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今、私がよく聞かれることに対するとりあえずの答え

私が練馬で地域の活動をしたいと考えた時に「福祉の分野にいたのになぜ」「その年齢でなぜ」「ご両親に反対されなかったのか」とよく質問されました。

 

一言ではうまく説明できないもんで、今回のブログでじっくりと。

 

私は高校あたりから進路の方向がおかしいので「なぜ」というのは言われ慣れているんですが・・・。

 

まず、前提として私の経歴から。

 

私立の女子中・高校を卒業した後、慶応の文学部で国文学を学ぶ。大学4年の夏休みにヘルパーの資格を取り、卒業してすぐ上智社会福祉専門学校という夜間の学校に入学。2年間学校に通いつつ昼間はヘルパーや保育園、研修機関のバイトをしながら社会福祉士を取り、学校を卒業してからNPOに就職。そして、練馬の活動に。

 

うん。支離滅裂ですね(笑)

 

でも、自分の中では、つながっているのです。

 

 

 

 ★両親が文学好きだったこともあったのか、小さい頃から書くのは好きでした。口下手だからよけいに、書くことでエネルギーを発散していたのかも。

 

それが本格的に「文学の方に行こう」と思ったのは、たしか17歳くらいの頃。

 

16歳くらいから、「生き方」ということについて悩み始めました。周りの友達がやることに素直に従えないような。りの友達に従えないならば、じゃあ自分は一体どうやって生きたいんだろうか、と悶々としながら、いろんなものを読みました。新聞、本など。

 

新聞を読む中で私をひきつけたのがハンセン病であり、同時にその頃自分が住んでいた地域の手話サークルに参加したりもしながら、自分が本当にライフワークにできるものを探していた。

 

同時にひきつけられたのが、文学の世界。それまでは自分が書くことに喜びを感じていたのが、読むことに喜びを感じたきっかけは有島武郎の「或る女」と太宰治の「斜陽」。

 

自分の人生を生きるだけではとても感じ得ない、体験しない世界を、文学の中で感じることができる。人生は豊かで深みがあり、簡単に理解し得ないものもある。一人ひとりに物語がある。その、未知の世界に心おきなく踏み込んでいけるのが文学なのです。

 

だけど、「国語」のおかげで多くの人が文学嫌いになる。なんてもったいないんでしょう。夏目漱石を読む年齢が早すぎるのです。そして、作文を強要されることで書くことすら嫌いになってしまう。なんてもったいないんだろう。書くことで自分を発散させ、読むことで人生の深みを知る。そのお手伝いをしたいと思い、国語の教師を目指し始めたのが高校2年生でした。

 

★大学に入り、いざ国文学の道へ。慶応を選んだのは、高校時代に関心を持ち始めたハンセン病の問題で、清瀬にある多磨全生園にいた森元美代治さんが、病気であることを隠しながら頑張って行った大学が慶応だったから、ということもありました。伝統を大事にしながら先を見ていくという慶応の気風に関心をもったということもありました。

 

大学時代に、ハンセン病の国賠訴訟がおきて、ちょうどその頃自分の家の近所に森元さんが来て講演をしたのをきっかけに、訴訟を支援する会に入ることができました。ハンセン病に関心を持ちながらもなかなか具体的な参加の仕方を見つけられず、4年目にしてようやく関わりを持つことができるようになったんです。新聞やテレビでしか拝見していなかった森元さんともやっと知り合うことができました。

 

★2001年の国賠訴訟判決。国が控訴を棄却してくれるかどうか。どうか棄却して欲しい。1週間くらい、私も座り込みに出かけていました。授業の前に行って、授業に出て、また戻る。ああ、どうなるだろうか、刻一刻、状況は変化する。新聞に書いてあることが必ずしも正しいことではないということも、このときに知りました。

 

控訴するのかしないのか。気になりつつもとにかく学校に戻って授業に参加する。

 

その授業は万葉集。

 

うーん。。。。

 

そのとき、国文学にいることに違和感を覚えました。

 

私が目指した国文学は、「人の心を知ること」「人の人生の豊かさを知ること」でした。

 

でも。今社会はとっても大きく動いている。

 

