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カテゴリーではなくて個別性を見る
ここのところ春のような陽気のせいか、まちを歩いていると道に猫が転がっていることが度々。
今の季節にこんな陽気はおかしいのだろうけど、でも気持ち良いですね。私も歩きながら寝てしまいそう…
今日、あるお宅にご挨拶に伺ったら不在だったので、郵便受けに入れておこう、と思って手紙を書いていました。
書いていると、その不在の家の方からなにやら視線を感じる。あら、不在じゃなかったのかしら、と顔を上げると、黒猫でした。
「おっ」と会釈すると、黒猫も「ふん」と頷いた(ように見えた)。
でもどうも腰が引けてる黒猫…。
ご不在のお宅への手紙が書きあがったので、猫のいる方に近づいていくと、その後方にも複数の猫が。同じような模様で同じような顔をしている。最近私は疲れ気味なので目がかすんで二重三重に見えてるのかと思うほど似た顔(笑)
どうやら私のことが気になるらしいけれど、やはり全員腰が引けていて、郵便受けに近づこうとするほどにパタパタと逃げていく。
でも一匹、どうしても私のことが気になってしかたないらしいブチ猫が。
どれ、この子とは友達になれるかな、としゃがんで手を出してみると、ブチは突然激しく猫パンチを繰り出しました。ヒュッヒュッと風を切る音が聞こえました。
猫の手の長さほど近づいてはいなかったので殴られずにすみましたが、「なんだい、せっかく友達になれるかと思ったのに…」とちょっと寂しい気分。
一口に猫といっても、一匹ずつ個性は様々。会った瞬間に膝に乗ってくる猫もいるし、睨みながら走り去る猫もいる。
「桜子ちゃんは猫が好きなんだね」とよく言われますが、(まあこんな文章を延々と書いてるんだから好きなんでしょうけど)、一匹ずつにこれだけ個性がある中で、果たして「猫」という一言で括れるのかしらね、とも思います。
動物と比べちゃあ失礼だと言われるかもしれませんが、人と人の関係も同じじゃないかな、と思います。生きてる者同士の関係ですもの、多様であることは共通ですよね。
「桜子ちゃんは子どもが好きなの?」ともよく言われますが、まあ保育士の資格を持ってるんだから子ども嫌いだったら恐ろしいのですが(笑)、でも子どもも一人ひとり個性があるわけですね。子どもかどうかには関係なく、人と人の関係として、私を好きだと思ってくれる子もそうじゃない子もいるでしょう。
カテゴリーを作って分類することは、ある一定の法則を見出すことができて私たちの頭の整理の助けになると思います。例えば「猫」はにゃーと鳴いてひげがあってジャンプ力のある小さな四つ足動物。その名前を「猫」と名付ければ、実物を見なくても誰もが思い浮かべることができる。 けれど、そういう分類ではまだ足りない、それぞれの個別性、いわば「固有名詞」がある。
人間の文化の中で、カテゴリー分けによる整理はかなり完成しているのではないかと思います。 これからは、カテゴリーではくくれない個別性を見極めていくことをやっていかなくてはいけないのではないかと思います。
「子ども」「高齢者」「障害者」というところではなく、それを越えた固有名詞、例えばどんな属性を持つかに関係なく「加藤木さん」というような固有名詞でお互いを見られるようになれば、乗り越えられる障壁はたくさんあるんだと思います。
「社会的弱者」という言葉があって、私はこの言葉が大嫌いなのですが。「障害者」「高齢者」「貧困の状態にある人」、一人ひとりの人生や個性は見ないうちにカテゴリーで分類して、さらに「弱者」という分類の中に閉じこめる。誰かを「弱者」と呼ぶ人は、無意識に「自分は弱者ではない」と考えているのではないかと気になるからです。自分の友達になら「あなたは弱者だね」とは言わないでしょうしね。弱者と呼ぶことで、自分の周囲からその人達を切り離そうとしているように感じるのです。
「障害」の多くは、障害を持つ本人ではなくて、周りが壁を作ることで生じているのだと思います。 その壁を崩していくために…カテゴリー分けでない人のつながり作りを、少しずつやっていきたいと思います。
…猫の話からいきなり福祉の話へ…いつも以上に内容がぶっ飛んでいてついていけない、という方もいらっしゃるかと思いますが(^_^;)また追々具体的な話を書いていきたいと思います。
大泉学園の駅近くで
今、私がよく聞かれることに対するとりあえずの答え
「制度を作る」だけではできない部分
カラオケ店で火事があって、亡くなられた方がいたというニュースがありました。
店は基準を満たしていなかったとのこと。
守るべき基準を守らないことで起きる事故、失ってしまう命が増えていますね。
耐震偽造、エレベーターなど。
守らないというのは、「人の命を軽んじて効率や利益を求めているからだ」とよく言われますが、「想像力」の問題もあるのではないかと私は思います。
