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カテゴリーではなくて個別性を見る

ここのところ春のような陽気のせいか、まちを歩いていると道に猫が転がっていることが度々。


今の季節にこんな陽気はおかしいのだろうけど、でも気持ち良いですね。私も歩きながら寝てしまいそう…


今日、あるお宅にご挨拶に伺ったら不在だったので、郵便受けに入れておこう、と思って手紙を書いていました。


書いていると、その不在の家の方からなにやら視線を感じる。あら、不在じゃなかったのかしら、と顔を上げると、黒猫でした。


「おっ」と会釈すると、黒猫も「ふん」と頷いた(ように見えた)。


でもどうも腰が引けてる黒猫…。


ご不在のお宅への手紙が書きあがったので、猫のいる方に近づいていくと、その後方にも複数の猫が。同じような模様で同じような顔をしている。最近私は疲れ気味なので目がかすんで二重三重に見えてるのかと思うほど似た顔(笑)


どうやら私のことが気になるらしいけれど、やはり全員腰が引けていて、郵便受けに近づこうとするほどにパタパタと逃げていく。


でも一匹、どうしても私のことが気になってしかたないらしいブチ猫が。


どれ、この子とは友達になれるかな、としゃがんで手を出してみると、ブチは突然激しく猫パンチを繰り出しました。ヒュッヒュッと風を切る音が聞こえました。


猫の手の長さほど近づいてはいなかったので殴られずにすみましたが、「なんだい、せっかく友達になれるかと思ったのに…」とちょっと寂しい気分。



一口に猫といっても、一匹ずつ個性は様々。会った瞬間に膝に乗ってくる猫もいるし、睨みながら走り去る猫もいる。


「桜子ちゃんは猫が好きなんだね」とよく言われますが、(まあこんな文章を延々と書いてるんだから好きなんでしょうけど)、一匹ずつにこれだけ個性がある中で、果たして「猫」という一言で括れるのかしらね、とも思います。


動物と比べちゃあ失礼だと言われるかもしれませんが、人と人の関係も同じじゃないかな、と思います。生きてる者同士の関係ですもの、多様であることは共通ですよね。


「桜子ちゃんは子どもが好きなの?」ともよく言われますが、まあ保育士の資格を持ってるんだから子ども嫌いだったら恐ろしいのですが(笑)、でも子どもも一人ひとり個性があるわけですね。子どもかどうかには関係なく、人と人の関係として、私を好きだと思ってくれる子もそうじゃない子もいるでしょう。


 カテゴリーを作って分類することは、ある一定の法則を見出すことができて私たちの頭の整理の助けになると思います。例えば「猫」はにゃーと鳴いてひげがあってジャンプ力のある小さな四つ足動物。その名前を「猫」と名付ければ、実物を見なくても誰もが思い浮かべることができる。 けれど、そういう分類ではまだ足りない、それぞれの個別性、いわば「固有名詞」がある。


人間の文化の中で、カテゴリー分けによる整理はかなり完成しているのではないかと思います。 これからは、カテゴリーではくくれない個別性を見極めていくことをやっていかなくてはいけないのではないかと思います。


 「子ども」「高齢者」「障害者」というところではなく、それを越えた固有名詞、例えばどんな属性を持つかに関係なく「加藤木さん」というような固有名詞でお互いを見られるようになれば、乗り越えられる障壁はたくさんあるんだと思います。


「社会的弱者」という言葉があって、私はこの言葉が大嫌いなのですが。「障害者」「高齢者」「貧困の状態にある人」、一人ひとりの人生や個性は見ないうちにカテゴリーで分類して、さらに「弱者」という分類の中に閉じこめる。誰かを「弱者」と呼ぶ人は、無意識に「自分は弱者ではない」と考えているのではないかと気になるからです。自分の友達になら「あなたは弱者だね」とは言わないでしょうしね。弱者と呼ぶことで、自分の周囲からその人達を切り離そうとしているように感じるのです。


「障害」の多くは、障害を持つ本人ではなくて、周りが壁を作ることで生じているのだと思います。 その壁を崩していくために…カテゴリー分けでない人のつながり作りを、少しずつやっていきたいと思います。


