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路上生活者の襲撃事件

6月27日に、府中で、ホームレスの男性が殺害されたという事件を聞きましたか?
70代~80代くらいの人で、頭を強く殴られ、わき腹を刺されていたとか…。

7,80代になって路上の生活をしないといけない状況って、それまで何か支援の手が届いていたんだろうか・・・というのがまず気になりますね。。

「抵抗の跡がなかった」って、毎日新聞の記事に載っていたけど、なんというか、不意をつかれたという以外に、年齢的にも置かれた環境的にも、抵抗する力が出なかったんだろうな、と思います。

その人はいったいどんな思いで、70年、80年の命を閉じたんでしょうね・・・。

近くではここのところ、襲撃される路上生活者がいたということも、書いてあります。
一体誰が、どういう理由で路上生活者を襲わなくてはならないのか・・・その理由を解明するためにも、きちんと、犯人が逮捕されることを待ちたいと思います。


事件現場は府中市是政というところ。私が中学1,2年の頃に住んでいたところです。
私立の学校に通っていたので、是政の周辺がどんな街なのか、あまり全体像はつかんでなかったですが・・・東京競馬場が近くにあって、少し行くと競艇場もあるけど、あとはほとんど住宅街です。お店もほとんどない、静かな街だった。
競馬場を過ぎて少し先に行けば、大国魂神社というちょっと有名な神社があって、そちらのほうは随分栄えてますが、競馬場の裏を入り、私が住んでいたほう、今回の事件があったほうに行くと、ほとんど人通りの無いところ。

現場は中央自動車道の高架下だというから、そういうところを使って、ぽつりぽつりと路上生活の人が暮らしているのでしょう。

その人たちを、近隣に住む人は日々どう感じていたのでしょうね。

あのあたりに、路上生活の人がいただろうか・・・私自身の、15年くらい前の記憶をたどろうとしても、思い出せない。たとえあのとき、そこに路上生活者がいたとしても、12,3歳のときの私は、見ないふりをしていたのかもしれません。
ホームレスに関して、親からは何か言われていたかなあ・・・特に家族で話し合うことも無かったと思うけど、あえて言うならば近づいちゃダメよ、というようなことを言われていたのかもしれません。
だから今になって思い出そうとしても思いだせない。

そんな、あの頃の自分のあり方に対する反省(そしてそれは、大人が路上生活の問題に向き合っていないということが鏡映しになっていることも含めて…)を込めて、改めて、路上生活者の問題に関する人権を考える機会の重要性を思います。

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心のなめくじはどうやったら消えるのでしょうか

私は「ふだんのくらしのしあわせ」と、名刺だとかブログのタイトルだとかに書いているけれど、そもそも「幸せ」って何なんだろう・・・そんな内容を、少し前のブログに書いたことがありました。

今日はさらにもっと動物的に、人が幸せを感じるというよりもさらに本能的にある、「快」と「不快」って何なんだろう・・・という疑問について書きます。

なんとなく心にパッと浮かぶ、「うれしい」とか、「やだな」という感覚です。これは一体、何を根拠にして起きる心の動きなんでしょうね。


例えば、ここのところ雨が降るとすごい勢いでザッと降りますね。すると足が濡れる。私は、(なんか猫みたいですけど)足が汚れるのはとても嫌いなので、雨が降って靴下とかストッキングが濡れるととても不快。乾くまで、ひそかにブスッとしています。

でも、それを解決するためには、タオルとかえの靴下を持っていれば済むことでしょう?


とっても腹が立つということも、対応は簡単。
やっぱりこの1年で1番腹が立ったのは、昨年末から年明けにかけての保育園の民間委託の動きでした。
腹が立つ!と思ったらそれを意見で言えば良いし、解決するための方策を見つけるために、今私は大学院に行っている。
解決策ではないけれど、対応して発展させていくことはできる。


でも、腹が立つことよりももっと曖昧でよく分からない、もやっとしたどろっとした気分になること、ありませんか?

なんというのかしら、心になめくじが這っているような、妙な不快感…。

もや
もや
っと。

その正体が何なのか、私にはまだ分からないんです。

これは、議員という仕事じゃなくて、何の仕事をしていてもあるような気はするんです。


私は、この心のなめくじが増えすぎたときには、ブログを書くまでの間隔が長くなったり、そして胃腸がおかしくなったりするように思います。

子育て支援や、福祉に関わる相談でも、この漠然とした不全感に対する対応というのが大きな課題なんじゃないかなと思います。「生きにくさ」と表現されることもあるかもしれませんが…。


逆に、別に何かをしたわけじゃないのに妙に愉快な気分になる時もありますね。
特にじっくり話したことがあるわけじゃないのに、廊下ですれ違ってただ挨拶を交わすだけで、「あ、今日、この人と挨拶できたから、なんとなく愉快」と思えちゃう人って、いると思いませんか?

一言で言えば、「相性」なのかもしれないけれど、この、不思議な快と不快の原因を解明できたら、不快さえも快に変える術も見つけられるのかもしれないと、ふと思ったのです。


なぜこんなことを書いたかというと、昨日、途中まではいつもどおり心がなめくじになっていたのですが、あるときからとっても愉快になったんです。
私はその場に行って、ただ座っていただけで、特に私がしゃべっていたわけでもなく、その場にいるほかの人の話をただ聞いていただけなんですが、なぜかそれだけで、ここのところの胃腸の痛さが取れちゃうくらい、なんだか愉快な気分になったんです。

だから、昨日、その場に一緒にいた人に、ありがとうと言いたくなって、ブログを書きました。


それから、心になめくじが這うのは、仕事をしていれば仕方が無いことなんでしょうかね?なめくじを消す、いい方法を知っている方は、ぜひ教えてください。
・・・なめくじを消すには、塩を振れば良いんですよね。まだ私はその塩のありかが分からないので。。

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こねこさん

議会でも、その他の説明会や勉強会でも、ほかの人の発言を聞いていて「面白いなあ」と思ったときは、せっせとメモをとっています。

昨年の今頃、ただただ、やみくもにせっせせっせとメモっていたら、あるときふと読み返したら誰の発言だったのか分からなくなってしまいまして(^^;