まさか、「効率化のためには人が死んだってかまわない」と思う人がいるとは思えませんから。
なんのために決まり事があるのか。ただなんとなく決まっているだけで、煩わしいものだと思ってしまうと守らなくなってしまうこともあるかも知れません。
その基準があるのはどうしてなのか。今回の事故の場合ならば、煙の逃げ道を作らなければ何が起きるのか。
どんなことが起き得るのか想像することができないまま、言われた基準だから守る、あるいは面倒だから守らない、という判断そのものに問題があるように思います。
不必要な基準だと感じたならば、勝手に破るのではなくて、基準そのものを変えていくように訴えていくことが必要なはずです。
制度や決まり事は、それがあるだけでは意味がない。実際に使う人が理解した上で「生きた仕組み」になるよう、生かしていく必要があります。
基準を作る側は難しい言葉だけで説明するのではなく、生活にどう関わるのかを分かりやすく説明する義務があるし、その基準を使っていく現場の側も、決まり事の意味をかみ砕いた上で使っていく義務がある。
安心できる生活を築いていくには、制度を作るだけではなくて、我々一人ひとりの想像力と仕事に対する専門性が求められるように思います。
制度の狭間を埋めていくために
私が考えている福祉って、なんだか説明しづらいなあ、とずっと悩んでいたのです。
うまい説明の方法になるものを、ここのところいくつか見たり読んだりしたので、それらを引用しながらちょっと頑張って書いてみます。
・・・若干、理屈っぽいですが、我慢してください(苦笑)
日本で「福祉」っていうのが考えられるようになったのは、戦後のことです。
戦災によって生じた問題(障害者、孤児、貧困)を解決するために、福祉が必要となったのです。高齢者に関しては、高齢化が進んできた1980年代頃から。
そんな歴史があるから、多くの人が福祉と聞くと「障害」「貧困」「高齢者」を思い浮かべる。
その対策としてすぐに思い浮かぶのが「施設」。
けれど、今、「福祉」の対象となるべきものの幅はさらに広がり、複雑になってきています。
ホームレス、多重債務、虐待、等々。
複雑で多様な課題を抱えた人が今、世の中にはたくさんいます。共通点があるとするならば、「社会」との結びつきが弱まってしまっている、閉ざされてしまっている、ということ。
私は高校時代からハンセン病の問題に関心を持っていますが、ハンセン病は、手足や視覚に障害が起きるという身体的な障害だけではなくて、さらに大きな問題として「社会からのけものにされてきた」という社会的な障害があります。
「社会から排除される」ということが、今はより多くの人に対して起こっています。
誰の身にも、いつ起きてもおかしくないほど。
昨晩のNHKの「NHKスペシャル」で、「ひとり団地の一室で」というドキュメント番組をやっていました。千葉県松戸にある団地で、孤独死を防止する取り組みをしている人たちの話。
私も、福祉の仕事をする中で、高齢者の孤独死を防ぐための取り組みをしている自治会の方の話を聞いたことがありました。声をかけ続けても、どうしても防ぐことのできない孤独死があるということ…。
今回の番組を見て驚いたのは、孤独死するのは独居高齢者だけではなく、半数近くが5,60代の男性であるということ。
例えば、脳梗塞で障害を負って、家族とも別れて一人団地に住み始めた人が、仕事を探しても年齢的にも障害的にもなかなか見つけられず、でも医者からは「仕事ができないというほどの障害ではない」と言われるために年金も出ない状況(おそらく生活保護も無理でしょう)になっている、などです。
まさに、「制度のはざま」です。
近所の人は気になっていても、そばにいて励ますことしかできない。
なぜ家族と別れることになってしまったのか。それは番組では言われていませんでしたが、もしかしたら「高次脳機能障害」の場合もあるかもしれません。
脳の病気が起きた時に、脳に障害が起き、記憶が悪くなったり怒りやすくなってしまうことがあります。一見今までどおりに元気にしているように見えるので、周りも本人もそれが障害と気づかないまま軋轢がおきてしまうことがあります。
近年高次脳機能障害に対する取り組みも少しずつ進みつつありますが、制度的にも社会の認知度もまだまだという状態ですので、これまた「制度の狭間」となっている問題です。
病気の後に離婚したり家族と離別した人の中には、この高次脳機能障害があるのではないかと、私は思います。それが仕事を見つけられなかったり、見つけてもすぐ辞めさせられてしまう原因にもなり得ます。そして医療機関、福祉機関がそれに気づかなければ、その人はいつまでも社会から隔絶された状況になってしまう。