…猫の話からいきなり福祉の話へ…いつも以上に内容がぶっ飛んでいてついていけない、という方もいらっしゃるかと思いますが(^_^;)また追々具体的な話を書いていきたいと思います。

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大泉学園の駅近くで

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画像が粗いからよく分からないかもしれないけれど、駅前で可愛い後姿を見つけました。


黒い犬。飼い主の帰りを待っているんですね。

今、私がよく聞かれることに対するとりあえずの答え

私が練馬で地域の活動をしたいと考えた時に「福祉の分野にいたのになぜ」「その年齢でなぜ」「ご両親に反対されなかったのか」とよく質問されました。

 

一言ではうまく説明できないもんで、今回のブログでじっくりと。

 

私は高校あたりから進路の方向がおかしいので「なぜ」というのは言われ慣れているんですが・・・。

 

まず、前提として私の経歴から。

 

私立の女子中・高校を卒業した後、慶応の文学部で国文学を学ぶ。大学4年の夏休みにヘルパーの資格を取り、卒業してすぐ上智社会福祉専門学校という夜間の学校に入学。2年間学校に通いつつ昼間はヘルパーや保育園、研修機関のバイトをしながら社会福祉士を取り、学校を卒業してからNPOに就職。そして、練馬の活動に。

 

うん。支離滅裂ですね(笑)

 

でも、自分の中では、つながっているのです。

 

 

 

 ★両親が文学好きだったこともあったのか、小さい頃から書くのは好きでした。口下手だからよけいに、書くことでエネルギーを発散していたのかも。

 

それが本格的に「文学の方に行こう」と思ったのは、たしか17歳くらいの頃。

 

16歳くらいから、「生き方」ということについて悩み始めました。周りの友達がやることに素直に従えないような。りの友達に従えないならば、じゃあ自分は一体どうやって生きたいんだろうか、と悶々としながら、いろんなものを読みました。新聞、本など。

 

新聞を読む中で私をひきつけたのがハンセン病であり、同時にその頃自分が住んでいた地域の手話サークルに参加したりもしながら、自分が本当にライフワークにできるものを探していた。

 

同時にひきつけられたのが、文学の世界。それまでは自分が書くことに喜びを感じていたのが、読むことに喜びを感じたきっかけは有島武郎の「或る女」と太宰治の「斜陽」。

 

自分の人生を生きるだけではとても感じ得ない、体験しない世界を、文学の中で感じることができる。人生は豊かで深みがあり、簡単に理解し得ないものもある。一人ひとりに物語がある。その、未知の世界に心おきなく踏み込んでいけるのが文学なのです。

 

だけど、「国語」のおかげで多くの人が文学嫌いになる。なんてもったいないんでしょう。夏目漱石を読む年齢が早すぎるのです。そして、作文を強要されることで書くことすら嫌いになってしまう。なんてもったいないんだろう。書くことで自分を発散させ、読むことで人生の深みを知る。そのお手伝いをしたいと思い、国語の教師を目指し始めたのが高校2年生でした。

 

★大学に入り、いざ国文学の道へ。慶応を選んだのは、高校時代に関心を持ち始めたハンセン病の問題で、清瀬にある多磨全生園にいた森元美代治さんが、病気であることを隠しながら頑張って行った大学が慶応だったから、ということもありました。伝統を大事にしながら先を見ていくという慶応の気風に関心をもったということもありました。

 

大学時代に、ハンセン病の国賠訴訟がおきて、ちょうどその頃自分の家の近所に森元さんが来て講演をしたのをきっかけに、訴訟を支援する会に入ることができました。ハンセン病に関心を持ちながらもなかなか具体的な参加の仕方を見つけられず、4年目にしてようやく関わりを持つことができるようになったんです。新聞やテレビでしか拝見していなかった森元さんともやっと知り合うことができました。

 

★2001年の国賠訴訟判決。国が控訴を棄却してくれるかどうか。どうか棄却して欲しい。1週間くらい、私も座り込みに出かけていました。授業の前に行って、授業に出て、また戻る。ああ、どうなるだろうか、刻一刻、状況は変化する。新聞に書いてあることが必ずしも正しいことではないということも、このときに知りました。

 

控訴するのかしないのか。気になりつつもとにかく学校に戻って授業に参加する。

 

その授業は万葉集。

 

うーん。。。。

 