健康福祉委員会の時のメモを読み直して、「あれ?これは私が言ったんだったか、それともほかの人の発言をメモったんだったか、はたまたただ心に浮かんだ言葉を書きなぐったんだろうか…」と頭を抱えました

それでしみじみ、「発言者の名前は書いておかなくちゃ」と思いまして。


以来、
(私が言ったこと)
○○○・・・・云々

(Aさん)
△△△・・・・云々

(Bさん)
□□□・・・・・云々

というように、カッコ書きで発言者名を入れることにしています。



さて。話は変わって。

月曜日は大学院の授業を2コマとっています。1コマ目は「孤独なボウリング」の授業で、「私はこんなことを考えた」という意見を出し合って盛り上がります。この前の月曜日は特に時間を超過した議論。
楽しかった…と思いつつ、少し遅れて2コマ目の授業に向かいました。

すると、いつもの先生ではなくて、違う人がお話をしている。
おやおや、ゲストスピーカーみたいだな。
そろそろと入り、着席し、お話を聞き始める。
途中からだからすぐには内容が分からないんだけど、しかしまあ、このゲストスピーカーさん、どっかで会ったことがあったような。。

ウーン・・・としばらく考えながら話を聞く。

・・・だんだん話の内容で分かってきました。その方は、江戸家小猫さんでした。

確か私が小さい頃、教育テレビかなにかでよく見ていたような記憶があります。私は寄席好きでもありますから、「ほぇ~、小猫さんだなあ」とボケーッと見惚れながら(?)、話を聞いていました。

小猫さんは、動物の鳴きまねをする人。

授業では、ウグイスとホトトギスの鳴きまねをしてくれました。

ウグイスは、一夫多妻で、自分の妻たちを守るために、雄は縄張りを誇示しようとする。そのために「ほーほけきょ」と言って他の雄を牽制する。だから、繁殖期には1日何千回もほーほけきょを言うらしい。
いくらなんでも、ほんとに何千回も鳴くだろうかと不思議に思った小猫さんは、実際に森に出かけていって、「ほけきょ」のカウントをしてみたらしい。
一言「ほーほけきょ」というのも、どんな事情があるのか、どんな思いで鳴くのか、そんなことを考えながら、勉強しながら、そして実際に足を運んでみて、鳥の息遣いを感じる。
そんなプロセスを経て真似をする「ほーほけきょ」は、口先だけの真似とは少し深みが違うのだと、小猫さんは言っていました。


これって、多分、人間同士の関係も同じですよね。
議会の中で、気になる問題を耳にした時、まずは資料を調べたり、行政の人にお話を聞いたりするんだけれど、そこで済ませては口先だけになってしまう。実際に現場はどうなんだろうか。ほんとに言われたとおりの状況なんだろうか。もしそんな状況ならば、当事者は一体どんな思いでいるんだろうか。
現場の息遣いを感じた上で動くからこその深みを持っていかなくてはいけないと思うのです。
そして現場だけ見るだけでも全体は見えなくて、現場を見るときには全体像を頭の隅に置いておくことも必要で。
他の話題に移ったときに小猫さんが「感情だけでは流されず、客観的な判断は必要になるけれど、でもだからといって感情が無くなってしまってもいけない」とおっしゃっていました。心と頭のバランスですね。

他にも色々、小猫さんからは面白い話を聞きました。

これはメモしておかなくちゃと思って。
まずはつらつらと、小猫さんの発言をメモする。

ここで、ふと我に返った。あ!そうだった!発言者の名前もメモしておかないと、また分からなくなってしまう。
そこでいつものように、発言記録の頭に書き足しました。

(小猫さん)
と。


・・・んー。

「発言者 小猫さん」か・・・。

3年くらい経ってからふとこの部分だけ読み直したら、「猫? 猫? 小猫の発言って一体どういうこと!?」と自分がパニックになるんじゃないかと、想像したのでした。。(^^;

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養育家庭の勉強会

うちの近所の人にお誘いいただいて、日曜日に勉強会に出かけました。

東京都に、「養育家庭」という制度があります。

いろんな事情で自分のお家で育てられない子ども達を、代わりに預かって育てる仕組み。「里親」だけど、養子にすることを目的にするんではなくて、子どもが健全に育つように支援するしくみです。

今のNHKの朝のドラマでもやっていますね。

そんな、「養育家庭」をやっている人たちが勉強したり交流したりする集まりを、アン基金プロジェクトというNPOがやっている。

今回は、精神障害についての勉強会だというので出かけました。

会場に行ったら、社会福祉士の学校のときの同級生が受付に座っていて、「あら!桜子ちゃん!どうしてここへ!?」と目を白黒させていた。
まあ、世の中、狭いってことですね。

お話は、明治学院大学の村上雅昭先生という方のお話でした。

統合失調症の特徴とうつ病の違いを主に説明。

「ストレスがたまると、一番もろいところに出るんですよ。胃がナイーブな人は胃の中の化学物質のバランスが乱れて胃炎や胃潰瘍になるし、脳がナイーブな人は脳内の化学物質バランスが乱れて統合失調症などになる。」という説明。
そうか、それじゃあ私は胃腸がナイーブなのか・・・とお腹をさする私。。


養育家庭をとりまく人に限って見てみても、精神的な不調というのは、預かっている子どもの問題でもあるし、子どもの生まれた家の親の問題でもあるし、そして預かる側の養育家庭の人の問題でもあるんだなと、話を聞いて思いました。

さらに広げていけば、路上生活の問題にも、貧困の問題にも、DVや女性の問題にも、子育ての問題にも、全部共通してくることでもありますね。

例えばひとり親家庭のお母さんが、子どもを育てながら仕事もしないといけないことによってストレスがたまり、精神的な不調になるとする。そうすると、周りから見たら「早いうちに病院に行ったほうが良いな」と思うんだけれど、本人にしてみれば仕事を休んだら食べていけないから、物理的にも精神的にも自分の不調に目を向ける余裕がなくなる。でも、お母さんが不調だったら、子どもにも影響があるわけで。
こういう例を考えてみただけでも、これは、子どもの問題であり、女性の問題であり、貧困の問題、働き方の問題であると言えますね。