一見「普通」の人が、実はどこかの部屋の一室で、誰にも気づかれずに一人苦しんでいるのかもしれない。それが起きてしまっているのが今の社会なのです。
福祉は「障害」「貧困」と簡単にくくれる範囲を超えています。
1月1日号の「福祉新聞」で炭谷茂さんと宮武剛さんの対談の特集がありました。とても勉強になる記事でしたが、その中から特に共感できた部分を引用します。
福祉サービスの供給者は、ともすれば「法律に定められた基準に基づいてやっていればいい」「官からきたお金を誤りなく使えば褒められる」状態でした。(中略)でも、これからは独自にどんどん工夫し、現在ある法律を越え、開拓して行く姿勢が必要です。(中略)日本で地域福祉が育たない理由は、法律に縛られているからです。これが日本の福祉関係者の最大の欠点ではないでしょうか。(炭谷氏)
また、冒頭で私が書いたように、障害があること、高齢であることなど、目でとらえられることだけを福祉のニーズと捉えるのではなく、「社会から排除されている」「孤立している」という視点でも考えていき、「社会の仲間に入れる」方法を考えて行く必要がある、と炭谷さんは言っています。
私が福祉の仕事という枠を飛び出し、練馬の地域の活動をしたいと考えたのは、介護保険事業所で働く中では「制度で捉えることのできるニーズ」以外のものに関わることができなかったからです。狭間の人には誰が関わるのか。今は善意の隣人が関わり、どうして良いか困っているケースが多いのです。そこに福祉の専門職として寄り添う必要があるのではないかと。
制度の狭間を埋めていける仕組みや仕掛けを作っていく必要もあると思います。
そしてまずやらなくてはいけないのは、一人でも多くの人に、課題が目の前に迫っているということを伝えていくことだと思っているのです。
成人の日
福祉がたらいまわしにならないように
今日の内容はちょっと、福祉の仕事をしている人の批判めいていて、申し訳ない気もしますが…
練馬ではなくて他区に住んでる知人(仮にBさんとします)の話なのですが。
寝たきりの方用の、寝巻きが欲しかったんだそうです。でも、サイズとか素材とか、ぴったり来るものがなかなか見つからない。寝たきりの人のためだから、できるだけきちっと体にフィットしていて欲しい。これから寒い季節だから、できるだけ素材も温かいものにしたい。
でもなかなか見つからなくて、自分の地域の社会福祉協議会に電話をして聞いたんだそうです。そしたら、「介護用品については、地域包括支援センターに聞いてください」と言われたそうです。
ちょっと注釈。社会福祉協議会は、どこの自治体にもある団体で、地域の福祉について色々やってるところです。ボランティアさんに関することだったり、地域の福祉祭りをやったり。介護保険事業をやっているところもあったりします。
地域包括支援センターは、昨春の介護保険の改正でできたもので・・・文字通りなんですが、地域生活すべてを支えるところです。今まではいろんな制度が分断されてしまっていたから、介護のことだけではなくて高齢者の地域での生活を包括的に支えるところが必要だということで作られました。
さて話を戻して。そういうわけで、Bさんは最初は「地域の福祉の活動をしている」社会福祉協議会に聞いたけど、それは地域包括支援センターに聞いたほうが良い内容だと言われたわけですね。
そんで、Bさんは地域包括支援センターに電話をした。
そうしたら、探し求めている「温かい素材でサイズがぴったり来るもの」がどこにあるかはやっぱり分からないと言われた。そして、「近くに介護用具を販売しているFというお店があるので、そこに電話して聞いてみてください」と言われた。
F店にもやっぱりぴったり来るものがなかった。
でもここで今までとちょっと違ったのは、F店の店員さんが他の店にも電話をかけて探してくれたこと。Bさんに「かけてみたら?」というのではなくて、店員さんが自ら、見つかるまで探してくれた。
福祉の仕事は、必要な人に必要なものが届くように、人や物を調整する役割だと思います。人と人、ニーズと物をつないでいく役割。
社会福祉協議会や地域包括支援センターの人は、Bさんが求めるものがどこにあるのか、一緒に考えるべき役割です。
両方とも、他の団体を紹介はしています。でも、これって「つないだ」と言えるのかなあ、って疑問に思いました。
私には、社会福祉協議会→地域包括支援センター→F店 という、「たらいまわし」に見えるのです。
今回はたまたま介護用具を必要としていたのがBさん本人ではなかったので、根気強く探し求める力がありましたが、もし介護を要する本人またはその家族が必死の思いで探し求めていたとしたら、これだけ何度も電話をかけ直すエネルギーが続いたかどうか。