そのとき、国文学にいることに違和感を覚えました。

 

私が目指した国文学は、「人の心を知ること」「人の人生の豊かさを知ること」でした。

 

でも。今社会はとっても大きく動いている。

 

長年続いてきたハンセン病に対する差別についての、ひとつの節目がやってくる。

 

そのときに、慶応で国文学を勉強している私は、万葉集に出てくる月の表現について学んでいる…。

 

たしかに、何百年も何千年も変わらない人の心もあると思う。だけど、それは、まずは今、同じ時代に生きている人の心に起きている問題を知っていてこそ分かる深みではないかと思うのです。

 

今、起きているハンセン病の問題に露ほどの関心を示さず、こんなに社会が動いているというのに、普段と何も変わらず、万葉集を読んでいる・・・ああああ、もうダメだ、私は国文学にはいられない、と思った瞬間でした。

 

★2001年5月23日。無事、ハンセン病問題の控訴断念が決定しました。私はそのとき、大学で、サークルの活動にどうしても参加しなくてはならず(サークルは、ダンスだったんです…やはり支離滅裂)、控訴断念を知って慌ててそれからまた国会方面に向かったのです。

 

★その直後の7月にあった参議院選挙に、私がハンセン病を知って以来ずっと気になっていた森元美代治さんが出ることになりました。このときまでに私は森元さんに、慶応に入るきっかけが森元さんだったってことも話していましたので、親しくなりつつありました。これは手伝いに行かなくてはならない、と出かけて行ったのです。そこに来ていたのが、今私の活動の事務局長をしている水藤さんでした。

 

★私は森元さんの選挙を手伝うまで、「このまま国文学の大学院に行って学校の先生になるか、研究者になりたいな」と思っていました。だけど、森元さんの選挙の手伝いに行って、そこで知り合った水藤さんと、参議院の小川敏夫さんの秘書の方と、その二人に知り合ったことは、21歳の私にとってとても大きいことでした。

 

研究者の道に行こうとしていた私にとって、社会の中で生きていた方が、とても素敵な生き方をしていて、それを見て、ああ、こんな風になれるならば、私も研究者ではなくて社会に出てみたいな、と思いました。それはお二人に直接言ってはいませんけど、このときから早5年半、今の私の活動を組み立てる中心となっているのも、不思議とこの二人だったりするのです。


★子ども達に国語を教えるという夢は、今の学校ではどうしても子どもと教師が1対多数になってしまう中で、きめ細かに教えることができないということも感じて、もっと個別にかかわることのできる仕事をしたいとも思ったのです。

 

★森元さんの選挙をきっかけに私は、社会に出ていきたいと思ったんですけれど、その方法として福祉の道を選びました。それは森元さんがハンセン病だったからではないのです。

 

人の心って面白いのですよね。とってもいい人同士でも、相性が合わないといがみ合うこともある。でも、方法次第では間を取り持って行くこともできる。ちょこっとした一工夫で、人間関係は変わってきます。その調整をすることができたらおもしろいだろうな、ということ、選挙を手伝って思ったのです。人と人をつなぐ役ならば、福祉が良いかなと思って、大学を卒業してから学校に入りなおしました。

 

★実際の経験を積みながら勉強したいから、夜間の学校に入って、昼間は仕事をしたのです。初めてヘルパーをやったときに、一人暮らしの方の家に行きました。・・・あ、これは朝の駅頭で話している内容です。

 

団地でひとり暮らしをしているおばあちゃん。外に出る気力がなくなってしまっている。どこも悪くないはずなのに、体を動かすのが辛いといって、家に閉じこもっている。近所の人と話をする機会も減っている。ごみ出しを手伝っている近所の人がいるけど、あの人は多分嫌がっているんだ、とおばあちゃんは言う。本当にそうなのか、おばあちゃんの被害妄想なのかは私には分からないけれど。とにかく社会とのつながりが途切れがちなのはたしか。

 

おばあちゃんは結局、私が行き始めて3ヶ月くらいで施設に入ってしまったのだけれど、その3ヶ月間、週3回の私とのやりとりはかなり密接でした。「かとうぎさんが帰った後も、ああ、かとうぎさん、どうしているのかなあって、考えていたのよ」と、おばあちゃんに言われました。