ふーむ・・・なんて考えていると、頭の中が「知恵の輪」みたいにこんがらがってきます。

この講演の中でも言われていたんですが、「何をストレスと感じるか」は人によって幅が違うんですよね。
そんな中で、不調に陥ったときに、「体調管理は自己管理だ」みたいな話にもなっちゃうんですが。
だけど、上に挙げた事例みたいに、もういっぱいいっぱいだと分かっていても働かざるを得ない状況というのが現実にはあるんですよね。
働きすぎて体調を崩しても「自己管理」、じゃあ自分のキャパに合わせて休んで生活ができなくなったら「自己責任」になっちゃうとしたら、どこに居場所を求めたら良いのか・・・。

これはやはり、狭い意味での福祉での対応ではなくて、一人ひとりに合わせた働き方、生き方が認められるような社会をどう作っていくかという、かなり幅の広がる話なんだろうなと思います。
一般質問で「ワークライフバランス」について言うために、国の動きなんかを調べていましたが、「ワークライフバランス」は子育てしやすくする働き方というだけではなくて、心身が健康な状態で仕事をできるということまで含まれるんですね。

いろんな問題で、「社会の中の居場所」と「働き方」というのが、解決の糸口なのかもしれないと思います。

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昨日のこと


今日は、なんていうこともない話です。

昨日の午前中、出かけようとしたら、いよいよ腸が痛くて、まるで腸の上に漬物石でも置いたような感じになってきたので、ついに病院に行きました(^^;

検査をしてもらったら、おなかに入っている内臓は全部元気そうだということで、ストレスでちょっとおかしくなっただけだろうということになりました。「治らなかったらまた来てね」と言われながら渡された整腸薬を飲んだら、今日はだいぶ元気になりました。

「腸が痛くなるほど、いったい何がストレスだったの?」と会派の人たちに心配をされましたが(^^;)、あしがらさん上映会と一般質問の時期を重ねてしまったという、計画ミスです・・・
ダメですねえ、仕事の仕方がまだ不慣れで・・・ 計画の立て方は気をつけたいと思います。反省。


ここのところ、ブログでも「腸が痛い・・・」と書き続けていたので、一応、報告でした(^^;


まあでも、ほかの内臓が悪かったら嫌だなと思っていたので、ホッとしながら区役所の近くを歩いていたら、私の前に黒い子猫が出現しました。

おやおや、と見ていたら、猫は急にごろんと転がっておなかを出して見せている。
ごろにゃん、と。

おやおや・・・なんで急に私の前でごろごろしているんだろうか、この子は。

戸惑う私。そんな私に猫もためらいながら、それでもまたごろごろ。

知らない人の前でめったにお腹を出すもんじゃありませんよと、お母さんとかに言われなかったのかしら、この子は・・・と、なんだかハラハラした気分になりました

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前回の続き

大学院の授業で、パットナムという人の、「孤独なボウリング」という本を読んでいます。

600ページを越す、枕としても活用できそうな分厚い本です・・・(^^;

社会の中の人と人のつながりには、いろんなものがありますね。町会に加入することや、職場の団体に加入すること。政治の集会に参加すること。ボランティア活動をすること。などなど。

そんな諸々の活動の参加率が下がっていて、「人と人のつながり」が減っているといわれているけれど、それはなんで起きてしまったんだろう、ということを、いろんなデータを使いながら追っていく本です。

はじめ、若干、本の分厚さに困惑しましたが、でもタイトルに惹かれて、この授業をとりました。

「孤独なボウリング」。ボウリングは、あのボウリングです。玉を転がすやつ。

日本よりもアメリカの方が文化として、ボウリングは社交として使われていたという背景もあるようですが、でもそのアメリカのボウリングも、今は社交としてのつながりが薄れてしまっている。同じ場所でボウリングをしていても、それが人と人のつながりには発展しないで、それぞれ、めいめいに一人ぼっちでボウリングをしているような状態。
社会全体が「一人ぼっちでボウリングをしている」ような状態になっているのではないか・・・そんな意味のタイトルなんだそうで。

これは、前回のブログで私が「カラオケボックス」と挙げたのと同じような事例なんではないかなと思います。
同じ空間にいるのに、一人ぼっち。


それで、その状況が起きたのはなんでだろうか、とずーっと追っていくのを、ようやく半分くらいまで読んだんですけど、その中で、一つの理由としてテレビの存在を挙げている章を読んで、その中に、なるほどそうかもしれないなあと思う言葉が出てきました。

すべての他者の問題が、切迫度の点でほぼ等しく見えれば(中略)「一番目」たる自分自身のことに目が向く人が多くなるのは驚くべきことではない。

それで前回のブログと同じ話になりますが、毎日毎日私達はテレビでたくさんの辛い問題を目にしますね。どれも深刻で辛い話。重い話。でもその量があまりに膨大すぎてどうして良いか分からなくなる。
そうなったときに、何を最優先にするかというと、一番身近な自分自身となってしまうのかもしれない。
知らない人の辛い問題がいっぱいあってどうして良いか分からなくなったら、自分自身の問題だけに目が向いていってしまうのかもしれない。

貧困のような問題についてのテレビ報道が広まることによって、視聴者はそのような問題の原因を、社会的欠陥よりもむしろ個人に帰属するようになり、それを解決するための自分自身の責任を転嫁する

一時期さかんに「自己責任」という言葉が言われた時がありましたね。
目の前にいるAさんのことだけでなく、それが社会全体の問題だと分かるという意味では、メディアの果たす役割は大きいはずだけど、あまりに問題が広がってしまうと、やはりどうして良いか分からなくなる。そうなったときに、社会全体の問題としてではなくて「自己責任」とすることで、自分の心が少し楽になる・・・そんな部分があるのかもしれないと、パットナムさんに教えられたのでした。