長年続いてきたハンセン病に対する差別についての、ひとつの節目がやってくる。

 

そのときに、慶応で国文学を勉強している私は、万葉集に出てくる月の表現について学んでいる…。

 

たしかに、何百年も何千年も変わらない人の心もあると思う。だけど、それは、まずは今、同じ時代に生きている人の心に起きている問題を知っていてこそ分かる深みではないかと思うのです。

 

今、起きているハンセン病の問題に露ほどの関心を示さず、こんなに社会が動いているというのに、普段と何も変わらず、万葉集を読んでいる・・・ああああ、もうダメだ、私は国文学にはいられない、と思った瞬間でした。

 

★2001年5月23日。無事、ハンセン病問題の控訴断念が決定しました。私はそのとき、大学で、サークルの活動にどうしても参加しなくてはならず(サークルは、ダンスだったんです…やはり支離滅裂)、控訴断念を知って慌ててそれからまた国会方面に向かったのです。

 

★その直後の7月にあった参議院選挙に、私がハンセン病を知って以来ずっと気になっていた森元美代治さんが出ることになりました。このときまでに私は森元さんに、慶応に入るきっかけが森元さんだったってことも話していましたので、親しくなりつつありました。これは手伝いに行かなくてはならない、と出かけて行ったのです。そこに来ていたのが、今私の活動の事務局長をしている水藤さんでした。

 

★私は森元さんの選挙を手伝うまで、「このまま国文学の大学院に行って学校の先生になるか、研究者になりたいな」と思っていました。だけど、森元さんの選挙の手伝いに行って、そこで知り合った水藤さんと、参議院の小川敏夫さんの秘書の方と、その二人に知り合ったことは、21歳の私にとってとても大きいことでした。

 

研究者の道に行こうとしていた私にとって、社会の中で生きていた方が、とても素敵な生き方をしていて、それを見て、ああ、こんな風になれるならば、私も研究者ではなくて社会に出てみたいな、と思いました。それはお二人に直接言ってはいませんけど、このときから早5年半、今の私の活動を組み立てる中心となっているのも、不思議とこの二人だったりするのです。


★子ども達に国語を教えるという夢は、今の学校ではどうしても子どもと教師が1対多数になってしまう中で、きめ細かに教えることができないということも感じて、もっと個別にかかわることのできる仕事をしたいとも思ったのです。

 

★森元さんの選挙をきっかけに私は、社会に出ていきたいと思ったんですけれど、その方法として福祉の道を選びました。それは森元さんがハンセン病だったからではないのです。

 

人の心って面白いのですよね。とってもいい人同士でも、相性が合わないといがみ合うこともある。でも、方法次第では間を取り持って行くこともできる。ちょこっとした一工夫で、人間関係は変わってきます。その調整をすることができたらおもしろいだろうな、ということ、選挙を手伝って思ったのです。人と人をつなぐ役ならば、福祉が良いかなと思って、大学を卒業してから学校に入りなおしました。

 

★実際の経験を積みながら勉強したいから、夜間の学校に入って、昼間は仕事をしたのです。初めてヘルパーをやったときに、一人暮らしの方の家に行きました。・・・あ、これは朝の駅頭で話している内容です。

 

団地でひとり暮らしをしているおばあちゃん。外に出る気力がなくなってしまっている。どこも悪くないはずなのに、体を動かすのが辛いといって、家に閉じこもっている。近所の人と話をする機会も減っている。ごみ出しを手伝っている近所の人がいるけど、あの人は多分嫌がっているんだ、とおばあちゃんは言う。本当にそうなのか、おばあちゃんの被害妄想なのかは私には分からないけれど。とにかく社会とのつながりが途切れがちなのはたしか。

 

おばあちゃんは結局、私が行き始めて3ヶ月くらいで施設に入ってしまったのだけれど、その3ヶ月間、週3回の私とのやりとりはかなり密接でした。「かとうぎさんが帰った後も、ああ、かとうぎさん、どうしているのかなあって、考えていたのよ」と、おばあちゃんに言われました。

 