 

うん、私も家に帰ってもいつもそのおばあちゃんのことを考えていました。ああ、もしかしたらあのときあんな言い方をしたら悪かったのかもしれない、今、あのおばあちゃんは家で元気にしているのかな、と。しばらくそのおばあちゃんが頭を離れませんでした。

 

でも、ほんとはこういう関係、良くないんですよ。恋人同士みたいでしょ(笑)

 

ヘルパーと利用者は、恋人同士みたいな依存関係になっては良くない。もちろん、恋人でも依存に近い関係になるのは良くないのですが。

 

人は、たくさんの人が支えるから生きていくことができる。一対一の関係だけではなく、さらに広がる社会があるから生きられる。視野も広がる。

 

人の心は複雑で、一筋縄ではいかない。一つに定義はできない。

 

そこまで含めて、人の人生は支えあっていかなくてはいけないはずなのです。

 

形として見えにくいけど、ほんとは、そういうことを支援して行く地域の中の仕組みがなくてはいけないはずなのです。

 

でも、介護の仕事をする中ではそれはできなかった。じゃ、どうしたら、地域の中のすべてを支えられるのか…悩んだ結果が、今の活動です。

 

 

 

ふう。長い歴史でした。この10年の私の歴史でした。

 

 

 

★私の活動について説明する中での「なぜその年で」「ご両親はOKなの?」という質問。

 

いくら未婚だとはいえ、26歳ですので、なぜ両親の許可が必要となるのかがよく分からないのですね。

 

私は、自分の意志が決まった段階で、多分協力が要るだろうということで親に説明しました。(ちなみに母はなくなってますんで、両親ではないですが)

 

同様に、「若いのに」という言い方も、良く理解できないのです。

 

今の若者について、フリーター、ニート、パラサイトなど、色々問題になって、そのたびに「今の若者は」みたいな話になりますが。

 

でも、10代の頃から感じていたこと。大人は、都合次第で「お前はまだ子どもだから」という言い方と、「お前ももう大人だろう」という言い方と、使い分けますよね。

 

フリーター等について文句を言う時には「今の若者はなってない」と言いながら、意見を言う若者に出会うと「まだ若いくせに」という。

 

じゃ、今の「大人」は、若者にどうして欲しいと思っているわけでしょうか。

 

ま、「今の若者は」的な言い方は平安時代頃からあるみたいですから、人間の性なのかもしれません。

★でも、私の今の生き方に一番影響しているのは、小学生の頃に言われた母の言葉かもしれません。

今はそんなに言われなくなってきたけど、「良い学校を出て、良い会社に入って・・・」っていう言い方ってありますよね。

 

小学生の頃、まだ特に何も考えていなくて、生意気に母に「世の中って、良い学校を出て良い会社に入って生きていけばいいもんなんでしょ」みたいなことを言ったことがありました。

 

そしたら母が、「そんな表面的なことしか考えてない人間に育てた覚えはない」と怒りまして(笑)

お、そうか、良い学校をでて良い会社に入るべきじゃないのか、と小学生の私は納得しました(笑)

 

「良い」という判断は何なのか分かりませんが・・・

とりあえず母の言いつけを忠実に守り(?)、「良い会社に入る」というところはやらなかったわけですね…。

うん、そんなこんなで今の私があるのです。

「制度を作る」だけではできない部分

カラオケ店で火事があって、亡くなられた方がいたというニュースがありました。


店は基準を満たしていなかったとのこと。


守るべき基準を守らないことで起きる事故、失ってしまう命が増えていますね。


耐震偽造、エレベーターなど。


 守らないというのは、「人の命を軽んじて効率や利益を求めているからだ」とよく言われますが、「想像力」の問題もあるのではないかと私は思います。


まさか、「効率化のためには人が死んだってかまわない」と思う人がいるとは思えませんから。


 なんのために決まり事があるのか。ただなんとなく決まっているだけで、煩わしいものだと思ってしまうと守らなくなってしまうこともあるかも知れません。


その基準があるのはどうしてなのか。今回の事故の場合ならば、煙の逃げ道を作らなければ何が起きるのか。


どんなことが起き得るのか想像することができないまま、言われた基準だから守る、あるいは面倒だから守らない、という判断そのものに問題があるように思います。


不必要な基準だと感じたならば、勝手に破るのではなくて、基準そのものを変えていくように訴えていくことが必要なはずです。


制度や決まり事は、それがあるだけでは意味がない。実際に使う人が理解した上で「生きた仕組み」になるよう、生かしていく必要があります。


基準を作る側は難しい言葉だけで説明するのではなく、生活にどう関わるのかを分かりやすく説明する義務があるし、その基準を使っていく現場の側も、決まり事の意味をかみ砕いた上で使っていく義務がある。