パットナムさんの説に「ははぁ!!」と思いながらイヤホンで中島みゆきの歌を聞いていたら、なんか似たような話が出てきたので、2日連続で書いてみました。

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顔のない街

6月20日にて定例会が終了します。

私はいまだに腸が痛いです。なぜか毎朝5時くらいに、腸に痛みが走って「いてぇー」と言って一度目覚めます。不健康な感じ。腸の検査をしたいです。

まるで関係ありませんが、ふと思い出した話。

私は9歳の時に中島みゆきのファンになったので、もう19年になります。

私が初めて中島みゆきを好きだと思ったときには、中島みゆきは37歳だったのに、今は56歳か。しみじみ。

中島みゆきは私の父と同じ年齢なんです。
で、議会で答弁をしてくださる部長さん課長さんも、大体そのくらいの年齢なのかなあと。
そう考えると、私が初めて中島みゆきを好きだと思った頃は、部長さん課長さんも30代だったのか、と意味の分からないことを考えてしみじみ(笑)

私が9歳の頃は、カラオケボックスがウワーッと流行り始めた頃だったと思います。

・・・思えばこれも、コミュニティの破壊のひとつだったのかな。
それまでは飲み屋さんで、知らない人同士も一緒になってカラオケをやっていたのに、この頃から、ボックスに閉じこもってカラオケをやるようになった。

だいたい、カラオケなんて、うるさくて、話ができないじゃあないですか。歌っている人の歌にきちんと耳を傾けていればまだコミュニケーションが成立するけれど、多くの場合は自分の歌いたい曲目を探すことに熱中しますしね。歌う人、曲を探す人に分断され、しかも大勢いるのに会話は成立しない。

だから私は今はカラオケは嫌いです。カラオケに行くことはあるけれど、好きではありません。(宣言。)


ま、でも、中島みゆきを知るきっかけは、カラオケだったのです。
子どものころ、家族と地域の人と皆でカラオケに行ったら、近所のお姉さんが中島みゆきの「悪女」を歌った。
「マリコの部屋へ 電話をかけて」という歌い出し。
・・・マリコって、誰だよ。
なんとなく、皆に連れて行かれたからというだけで消極的な気分で座っていた9歳の私は、この歌詞にふいと興味を惹かれたのでした。

ちょうど、CDというものができるかできないかという頃だったので、レンタル屋さんに行って中島みゆきのカセットテープを借りたのでした。小学校3年生の時。


それからずっと中島みゆきには関心があります。私も大学は国文学ですが、中島みゆきも国文学出身なんですね。「一体、何を言ってるんだろう・・・」と興味を惹かれることがとても多いのです。

1年位前に出たCDをこのところずっと聞いていたんですが、そこできまた興味のある歌詞が。

見知らぬ人の笑顔も 見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう 見知らぬ人のことならば
(全文は以下を見てください)
顔のない街の中で 中島みゆき 歌詞情報 - goo 音楽


ニュースを見ているだけでも辛いことがいっぱいありますよね。
痛いことがいっぱいあるのに、痛いと訴えられない私達。
痛いことが多すぎて許容範囲を超えてしまっているのか、痛いと感じる想像力が欠如してきてしまっているのか・・・。

なんでだろう、と感じる理由を、上の歌詞は代弁してくれているような気がしました。
そもそも、タイトルにあるように、街や、国や、世界に顔が無いのかもしれないですね。

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「専業主婦」について、意見をください。

今日はちょっと、直接区議会の問題ではないにも関わらず、いろんな人から怒られそうな話題で、書きます(笑)

今、私の通っている大学院は夜間の学校なので、ほとんどの方がお仕事を持っています。議員をやっている人も多いし、年齢的に言えば、私は比較的若い部類に入る。そんなわけで、多種多様な人が来ています。

それで、今の時期は、級友同士で論文のテーマを披露しあっているのですが、そんな級友のテーマの中でとても今私の心に引っかかっている問題があります。

“最近の多くの若い女の子の将来の夢は「専業主婦になること」のようだけど、それはどうしてなのか”というテーマの研究。そのテーマを設定した人は、日頃、若い学生さんと関わりのある仕事をしているのです。

えっ!!
最近の若い女の子って、専業主婦になりたいの!?

その時点で、私はフリーズ。

あれー。
私は、専業主婦になりたいと思っていない。私の周りの子も専業主婦になりたいと言ってない。

そうかー。私はもう若い女の子じゃないのかー。・・・・という問題ではないですね(^^;


私の母くらいの時代は、今よりも専業主婦が多かったんだろうなと、私は感覚的に思っていました。それは、性別役割分業の感覚が今より強かっただろうし、働く場の保障も少なかったから。

それが、少しずつ変わってきて、働く環境が整ってきて、だからそれに比例して、仕事をする女性、仕事をしたい女性は増えているんだと信じていたのです。


それが、そうではないんだ、今でも専業主婦希望者が多いんだと、私の級友は主張しているわけですな。

しかも、結婚して子どもを産んでみて、やはり働きながら育てるというのは物理的にきついと分かった時点で仕事を諦めるという話じゃなくて、大学生時代の将来の希望として、「専業主婦」を希望している人が多いというのです。

本当かねえ。


私の母は専業主婦でした。
私自身がもっと若かった時の希望はどうだったかなーと思い出してみると・・・。
高校までは私は女子校だったので、恋人もいなかったし、漠然と、「早く結婚して子どもがほしいなー」と思っていたと思います。つまりはこの時点では専業主婦希望だったかもしれない。

でも、大学に入ってから、恋人ができて、その人の顔をしみじみ見ていて、あるとき、「うーん、もしこの人と結婚できたとしても、専業主婦にはならないなあ」と、ふと思ったのでした(^^;

それは、自分の恋人を信頼していないというわけではなくて、次に掲げる、山縣文治さんの「福祉」の定義に近い感覚がありました。

(前略)社会福祉が生活上のさまざまな問題を解決するための単なるサービスではなく、人としての生き方にも深く関わるものであることが実感できると思います。結婚という道を選ぶのか、子どもを何人育てたいのか、死をどこで誰と迎えたいのか。社会福祉サービスは、このような一人ひとりの生き方をできるだけ満足のいく形で実現できるよう支援するものなのです。(「よくわかる社会福祉」(ミネルヴァ書房)より)

