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行政の役割と議員の役割
昨晩、「民間委託に関する資料をください」と行政の人にお願いをしている夢を見て、夜中にハッと目覚めました。。ああ・・・
民間委託に関する陳情に対する私の態度について、一つの意見として、私が感情的に保護者の側に引っ張られているのではないか、という批判があったように思うので、そのことについて書きます。
「区政は保育園のことだけじゃないんだから、バランスを持って見ろ」という意見。
これはそもそも、前々回のブログで、私が「うまく説明できないけれど、なんとなく一緒にいて心地が良くなる人がいる」と書いたせいだと思いますが。
これは、語弊のある言い方かなと、書きながらも思ってはいたのですが。
いつだったかのブログで、ニーズとデマンドを見分ける、という話を書いたように思います。
「嫌だ」とか「ほしい」とかいう、欲求(デマンド)なのか。それとも生きるために必要なこと(ニーズ)、それを認めることが社会全体の改善にまで広がることなのか。
福祉の仕事をしていても、その見分けをしていくことが必要だったけれど、それは議員でも同じではないか、というような話を、たしか議員になったばかりの頃に書きました。
保育園の保護者たちが、区の全体のありようを考えずにただ自分の子どもの通う保育園だけが良ければ良いと思っているならば、それはデマンド。もしそうならば、支援者は、デマンドに振り回されずに、その声の裏にあるかもしれないニーズを探っていく必要があるでしょう。
私が、保護者に対して「一緒にいると気持ちが良い」と感じたのは、保護者の思いがデマンドではなく、ニーズだったからだと思うのです。
子どもが安心して生きていくために、きちんとした方向性を示してほしいということ。行政としての子育て支援の方向性の中で、委託をすることがどんな効果を発揮するのかをきちんと示してほしいと言うこと。
それは、「保育園」という問題だけではなく、行政としての役割はどうあるべきか、という全体の問題への提起であったから、その声をよく聞く必要があると私は思ったのです。
ただ、保護者と一緒にいる時間が長かったから情がわいて、一緒にいて楽しいと思った、という話ではないのです。情に流されるようならば、それはそれで社会福祉士失格でしょう。
行政は、区民の全体像を見た上で、公平・中立な立場で区のあり方を決めていく。
それが行政の役割なのだから仕方ないのだけど、前に早瀬昇さんのお話を聞いたときに言われていたように、それだけでは対応しきれない問題が起きる場合がある。
阪神大震災のとき、行政は全体を見ないと動けなかったから、震災後すぐに動くことができなかったけれど、その分行政ではない市民の機動力が注目された、というお話がありました。
「木を見て森を見ず」という言葉があるけれど、行政の場合には森を見すぎてその中の木が見えなくなってしまう場合があるわけですね。森の中にある木を良く見てみたら、枯れている木が増えてきてしまっているかもしれない。ときには木の様子を見ておかないと、気づかないうちに森全体が朽ち果てることになってしまうかもしれない。
私は、議員として、「一本ずつの木もよく見るべきだ。ほら、ここの木が、腐りそうになっているよ。このままでいいの?」と言う役割を持っていると思っているのです。
委員会で保育園の陳情の結論を話し合うまでの1週間ほど、ブログを書けなかったのには、保育園のことで頭を悩ませていたこと以外に実はもう一つ理由がありました。
17日の日曜日に大学院を受験しまして。
そのことを書きたかったけど、もし落ちたら嫌だから、と思って、書かずにいたのでした。
つまり、無事合格したので書くのですが(^^;
これからの「公」のあり方を考えたいのです。
行政をスリム化していって、最終的に残る行政の役割は、市民や、民間事業者や、多様な立場で「公共性」を支える人々をバックアップし、コーディネートすることなのではないかと思います。
そこで、具体的にはどこまで行政が責任を持つのか、という線引きが必要です。
一般質問だとか、いろんなときにそれについて質問してきたつもりですが、どうも納得できる答えがもらえない。
答えがもらえないことにいつまでも怒っていても仕方ないから、自分で研究しよう、と思ったのです。
大学院の試験は、私は社会人入試なので面接のみでした。
先生に、研究の目的を話すのですが、私は、いつもブログに書いているようなことをブツブツブツブツ言っていました。「なんで【協働】と言いながら、区民の意見を聞き入れるしくみになっていないんだろうか。私はNPOで働いてきたけれど、そこで実感してきたような市民の日々の思いが行政施策に反映されているとは思えない」とブツブツ。
ブツブツ言う私のことばを一通り聴いて、先生が一言。「NPOでやってきたあなたが、今、新しく議員の仕事をしてみて、カルチャーショックのただ中にいるんだね。」と。
そうか、私は今、カルチャーショックの中にいたんだなあ、としみじみ、自分自身について振り返ることができたのでした。