社会福祉協議会や地域包括支援センターという組織そのものが悪いというわけではないんだと思います。同じ団体の中でも、たまたまそのとき対応した人がそうであったのであって、ほかの人が出たらまた違ったのかもしれない。事実、F店の店員さんは、自分の店に該当の品がなくても、見つかるまで一緒に探してくれたんだから。
でも、問題は、その「ばらつき」なのではないかと。
ヘルパーの仕事をしている中でも同じです。
利用者さんが訴えてくる「今これが辛い」という思いにどれだけ耳を傾けられるか。それは福祉従事者一人ひとりの資質に任せられるところが多々あります。
制度を整えていくことは大事だけど、それだけではまだ足りない。制度を動かす人の質を上げていかなくてはならない。
お金をかけて人を雇うということではなく。
今いる福祉従事者の中ではどんな人が頑張っていて、どこが手薄になっているのか。それを多くの住民の目で、見守っていくということがもっともっと必要になるのではないでしょうか。
私が思う「福祉」
「なんの落ち度もないのにひどい思いをして気の毒な人を助ける仕事」
福祉の仕事をしていると、そう言われることがあります。
だから「福祉の仕事をしている人は皆良い人だよね。偉いね」と。
私はそんなとらえ方がどうもしっくりこない。
【理由その1】
仕事の大変さに関しては、システムエンジニアをやってる友人の方が昼も夜もなく働いているし、夜勤があるのはホテルで働いてる人や24時間のお客様サービス窓口で働いてる人も同じでしょう。
【理由その2】
福祉の仕事をしてる人が良い人だとは限りません(笑)
そもそも「良い人」は定義しにくいと思いますが。
仕事に一生懸命で自分自身の生活はめちゃくちゃになってる福祉従事者が私の近くにはいますし、テレビを見ても福祉従事者が虐待をしたり詐欺をしたり、なんて話もよくあります。
私自身は、どうかなあと振り返っても、後悔のない生き方をできているわけではない。小学生のころ、いじめられていた同級生を救う力がなかったことを、後悔したりもしている。
罪は罪として、決着をつけなくてはならないとして、罪を犯した人が必ずしも完全に悪人なわけではない。
人は弱い面を持っている。それは福祉の仕事をしていても同じ。
イライラすることだって心が迷うことだってあるけれど、せめて仕事をしている間は弱さをいかに制御して、「専門家」として対応していくかが、福祉の仕事をする人には求められるんだと思います。
【理由その3】
その2ともつながる話ですが。
福祉を利用する人は「落ち度のない人」に限られるのか。
逆に考えると、何かしら落ち度のある失敗をした人は、助けてもらえなくても仕方ないのか。
私は中学生の頃から落語が好きです。
落語には与太郎という、ほにゃ~っとした人が出てきます。
近所の人は「また、与太郎は仕方ないね」と言いつつも、与太郎のペースに合った対応を考えてる。
それは、与太郎に落ち度がないから助けてあげてるわけじゃなくて、一緒にいる仲間だからではないでしょうか。
思えば落語に出てくる人は皆、お酒ばかり飲んでいたり、なんとか楽して一儲けをしようと考えては失敗するような、落ち度が服を着て歩いてるような人ばかり。
だけど事態が深刻にはならずに、いつも笑いに満ちているのは、どんな存在でも受け止めあえる地域社会がそこにあるからではないかと。
だから本来福祉は、良い人が施し、可哀想な人が受けるものではなく、「あなたがあなたとしてそこに存在してくれるのが私の幸せでもあるんだよ」と言い合える社会なのではないかと私は思うのです。
でも、今の世の中、それには程遠いのかなと思うこともしばしば。「自己責任」なんて言葉で、突き放されてしまうこともありますしね。
今、「再チャレンジ」と言われる一方で、母子家庭の生活保護が削られたり、高齢者の負担が急激に増えています。
福祉の必要な人の負担を増やすことは、かえってその人がそこから出て社会に参加する力を奪う可能性もあります。
社会の中の壊れたつながりを取り戻すためには何が必要なのか。
「再チャレンジ」というのは一体誰の再チャレンジを保障しようとしているのか。キャッチフレーズに惑わされずに見守る目も必要になると思います。
あけましておめでとうございます
またしてもご無沙汰してしまいました。
あけましておめでとうございます。
今朝早くに空を見たら、とても良い天気でした。昔からよく友達と初日の出を見に行っていたのですが、今年ほど美しく見られた年は珍しいかもしれない。
美しければ美しいほど、写真では見ることができない(少なくとも私の技術とカメラでは本物の美しさを皆さんに見せることができない)というのはとても残念ですが。
美しい空と同じように、今年の私達が素敵な一年を送れるように、と心から祈りました。
私は今年は、より一層練馬の活動の準備に時間を割いて頑張っていきたいと思っています。ブログもできるだけ頻繁に更新できるように頑張ります(^^;
皆さんにとって、今年が輝く一年となりますように。