安心できる生活を築いていくには、制度を作るだけではなくて、我々一人ひとりの想像力と仕事に対する専門性が求められるように思います。

制度の狭間を埋めていくために

私が考えている福祉って、なんだか説明しづらいなあ、とずっと悩んでいたのです。


うまい説明の方法になるものを、ここのところいくつか見たり読んだりしたので、それらを引用しながらちょっと頑張って書いてみます。


 ・・・若干、理屈っぽいですが、我慢してください(苦笑)


 


日本で「福祉」っていうのが考えられるようになったのは、戦後のことです。


戦災によって生じた問題(障害者、孤児、貧困)を解決するために、福祉が必要となったのです。高齢者に関しては、高齢化が進んできた1980年代頃から。


そんな歴史があるから、多くの人が福祉と聞くと「障害」「貧困」「高齢者」を思い浮かべる。


その対策としてすぐに思い浮かぶのが「施設」。


 


けれど、今、「福祉」の対象となるべきものの幅はさらに広がり、複雑になってきています。


ホームレス、多重債務、虐待、等々。


複雑で多様な課題を抱えた人が今、世の中にはたくさんいます。共通点があるとするならば、「社会」との結びつきが弱まってしまっている、閉ざされてしまっている、ということ。


私は高校時代からハンセン病の問題に関心を持っていますが、ハンセン病は、手足や視覚に障害が起きるという身体的な障害だけではなくて、さらに大きな問題として「社会からのけものにされてきた」という社会的な障害があります。


「社会から排除される」ということが、今はより多くの人に対して起こっています。


誰の身にも、いつ起きてもおかしくないほど。


 


昨晩のNHKの「NHKスペシャル」で、「ひとり団地の一室で」というドキュメント番組をやっていました。千葉県松戸にある団地で、孤独死を防止する取り組みをしている人たちの話。


私も、福祉の仕事をする中で、高齢者の孤独死を防ぐための取り組みをしている自治会の方の話を聞いたことがありました。声をかけ続けても、どうしても防ぐことのできない孤独死があるということ…。


今回の番組を見て驚いたのは、孤独死するのは独居高齢者だけではなく、半数近くが5,60代の男性であるということ。


例えば、脳梗塞で障害を負って、家族とも別れて一人団地に住み始めた人が、仕事を探しても年齢的にも障害的にもなかなか見つけられず、でも医者からは「仕事ができないというほどの障害ではない」と言われるために年金も出ない状況(おそらく生活保護も無理でしょう)になっている、などです。


まさに、「制度のはざま」です。


近所の人は気になっていても、そばにいて励ますことしかできない。


なぜ家族と別れることになってしまったのか。それは番組では言われていませんでしたが、もしかしたら「高次脳機能障害」の場合もあるかもしれません。


脳の病気が起きた時に、脳に障害が起き、記憶が悪くなったり怒りやすくなってしまうことがあります。一見今までどおりに元気にしているように見えるので、周りも本人もそれが障害と気づかないまま軋轢がおきてしまうことがあります。


近年高次脳機能障害に対する取り組みも少しずつ進みつつありますが、制度的にも社会の認知度もまだまだという状態ですので、これまた「制度の狭間」となっている問題です。


病気の後に離婚したり家族と離別した人の中には、この高次脳機能障害があるのではないかと、私は思います。それが仕事を見つけられなかったり、見つけてもすぐ辞めさせられてしまう原因にもなり得ます。そして医療機関、福祉機関がそれに気づかなければ、その人はいつまでも社会から隔絶された状況になってしまう。


一見「普通」の人が、実はどこかの部屋の一室で、誰にも気づかれずに一人苦しんでいるのかもしれない。それが起きてしまっているのが今の社会なのです。


福祉は「障害」「貧困」と簡単にくくれる範囲を超えています。


 


