に」という言い方の矛盾が、場当たり的な答でしかないことを表している。
そのまま浮かない顔をして歩いていると、先のほうで急に今井が歩みを止めた。振り返った彼に追いつくと、今井は、「大丈夫だよ。病院で元気にしてるよ」と再び言った。言葉は同じだったが、今度は私の右肩を拳骨で乱暴に叩いた。
(以下略)
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