色々な選択をしていく中で、専業主婦が唯一無二の選択ならばそれも一つの考えだと思う。例えば、私も結婚して子どもを産んでみたら、体力的に、子育てと仕事の両立がきついと感じるかもしれない。そしたら、子どもが小学生になるまでは仕事はしないで子育てしようと思うかもしれない。


それに、今回一般質問で、「ワークライフバランス(仕事と生活のバランスを良くすること)」について調べたのですが、子どもを産んで仕事を辞める人はまだまだとっても多い。理由としても、「なんとなく続けにくい雰囲気があった」というものも多い。
「うちの同僚が産休に入っちゃったから仕事が増えて困ってしまう」なんていう言い方は、よく聞くことがありますしね。まだまだ、子どもを産んで仕事を続けにくい社会であるという現実もあるんだと思う。


でも、現実を目の前にして悩んだり迷ったりする前に、学生時代のうちに「将来の希望は専業主婦」って決めてしまうっていうのはどうなのかしらん。
そこで絞ってしまうことで、自分の生き方を自分で決める道を狭めてしまうような気がして、なんだかモヤモヤするのです。


議会では、保育園の議論をする時に、「働いていない母親だっているのに、保育園ばかりにお金をかけるのはいかがなものか」という議論が出ます。
私は感覚的に、その意見を聞くと「ケッ」っと思ってしまいますが、それはなぜかというと、その声を発するのが専業主婦をしている当事者ではなくて男性からの声だからです。

だから、しみじみ、専業主婦を希望する女性の、当事者としての声をもっと聞かないといけないなと、級友の研究テーマを聞いて思ったのですわ。


でも、私は上記のような感じだし、私の友達も「類は友を呼ぶ」で似たようなものだし、だから、私とまったく違う意見の人にぜひ、メールなりコメントなり、ほしいなと思って、今日は書いてみました。


ちなみに、ためしに今日、同じ会派で私の1つ年下の倉田れいかさんに「ねえ、倉田さん、専業主婦になりたい?」と聞いてみたら、「なりたい!」という返事がかえってきました。

おお!


倉田さんは、「自分の手で自分の子どもを育てたい」という思いが強いようで、それはそれで、一理あるなあと思いながら話していたのですが。

まあでも、どちらが正しいとかではなくて、選挙って意外と、社会にあるいろんな考え方を反映しているものなのかもしれないと、しみじみ思いました(^^;)

・・・このブログを読んでくださっているあなたは、どんな人生設計をしていますか?

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土日は京都に行きました

★昨年の今頃、地域福祉学会の大会で山口に行きましたが(そのときのブログはこちら)、今年は同様のものを京都の同志社大学を会場にしてやるということで、この土日に行ってきました。

大学の近くに住んでいる友人が、「来るんだったらうちに泊めてあげるよ」と言ったので、おやそうかい、とヒョコッと行ったんですけど。

友人が送ってくれた、随分ざっくりした地図を持って出かけまして。

住所も控えずに、そのざっくりした地図だけ持って今出川駅から歩いて。だんだん路地に入っていって。
・・・そして道に迷いまして。

ああ、なんでもう少し慎重に計画を立てて来なかったんだろう。まるで、近所までサンダルで豆腐を買いに行くような気安さで京都まで来てしまった…と後悔と心細さを感じ…。

どこかよその家に侵入してしまうんじゃないかと思うような、とっても細い道を見つけ、「ままよ」と入ってみたら、無事、そこに友人の家を発見。ふぅ。


土曜日は暑かった。暑いせいでの汗と、自分の無計画さに対する冷や汗をぬぐいながら、友人宅に荷物を置き、同志社大学へ。

★まず、貧困についてのシンポジウムに参加しました。
路上生活者の問題もそうですが、貧困は物理的なものだけではなく、人とのつながりが絶たれてしまうという問題でもありますね。
事例として、認知症や精神障害等の方への権利擁護の話、過疎地域のコミュニティの話、日本に住む外国人への支援という話がされていました。

それから、北九州市で生活保護を受けられずに孤独死をしてしまった事例の話。
北九州ではその後、検証委員会を作って、報告書をまとめています。

今回のシンポジウムでは、「まずは、生活保護とそれに関連する相談体制の中で、どんな関わりをし、どんな関わりが足りなかったせいで孤独死がおきてしまったのかについて、まずは検証するべきではないか。問題発覚以来、市長が、『生活保護だけではなく、地域でのネットワークが必要だ』という趣旨のことを言っているが、それは責任の置き換えなのではないか」という問題提起がありました。


これは、私がずっと気になっている、民間委託のことにもつながる話のように思います。
行政だけが役割を担うのではなく、民間も地域も協力して「公共」を支えていく・・・それはもちろん、大きな枠としては間違っていないでしょう。でも、例えば生存権の保障ということは、もっと違うレベルで考えなくてはいけない問題だし、そもそも「公共」っていうのは何なのか、とか、どう役割分担するのか、とか、そういう話をすっ飛ばしてしまうと、責任がどこかへ飛んでいってしまうような。。


うーん、うまくまとまらないんだけど、うーん・・・・と思いながら、シンポジウム終了。

★研究の発表は、あちこちの教室を使って同時進行でやっているので、興味のあるところに見に行くことができる。私は、地域福祉計画についての研究発表を中心に見ながら、友人が発表するときにはそちらに移動するというようなことをしていました。