1月1日号の「福祉新聞」で炭谷茂さんと宮武剛さんの対談の特集がありました。とても勉強になる記事でしたが、その中から特に共感できた部分を引用します。


福祉サービスの供給者は、ともすれば「法律に定められた基準に基づいてやっていればいい」「官からきたお金を誤りなく使えば褒められる」状態でした。(中略)でも、これからは独自にどんどん工夫し、現在ある法律を越え、開拓して行く姿勢が必要です。(中略)日本で地域福祉が育たない理由は、法律に縛られているからです。これが日本の福祉関係者の最大の欠点ではないでしょうか。(炭谷氏)


また、冒頭で私が書いたように、障害があること、高齢であることなど、目でとらえられることだけを福祉のニーズと捉えるのではなく、「社会から排除されている」「孤立している」という視点でも考えていき、「社会の仲間に入れる」方法を考えて行く必要がある、と炭谷さんは言っています。


 


私が福祉の仕事という枠を飛び出し、練馬の地域の活動をしたいと考えたのは、介護保険事業所で働く中では「制度で捉えることのできるニーズ」以外のものに関わることができなかったからです。狭間の人には誰が関わるのか。今は善意の隣人が関わり、どうして良いか困っているケースが多いのです。そこに福祉の専門職として寄り添う必要があるのではないかと。


制度の狭間を埋めていける仕組みや仕掛けを作っていく必要もあると思います。


そしてまずやらなくてはいけないのは、一人でも多くの人に、課題が目の前に迫っているということを伝えていくことだと思っているのです。


 

成人の日

練馬の成人式のつどいは、豊島園でやります。

豊島園のみならず、今日は街のあちこちで振袖姿の人をたくさん見かけました。

 

私の成人式は6年前。

小学校は途中で転校したし、中学からは私立だったし、「ここに行けば昔からの友達に会える」というのもなかったので、特別何かに参加することはなく。

母が亡くなったばかりだったし、他に見せたい人もいなかったので、着物も着ず。

 

高校の頃の友達と、東京タワーに上った記憶があります。

成人式と東京タワー…何の関連もありませんが。

街を歩いていたらクレープ屋さんに「振袖姿の人は半額」と書いてあるのを見て、着なかったことをちょっと後悔したのでした。

 

20歳すぎたら、何かが変わるのかしら、これからどんな風に生きていくのかなあ、と友達と話しました。

 

21歳になって、今の私の練馬の活動のきっかけとなる人や物事に出会ったり(ハンセン病の元患者さんが参議院選挙にでるのを手伝ったのです)福祉の方に進もうと決めたり。たしかにあのとき予感したように、20歳をすぎてからいろんなことがありました。

 

20歳がひとつの節目なら、21歳から自分を取り囲む世界が動き始めたかなあと。

 

今、地域の方々にご挨拶に伺っているとよく「26歳には見えない。21歳くらいかと思った」と言っていただきます。ありがとうございます。

でもなぜいつも「21歳」なんだろうかなあと。

20歳には見えないんでしょうね(笑)

 

そんなところにもなんだか、「20歳」と「21歳」の違いを感じたり。

 

20歳の頃に一緒にいた仲間と会うのは、今は1年に1度あるかどうかだなあ、なんて、あの頃の私が確実に今の私につながってはいるんだけど、一期一会のちょっとした切なさも感じたり。

「成人」の年齢は、時代によって変わったりもします。今は18歳を成人にしようか、なんて話もあるみたいですが、まあそれはともかく、いつの時代も「成人」というひとつの区切りをつけてきたということには、何かしら意味があるのだろうと思います。

 

そんなことを、着物を着て笑顔で記念撮影する新成人の皆さんを見ながら考えていた一日でした。

 

新成人のみなさんのこれからの人生が輝くものとなりますように。

ご成人、おめでとうございます。

 

福祉がたらいまわしにならないように

今日の内容はちょっと、福祉の仕事をしている人の批判めいていて、申し訳ない気もしますが…


練馬ではなくて他区に住んでる知人(仮にBさんとします)の話なのですが。


寝たきりの方用の、寝巻きが欲しかったんだそうです。でも、サイズとか素材とか、ぴったり来るものがなかなか見つからない。寝たきりの人のためだから、できるだけきちっと体にフィットしていて欲しい。これから寒い季節だから、できるだけ素材も温かいものにしたい。