うん、私も家に帰ってもいつもそのおばあちゃんのことを考えていました。ああ、もしかしたらあのときあんな言い方をしたら悪かったのかもしれない、今、あのおばあちゃんは家で元気にしているのかな、と。しばらくそのおばあちゃんが頭を離れませんでした。

 

でも、ほんとはこういう関係、良くないんですよ。恋人同士みたいでしょ(笑)

 

ヘルパーと利用者は、恋人同士みたいな依存関係になっては良くない。もちろん、恋人でも依存に近い関係になるのは良くないのですが。

 

人は、たくさんの人が支えるから生きていくことができる。一対一の関係だけではなく、さらに広がる社会があるから生きられる。視野も広がる。

 

人の心は複雑で、一筋縄ではいかない。一つに定義はできない。

 

そこまで含めて、人の人生は支えあっていかなくてはいけないはずなのです。

 

形として見えにくいけど、ほんとは、そういうことを支援して行く地域の中の仕組みがなくてはいけないはずなのです。

 

でも、介護の仕事をする中ではそれはできなかった。じゃ、どうしたら、地域の中のすべてを支えられるのか…悩んだ結果が、今の活動です。

 

 

 

ふう。長い歴史でした。この10年の私の歴史でした。

 

 

 

★私の活動について説明する中での「なぜその年で」「ご両親はOKなの?」という質問。

 

いくら未婚だとはいえ、26歳ですので、なぜ両親の許可が必要となるのかがよく分からないのですね。

 

私は、自分の意志が決まった段階で、多分協力が要るだろうということで親に説明しました。(ちなみに母はなくなってますんで、両親ではないですが)

 

同様に、「若いのに」という言い方も、良く理解できないのです。

 

今の若者について、フリーター、ニート、パラサイトなど、色々問題になって、そのたびに「今の若者は」みたいな話になりますが。

 

でも、10代の頃から感じていたこと。大人は、都合次第で「お前はまだ子どもだから」という言い方と、「お前ももう大人だろう」という言い方と、使い分けますよね。

 

フリーター等について文句を言う時には「今の若者はなってない」と言いながら、意見を言う若者に出会うと「まだ若いくせに」という。

 

じゃ、今の「大人」は、若者にどうして欲しいと思っているわけでしょうか。

 

ま、「今の若者は」的な言い方は平安時代頃からあるみたいですから、人間の性なのかもしれません。

★でも、私の今の生き方に一番影響しているのは、小学生の頃に言われた母の言葉かもしれません。

今はそんなに言われなくなってきたけど、「良い学校を出て、良い会社に入って・・・」っていう言い方ってありますよね。

 

小学生の頃、まだ特に何も考えていなくて、生意気に母に「世の中って、良い学校を出て良い会社に入って生きていけばいいもんなんでしょ」みたいなことを言ったことがありました。

 

そしたら母が、「そんな表面的なことしか考えてない人間に育てた覚えはない」と怒りまして(笑)

お、そうか、良い学校をでて良い会社に入るべきじゃないのか、と小学生の私は納得しました(笑)

 

「良い」という判断は何なのか分かりませんが・・・

とりあえず母の言いつけを忠実に守り(?)、「良い会社に入る」というところはやらなかったわけですね…。

うん、そんなこんなで今の私があるのです。
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桜子のツイッター

プロフィール

かとうぎ桜子

Author:かとうぎ桜子
1980年生まれ。

保育士、ヘルパー2級、社会福祉士の資格を使って福祉の仕事をしてきました。
制度だけでは一人ひとりが安心して生活するまちを作るには不十分だと考え、誰もが安心できるまちのしくみ作りをしていきたいと考えています。

2007年4月の統一地方選で練馬区議会議員に初当選。

2010年3月、「市民参加と公共性―保育園民営化を契機として」と題する修士論文を書き、立教大学大学院・21世紀社会デザイン研究科を修了。

2011年4月 無所属で2期目に当選。

2011年末に子宮頸がんが見つかり、2012年春に円錐切除の手術をしました。その後は今のところ再発もなく元気に仕事しています。
この経験を活かし、がん検診の啓発など健康に関する課題にも取り組んでいこうとしています。

2015年4月、3期目に当選。

会派は市民ふくしフォーラム。

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