計画策定のときに、どうやって市民参加を進めるか。事例を挙げながら発表している人や、「パブリックコメントという方法があります」という人、「行政だけが公共を担うのではなく、民間も参加していく“新しい公共”が言われる中で…」云々という人。
ふむふむ、と聞いていたのですが。
でもやっぱり私が気になってしまうのは「新しい公共」というのが、方向性として本当に市民の声を反映する方向にいっているのかしら、ということ。
それを検証するためには、そもそも「新しい公共」ってなんだろう、とか、「協働」ってなんだろうかとか、それらを福祉に生かすためにはどんな工夫が必要なのか、どんなしくみが必要なのか、考えるべきなんじゃないかということ。
「新しい公共」が大前提にあるというような言い方は、私も、昨年初めて一般質問をやったときにはしてしまったのだけど、この1年、色々見てきてしみじみ思うのは、本当にそれで良いのかなあということ・・・モヤモヤ・・・

答えはなかなか見つけられず、日頃モヤモヤした気分が、学会に参加することでさらにモヤモヤし(^^;

うーん・・・と、首をナナメ45度に傾けながら同志社大学内を歩き回っていました。

今後、地域福祉に関わっていく上での、私自身の課題でもありますね。

★大阪で働いている友人と、約1年ぶりに再会したり、という楽しみもありました。
京都も大通りを歩いていれば、正直言ってどこの都市とも変わらない道があるのですねー。アーケードのある商店街って、どうしてどこにでもあるんでしょうね。
視察に行った九州も、都内も、アーケードのある商店街って多いですよね。初めて来た街でも、「あれ、ここ、前にも来たっけ」という気分になる・・・。
でも、その後、友人達が、ちゃんと「京都らしい」ところに連れて行ってくれました。やはり、それぞれの街が、「その街らしさ」を出せるまちづくりが必要ですよね。

「京都らしい食べ物」を食べて、宿泊場所である友人宅へ戻る。普段は私は一人暮らしなので、家に帰ったら自分以外に人がいるというのは、なんか嬉しいもんだなあ、なんてことも思いました。

そんな居心地の良さを味わって、思わずそのまま住み着いちゃおうかしら、なんて気分になりつつ(←冗談ですよ ^^;)、日曜日の晩に帰ってまいりました。

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ニーズ調査・・・

今、議会は人事についての話し合いをしています。
昨年もそうでしたが、決めては待つ、決めては待つ、待つ、待つ…という3日間を過ごしています…。


そんな合間に、「あしがらさん」上映会の整理をしていますので、あと少しでご参加いただいた方にはご案内を差し上げることができると思います。


さて、一般質問の、保育園の部分で言ったうち、気になる話をひとつご紹介。

保育園の委託は、それによってお金を削減して、できたお金で新しく保育園を作ったり、サービスを拡充したりする、と言っています。
延長保育、休日保育を増やすのは、「次世代育成支援行動計画」を作る際のニーズ調査で、必要とする人が多いという結果が出たからだとも言われていました。

ニーズ調査は平成16年3月にまとめたもの。

このニーズ調査のみを根拠に民間委託を進めているとするなら、どうなんだろうか・・・というような意見は、度々出ていましたが、今回一般質問をするにあたって、この調査の冊子を改めてジーっと眺めていました。

「次世代育成支援行動計画策定に係るニーズ調査」。

ふーむ・・・と読み進めていたら、変なアンケート調査を発見。

就学前児童の保護者、小学生の保護者を対象に、2つの文章を示し、「あなたはどちらの考えに近いですか?」と問うもの。

そのうちのひとつが、おかしい。


A.待機児童の解消や保育時間の延長など、増加し、多様化する子育て支援サービスのニーズに迅速かつ柔軟に対応していくためには、保育サービスなどの民間委託化、民営化などの方法も活用すべきだ

B.待機児童の解消や保育時間の延長など、増加し、多様化する子育て支援サービスのニーズに迅速かつ柔軟に対応できなくても、保育サービスなどは行政が直接運営してくべきだ


このどちらの考えに近いかを選びなさい、という調査です。


さらっと読み流すと一瞬分かりにくいですけど、ものすごい、誘導の質問ですよね。

公平な質問にするんだったら、
「ニーズに対応してほしいかできなくても構わないか」ということと、「民間か直営か」というのは別に問わなくてはいけないはず。

あるいは、

C.待機児童の解消や保育時間の延長など、増加し、多様化する子育て支援サービスのニーズに迅速かつ柔軟に対応していくためには、保育サービスなどは行政が直接運営してくべきだ

D.待機児童の解消や保育時間の延長など、増加し、多様化する子育て支援サービスのニーズに迅速かつ柔軟に対応できなくても、保育サービスなどの民間委託化、民営化などの方法も活用すべきだ


というのも含めた4択にすべきですよね。


委託云々という前に、あまりにずさんでひどい質問の内容にビックリして友達相手に一人で大騒ぎをしていたら、友達が、こんなHP(→こちら)を教えてくれました。

そもそも、「○%の人が望んでいるという結果が出ました」なんていう言い方は、行政でもそうですが、ニュースなんかでもよく出てくる話ですよね。
それを聞くと何となく「へー、○%もの人が望んでいたんだね!」なんて納得しちゃったりするけれど、どんな方法で調査をしたのか、何人にしたのか、そしてどんな文脈で質問をしたのか、ということまで見ないと、本当に正しい調査だったのか、分からないのですね。

ご紹介したHPにも書いてあるけれど、例えば「少年にも厳罰を適用すべきかどうか」という調査をするときに、質問文のはじめに、「近年、少年犯罪が凶悪化していますが」という言葉をつけておけば、「厳罰にすべき」という回答のほうに誘導される人が出てきますね。

その他、いろいろと冗談のような事例が載っていますが、練馬区の上記の質問も、負けず劣らず・・・ですね。。


とにかく、皆さんも、テレビ等で調査結果なんかを聞いたときは、鵜呑みにしないようにしましょう!