でもなかなか見つからなくて、自分の地域の社会福祉協議会に電話をして聞いたんだそうです。そしたら、「介護用品については、地域包括支援センターに聞いてください」と言われたそうです。


 


ちょっと注釈。社会福祉協議会は、どこの自治体にもある団体で、地域の福祉について色々やってるところです。ボランティアさんに関することだったり、地域の福祉祭りをやったり。介護保険事業をやっているところもあったりします。


地域包括支援センターは、昨春の介護保険の改正でできたもので・・・文字通りなんですが、地域生活すべてを支えるところです。今まではいろんな制度が分断されてしまっていたから、介護のことだけではなくて高齢者の地域での生活を包括的に支えるところが必要だということで作られました。


 


さて話を戻して。そういうわけで、Bさんは最初は「地域の福祉の活動をしている」社会福祉協議会に聞いたけど、それは地域包括支援センターに聞いたほうが良い内容だと言われたわけですね。


そんで、Bさんは地域包括支援センターに電話をした。


そうしたら、探し求めている「温かい素材でサイズがぴったり来るもの」がどこにあるかはやっぱり分からないと言われた。そして、「近くに介護用具を販売しているFというお店があるので、そこに電話して聞いてみてください」と言われた。


 


F店にもやっぱりぴったり来るものがなかった。


でもここで今までとちょっと違ったのは、F店の店員さんが他の店にも電話をかけて探してくれたこと。Bさんに「かけてみたら?」というのではなくて、店員さんが自ら、見つかるまで探してくれた。


 


 


福祉の仕事は、必要な人に必要なものが届くように、人や物を調整する役割だと思います。人と人、ニーズと物をつないでいく役割。


社会福祉協議会や地域包括支援センターの人は、Bさんが求めるものがどこにあるのか、一緒に考えるべき役割です。


両方とも、他の団体を紹介はしています。でも、これって「つないだ」と言えるのかなあ、って疑問に思いました。


私には、社会福祉協議会→地域包括支援センター→F店 という、「たらいまわし」に見えるのです。


 


今回はたまたま介護用具を必要としていたのがBさん本人ではなかったので、根気強く探し求める力がありましたが、もし介護を要する本人またはその家族が必死の思いで探し求めていたとしたら、これだけ何度も電話をかけ直すエネルギーが続いたかどうか。


 


社会福祉協議会や地域包括支援センターという組織そのものが悪いというわけではないんだと思います。同じ団体の中でも、たまたまそのとき対応した人がそうであったのであって、ほかの人が出たらまた違ったのかもしれない。事実、F店の店員さんは、自分の店に該当の品がなくても、見つかるまで一緒に探してくれたんだから。


でも、問題は、その「ばらつき」なのではないかと。


 


ヘルパーの仕事をしている中でも同じです。


利用者さんが訴えてくる「今これが辛い」という思いにどれだけ耳を傾けられるか。それは福祉従事者一人ひとりの資質に任せられるところが多々あります。


 


制度を整えていくことは大事だけど、それだけではまだ足りない。制度を動かす人の質を上げていかなくてはならない。


お金をかけて人を雇うということではなく。


今いる福祉従事者の中ではどんな人が頑張っていて、どこが手薄になっているのか。それを多くの住民の目で、見守っていくということがもっともっと必要になるのではないでしょうか。

私が思う「福祉」

「なんの落ち度もないのにひどい思いをして気の毒な人を助ける仕事」
福祉の仕事をしていると、そう言われることがあります。
だから「福祉の仕事をしている人は皆良い人だよね。偉いね」と。

私はそんなとらえ方がどうもしっくりこない。

【理由その1】
仕事の大変さに関しては、システムエンジニアをやってる友人の方が昼も夜もなく働いているし、夜勤があるのはホテルで働いてる人や24時間のお客様サービス窓口で働いてる人も同じでしょう。