※かとうぎ桜子を育てる会のホームページはこちら

民間委託に関する陳情に対する私の態度について、一つの意見として、私が感情的に保護者の側に引っ張られているのではないか、という批判があったように思うので、そのことについて書きます。
「区政は保育園のことだけじゃないんだから、バランスを持って見ろ」という意見。
これはそもそも、前々回のブログで、私が「うまく説明できないけれど、なんとなく一緒にいて心地が良くなる人がいる」と書いたせいだと思いますが。
これは、語弊のある言い方かなと、書きながらも思ってはいたのですが。
いつだったかのブログで、ニーズとデマンドを見分ける、という話を書いたように思います。
「嫌だ」とか「ほしい」とかいう、欲求(デマンド)なのか。それとも生きるために必要なこと(ニーズ)、それを認めることが社会全体の改善にまで広がることなのか。
福祉の仕事をしていても、その見分けをしていくことが必要だったけれど、それは議員でも同じではないか、というような話を、たしか議員になったばかりの頃に書きました。
保育園の保護者たちが、区の全体のありようを考えずにただ自分の子どもの通う保育園だけが良ければ良いと思っているならば、それはデマンド。もしそうならば、支援者は、デマンドに振り回されずに、その声の裏にあるかもしれないニーズを探っていく必要があるでしょう。
私が、保護者に対して「一緒にいると気持ちが良い」と感じたのは、保護者の思いがデマンドではなく、ニーズだったからだと思うのです。
子どもが安心して生きていくために、きちんとした方向性を示してほしいということ。行政としての子育て支援の方向性の中で、委託をすることがどんな効果を発揮するのかをきちんと示してほしいと言うこと。
それは、「保育園」という問題だけではなく、行政としての役割はどうあるべきか、という全体の問題への提起であったから、その声をよく聞く必要があると私は思ったのです。
ただ、保護者と一緒にいる時間が長かったから情がわいて、一緒にいて楽しいと思った、という話ではないのです。情に流されるようならば、それはそれで社会福祉士失格でしょう。
行政は、区民の全体像を見た上で、公平・中立な立場で区のあり方を決めていく。
それが行政の役割なのだから仕方ないのだけど、前に早瀬昇さんのお話を聞いたときに言われていたように、それだけでは対応しきれない問題が起きる場合がある。
阪神大震災のとき、行政は全体を見ないと動けなかったから、震災後すぐに動くことができなかったけれど、その分行政ではない市民の機動力が注目された、というお話がありました。
「木を見て森を見ず」という言葉があるけれど、行政の場合には森を見すぎてその中の木が見えなくなってしまう場合があるわけですね。森の中にある木を良く見てみたら、枯れている木が増えてきてしまっているかもしれない。ときには木の様子を見ておかないと、気づかないうちに森全体が朽ち果てることになってしまうかもしれない。
私は、議員として、「一本ずつの木もよく見るべきだ。ほら、ここの木が、腐りそうになっているよ。このままでいいの?」と言う役割を持っていると思っているのです。
委員会で保育園の陳情の結論を話し合うまでの1週間ほど、ブログを書けなかったのには、保育園のことで頭を悩ませていたこと以外に実はもう一つ理由がありました。
17日の日曜日に大学院を受験しまして。
そのことを書きたかったけど、もし落ちたら嫌だから、と思って、書かずにいたのでした。
つまり、無事合格したので書くのですが(^^;
これからの「公」のあり方を考えたいのです。
行政をスリム化していって、最終的に残る行政の役割は、市民や、民間事業者や、多様な立場で「公共性」を支える人々をバックアップし、コーディネートすることなのではないかと思います。
そこで、具体的にはどこまで行政が責任を持つのか、という線引きが必要です。
一般質問だとか、いろんなときにそれについて質問してきたつもりですが、どうも納得できる答えがもらえない。
答えがもらえないことにいつまでも怒っていても仕方ないから、自分で研究しよう、と思ったのです。
大学院の試験は、私は社会人入試なので面接のみでした。
先生に、研究の目的を話すのですが、私は、いつもブログに書いているようなことをブツブツブツブツ言っていました。「なんで【協働】と言いながら、区民の意見を聞き入れるしくみになっていないんだろうか。私はNPOで働いてきたけれど、そこで実感してきたような市民の日々の思いが行政施策に反映されているとは思えない」とブツブツ。
ブツブツ言う私のことばを一通り聴いて、先生が一言。「NPOでやってきたあなたが、今、新しく議員の仕事をしてみて、カルチャーショックのただ中にいるんだね。」と。
そうか、私は今、カルチャーショックの中にいたんだなあ、としみじみ、自分自身について振り返ることができたのでした。
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