今回は私は、そんなことを学びました。


・・・ちなみに、「なんでこんな調査をしたんですか?」という内容で一般質問をしたんで、以下にその答弁を書きます。なんだかよく分からないですけど、まあ一応・・・。

子育て支援事業における行政の役割についての設問は、区民の子育てサービスニーズに対応していくためには、民間委託か行政直営か、乳幼児や小学生のいる家庭などの意向がどちらの考え方に近いかを把握するために問うたものであります。
また、行政ニーズへの対応に関して民間委託を考える際には、行政が直接運営することでニーズに対応できないのかどうかを検証することではなく、より効率化が図られサービスの拡充が期待できるときは、「民間にできることは民間に委ねる」ことを基本とし、行政は直接的な事業の執行者から総合的な調整機能を持つ地域経営者へと、その役割を見直すべきものと考えております。



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民間委託のことなど

★4月から大学院に行き始めたのですが。大学院に行くと、修士論文ってのを書くんですね(^^;
で、その論文の計画について、6月7日のゼミの授業で発表しなくてはいけなかったんです。

参考文献を20個以上書いて、目次を作ってきてください、って。

・・・大学院に行くのは自分の選択なんだから、仕方ないんですが、でも、ひぃ、でした

だから、つまりは、6月1日のあしがらさん上映会に向けての資料作りと、6月5日の一般質問と、6月7日の修士論文のことが、いっぺんに来てたんですね。。

さすがにどれか破綻するんではないかと、かなり綱渡りでした・・・。
反省点は色々あるものの、なんとか全部乗り切りましたが。うぅ・・・。


論文は、保育園の民間委託のことを中心に書くつもりなので、議会の活動にリンクはしてるんですけどね。
まあなんとか目次を立てて発表したら、先生から、「それで、加藤木さんが気になっているのは、保育園のことなの?それとも、民間委託そのものなの?」と問われ。
うーん、どうも、一般質問の準備の時に行政の人からも似たようなことを聞かれたような気が・・・(^^;


今回の一般質問の答弁を聞いていてしみじみ、考えなくてはいけないのは民間委託というしくみのあり方そのもののほうだなと思っています。

例えば、一般質問では、以下のような質問をしました。(少し要約してあります)

保育園の委託による財政効果については、既に委託された3園の財政効果の実績から、約4000万円程度、1園の運営にかかる経費の2割程度の効果を見込んでいるという説明を、今までされていました。

平成19年度に発表になった16園の多くは120人規模の保育園ですが、中には、定員が100人以下のものもあります。運営にかかる経費の2割程度となると、定員にばらつきがあれば、財政効果も必ずしも一律に4000万円にはならないと考えられます。

しかし一方で、説明会等の中では、「1園4000万円、16園委託すれば28億8000万円の財政効果があり、新しく保育園を作る経費などにあてられる」との説明をしています。

仮に予定している20園すべてを委託した場合、それにかかるプロポーザルなどのエネルギーも相当なものになるはずですが、委託計画を立て、それを執行し、その後は委託園をフォローしていくという体制にかかる経費も含め、一目で比較できるものとして区民や議会に示すべきではないでしょうか。もう一度このあたりを整理して示すべきではありませんか。保育園の委託ということが、財政効果から新しいサービスを生み出すことを最大の目標とするならば、その数値目標は正確に示すべきと考えますが、ご見解を伺います。


これに対する答弁が以下。(答弁は語尾が長々しいので、それだけはちょっと簡略化して書きます。)

平成19年5月9日付の「区立保育園の運営業務委託検証結果報告書」において、運営費の縮減額として一園あたり年間4千万円から5千万円とお示ししているところですが、委託準備経費および支援にあたる区職員の人件費についても、平成17年度経費として約1億2900万円を要したことも、別途示させていただいております。
財政効果については、10年という実施期間に限定されるものではなく、30年、40年と長期間継続し、累積していくものです。また、将来における支援体制も変わることも考えられ、人件費につきましても、社会経済情勢により変化することも考えられます。従いまして、長期間にわたる財政効果の総額を算出し、それによって拡大されるサービス量を数値として示すことは、困難なものと考えております。


つまりは、委託について結局良いんだか悪いんだか、委託によってサービス拡充ができるかどうかさえも、示せません、って、言ってるように、見えるんですけど・・・?


これは、健康福祉事業本部長が答えてくれた答弁なので、きっと保育の担当の人が頭を悩ませて作ってくださったんでしょう。
でも、この答弁を聞いたとき、これはもう、保育の担当の人がどうかという問題ではなくて、区長が自分の言葉で語らなくては許されない問題なのではないかなと思ったのです。

保育の部分の担当者として考えなくてはいけないのは例えば、「私は事務屋だから保育の質が何なのか分かりません」なんて(←この件に関するブログはこちら ^^;)、余計に保護者の怒りを買うような言葉を言わないように努力をするとか、そういうことであって、公共性の中での行政の役割というのは、保育の担当者だけが頭を悩ませることではなく、もっともっと全体の議論なんだと思うのです。

そんなわけで、私の論文のテーマも、私の議会の活動も、「保育園の委託」ということだけではなくて、委託そのもののあり方、「公共」のあり方、という方向に行く予定です。


★6月7日、8日は日本社会福祉士会の大会があって、行くつもりだったのですが、こんな論文準備にも追われ、さすがに日曜日は、「体力の限界・・・」と、千代の富士の引退会見のような言葉をつぶやきながらバタッと倒れました(^^;
うーん、起き上がれない・・・と思いながら日曜日の一日を過ごしました。。
ぼーっと「篤姫」を見て。んー、宮あおいは可愛いなあ・・・とつぶやきつつ。

その中でともさかりえが、「国の行方に目を向けるのは大切だけど、地方があって、そこに住む人がいて、それではじめて国が成り立つんだから、もっと地域の人に目を向けなくてはいけないでしょう」みたいなことを夫に言う場面があって、うんうん、なるほど、そうだそうだ、ともさかりえの言うとおりだと頷きながら、倒れたまま篤姫を鑑賞いたしました。。


いやはや、なんとも、腸が痛いのです。ウイークデーは議会があるから、まさに這いながら区役所に行っています(^^;
少しずつ、日が経って疲れがとれたら落ち着くとは思うのですが、腸に効く薬をご存知の方は教えてください(><)
一般質問と予算決算のときは胃腸がおかしくなるから、まあ仕方ないと思っているんですけどね・・・。