【理由その2】
福祉の仕事をしてる人が良い人だとは限りません(笑)
そもそも「良い人」は定義しにくいと思いますが。
仕事に一生懸命で自分自身の生活はめちゃくちゃになってる福祉従事者が私の近くにはいますし、テレビを見ても福祉従事者が虐待をしたり詐欺をしたり、なんて話もよくあります。
私自身は、どうかなあと振り返っても、後悔のない生き方をできているわけではない。小学生のころ、いじめられていた同級生を救う力がなかったことを、後悔したりもしている。

罪は罪として、決着をつけなくてはならないとして、罪を犯した人が必ずしも完全に悪人なわけではない。
人は弱い面を持っている。それは福祉の仕事をしていても同じ。
イライラすることだって心が迷うことだってあるけれど、せめて仕事をしている間は弱さをいかに制御して、「専門家」として対応していくかが、福祉の仕事をする人には求められるんだと思います。


【理由その3】
その2ともつながる話ですが。
福祉を利用する人は「落ち度のない人」に限られるのか。
逆に考えると、何かしら落ち度のある失敗をした人は、助けてもらえなくても仕方ないのか。


私は中学生の頃から落語が好きです。
落語には与太郎という、ほにゃ~っとした人が出てきます。
近所の人は「また、与太郎は仕方ないね」と言いつつも、与太郎のペースに合った対応を考えてる。
それは、与太郎に落ち度がないから助けてあげてるわけじゃなくて、一緒にいる仲間だからではないでしょうか。
思えば落語に出てくる人は皆、お酒ばかり飲んでいたり、なんとか楽して一儲けをしようと考えては失敗するような、落ち度が服を着て歩いてるような人ばかり。
だけど事態が深刻にはならずに、いつも笑いに満ちているのは、どんな存在でも受け止めあえる地域社会がそこにあるからではないかと。


だから本来福祉は、良い人が施し、可哀想な人が受けるものではなく、「あなたがあなたとしてそこに存在してくれるのが私の幸せでもあるんだよ」と言い合える社会なのではないかと私は思うのです。

でも、今の世の中、それには程遠いのかなと思うこともしばしば。「自己責任」なんて言葉で、突き放されてしまうこともありますしね。

今、「再チャレンジ」と言われる一方で、母子家庭の生活保護が削られたり、高齢者の負担が急激に増えています。
福祉の必要な人の負担を増やすことは、かえってその人がそこから出て社会に参加する力を奪う可能性もあります。



社会の中の壊れたつながりを取り戻すためには何が必要なのか。


「再チャレンジ」というのは一体誰の再チャレンジを保障しようとしているのか。キャッチフレーズに惑わされずに見守る目も必要になると思います。

あけましておめでとうございます

またしてもご無沙汰してしまいました。


あけましておめでとうございます。


今朝早くに空を見たら、とても良い天気でした。昔からよく友達と初日の出を見に行っていたのですが、今年ほど美しく見られた年は珍しいかもしれない。


美しければ美しいほど、写真では見ることができない(少なくとも私の技術とカメラでは本物の美しさを皆さんに見せることができない)というのはとても残念ですが。


美しい空と同じように、今年の私達が素敵な一年を送れるように、と心から祈りました。


 


私は今年は、より一層練馬の活動の準備に時間を割いて頑張っていきたいと思っています。ブログもできるだけ頻繁に更新できるように頑張ります(^^;


 


皆さんにとって、今年が輝く一年となりますように。

Appendix

桜子のツイッター

プロフィール

かとうぎ桜子

Author:かとうぎ桜子
1980年生まれ。

保育士、ヘルパー2級、社会福祉士の資格を使って福祉の仕事をしてきました。
制度だけでは一人ひとりが安心して生活するまちを作るには不十分だと考え、誰もが安心できるまちのしくみ作りをしていきたいと考えています。

2007年4月の統一地方選で練馬区議会議員に初当選。

2010年3月、「市民参加と公共性―保育園民営化を契機として」と題する修士論文を書き、立教大学大学院・21世紀社会デザイン研究科を修了。

2011年4月 無所属で2期目に当選。

2011年末に子宮頸がんが見つかり、2012年春に円錐切除の手術をしました。その後は今のところ再発もなく元気に仕事しています。
この経験を活かし、がん検診の啓発など健康に関する課題にも取り組んでいこうとしています。

2015年4月、3期目に当選。

会派は市民ふくしフォーラム。

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