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一般質問、一応終了。。

6月5日、15時過ぎから、一般質問をしました。

内容は、区立保育園の民間委託のことと、路上生活者の人権についてと、障害者の就労支援について。

詳しい内容は、これまた後日書きます・・・。

★保育園関係の答弁は、相変わらず、わけが分からない答弁でしたが。

もう、でもこれは、保育園という個別事例についてというよりも、行政のスリム化、民間委託という方向性そのものが、あまりに流れが急激過ぎて無理になっているってことなんじゃないかなあと、ここのところしみじみ思っています。

ひとつは国の流れと、そしてあとは区長の考え方なんでしょうね。


事前に色々調べていて、行政が関わっているサービスの先進事例について聞いていたときに、「先駆的な動きをすることになった、キーパーソンは誰なんだろう」と考えると、市長・区長の方針、という場合が多いなとしみじみ思いました。

もう、これはいっそのこと、一般質問で、「より良いサービスを実現するためには、区長を変えるべきだと思いますが、区長のご見解を伺います」と聞いてみようかと、思ったほどでした(^^;


★一般質問、1年に1回できるので、私は今回で2度目でした。

もう緊張しないかと思ったのに、やっぱり緊張した。。

隣の席の菊地さんが「失敗したらどうしよう、と思うから緊張するのよ。失敗したって大丈夫よ。気にしないでやればいい。大丈夫大丈夫」とずっと言い続けてくれたので、ウンウン、とうなづきながら前に出たのですが・・・。

ところが、何がどうしてしまったのか、「一般質問を始めさせていただきます」と言った瞬間に、なぜか息継ぎの仕方を失敗しまして・・・

あらー、息ってどうやって吸うんだっけ・・・みたいな状態になり、まるで水でおぼれたような状態になりながら、最初の1分ほどを過ごしました。。
「保育園の、民間委託のことについて、うっ・・・」みたいな・・・

そのうち、区議会のホームページで動画が配信されるんですけど、きっと、最初の方がとても聞き苦しいに違いありません。すみません・・・。


★まあ、なんとか息継ぎの仕方を思い出し、その後はせっせとしゃべりました。
保育園に関する答弁はどうせひどい答弁なんだろうと思っていましたが、同時に、保育園のことについて意見表明をしている間はきっと野次が飛ぶに違いないとも予想していました。

的中。

あー、野次ってるなあ、と思いつつ、でも息継ぎを失敗してから若干自分もパニックなので、野次に対応する余裕も無くそのまま読み進めまして・・・。


で、だんだん、質問も終盤に。


さて、どうやって終わろうかしらん。


「ご清聴ありがとうございました」というのが一番、「どうやら終わったらしい」というのが分かりやすくて、語呂も良くて、良いなあと思っていたんだけど。
でもなあ。
あんまり清聴もされてなかったしなあ・・・

「8割方の人のご清聴ありがとう」とか言おうかしら、とか思いつつ。

うじゃうじゃ考えていたら結局質問を終わりまで読んでしまい。

しょうがないから、「清聴」には触れずに、「ありがとうございました」のみで終えました
しかしやっぱりこれは、語呂が悪い・・・。

3度目の一般質問のときには、清聴してもらえなかった場合の挨拶を考えておこうと思いました。

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6月1日

少し報告が遅くなりましたが、6月1日、無事「あしがらさん」上映会&シンポジウムが終了しました。

参加者は100人を超えました。来てくださった皆様、ありがとうございました。


「和力」の公演も、来てくださった顔ぶれが多彩でしたが、今回はまた全然違う顔ぶれで、面白かったです。

上映会6

上映会1


映画の上映の後、シンポジウム。
左から、私と、飯田基晴監督、北村年子さん、清野賢司さん。


上映会の前に、出演者4人で、「練馬寮」の見学に行きました。

私は練馬寮に行くのは3度目でしたが、飯田さん、北村さん、清野さんの質問が、いつも路上生活者支援をしている人たちならではの、豊かな質問で、聞いていてとても面白かった。
例えば、「入所者は、どんなお弁当を食べているのかな?温かいものを食べているのかな?」とか。「いくつくらいの、どんな経歴の人が多いのかな?」とか。
現場の生の声がたくさん聞けて、とても良い時間を過ごしました。

15時から見学をさせてもらって、その後簡単に打ち合わせをし、18時からは会場の準備。

映画は73分で、その後1時間ほどの意見交換だったので、ちょっと時間不足なところが残念でしたが、福祉にかかわりのある人、練馬寮の近くに住んでいる方など、多様な方にご参加いただきました。意見交換はまだ不十分なところがあるので、メーリングリストを作るとか、今後につなげていけたら良いなと思っています。
今後の動きについては、また形ができてきたらブログでも報告します。当日、参加できなかった方も含め、情報交換の手段にできたら良いなと思います。

さて、シンポジウムの内容については、また改めてご報告します…。



6月5日、本日の議会にて一般質問をします。
1日のシンポジウムのときの話も生かしながら質問をしようと思っていますが、そんなこんなの準備でこの半月、頭がぐちゃぐちゃだったのでした。。
一応、質問の準備はできたので、少し落ち着きはしたのですが、まだ頭はごちゃごちゃのまま・・・

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Appendix

桜子のツイッター

プロフィール

かとうぎ桜子

Author:かとうぎ桜子
1980年生まれ。

保育士、ヘルパー2級、社会福祉士の資格を使って福祉の仕事をしてきました。
制度だけでは一人ひとりが安心して生活するまちを作るには不十分だと考え、誰もが安心できるまちのしくみ作りをしていきたいと考えています。

2007年4月の統一地方選で練馬区議会議員に初当選。

2010年3月、「市民参加と公共性―保育園民営化を契機として」と題する修士論文を書き、立教大学大学院・21世紀社会デザイン研究科を修了。

2011年4月 無所属で2期目に当選。

2011年末に子宮頸がんが見つかり、2012年春に円錐切除の手術をしました。その後は今のところ再発もなく元気に仕事しています。
この経験を活かし、がん検診の啓発など健康に関する課題にも取り組んでいこうとしています。

2015年4月、3期目に当選。

会派は市民ふくしフォーラム。

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