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★アメリカ旅行記、休止 ★水俣問題
★アメリカ旅行記、休止
アメリカ旅行は、シアトルに移動してからは市のホールを見学したり、市民農園みたいなのやコミュニティセンターなどを見学させてもらいました。
コミュニティの活性化のための工夫をしているというお話で面白かったので、ブログにも書きたいのですが、書くためにまずは参考文献を読み直さないといけない・・・。
そして、これがなんと(当然)英語なもんですから(^^;)日本語を読む以上に時間がかかるため、修士論文と一般質問のメドがつくまで、アメリカ旅行記の続きをちょっと保留にさせてください・・・
(ちなみに、いい加減に好き勝手にブログを書いているように見えるかもしれませんが、日本国内のことを書くときも一応ちゃんと文献にあたってから書いているんですよ。文章に残るというのは怖いものですからねぇ・・・)
★水俣問題
先日、水俣病の問題に関わっている方からお話を聞く機会がありました。
公害の問題は、学校の頃習ったり、報道で聞くことはあっても、じっくり向き合う機会がありませんでした。
少し前に、友人が水俣に出かけたときの話を聞かせてくれて、それでハタと、「私も水俣のことをちゃんと勉強しよう」と思いました。
水俣に住んでいる人からお話を聞けることになったので、事前に本を読みました。
原田正純さんというお医者さんの書いた「豊かさと棄民たち」という本でしたが、これを読むことで、水俣の問題がぐっと私に近づいてきた感じがしました。
海に近いまちはどこもそうかもしれませんが、水俣は、家々の目の前に海が広がる。
窓から糸をたらせば魚が釣れるのではないかというくらい海が身近な土地だから、子ども達はおやつ代わりに魚や、貝や、カニを食べる。
小さな子ほど、家にいる時間が長いから、一日中、お魚を食べている。
目の前の海で、新鮮な魚介がとれたら、誰だってそうしますよね。
水俣の人たちは、そんな当たり前の生活をしていて、病気になってしまった。
おやつ代わりに、せっせとカニを剥いて食べていた男の子や、貝をとってきてつついて食べていた小さな姉妹が、病気になってしまう。
原田さんの本にはまず、そういう例が書いてありました。
教科書的に書いてあるのだけでは分からないこと・・・いったい、その子たちはどんな気持ちだっただろう、親御さんはどんな気持ちだっただろうということを思うと、公害の問題は決して特別なことではないということが分かってきます。
水俣病は1956年に公式に確認され、1968年に国が公害と認めました。
私がお話を聞いた方は40代くらいの方でしたが、近しい友人にも視野狭窄の症状のある人がいるということで、「水銀を出さなくなったからといってその年からすぐに影響がなくなっているわけではないから、いくつまでの人が病気になっただろうとか簡単に区切れるものではないし、隣の市に住んでいるとか行政単位で分ければ水俣病とは関係ないと思われてしまうような人でも、水俣の魚を食べて影響を受けた人もいるはず。
私と同年代の40代の人の中にも、調子の悪い人はいる。視野が狭くなるとか、怪我をしても痛さを感じにくいとか、多くの人が何らかの体調不良を持っているはず」とおっしゃっていました。
ひとつには、あまりにも長年体調が悪いために、自分の視野が狭くなっていたり感覚の麻痺があることに気づかないということもある。それに、たとえ「調子が悪いな」と思っても、不調を訴えて差別を受けることを恐れる気持ちもあるのではないかということ。
ここで、私がどうしてもわからないのは、なんで病気になった人が差別されなくちゃならないのか、ということです。
差別の問題は、いつも気になっているのですが、なぜ差別というものが起きるのかがどうしても分かりません。
人を憎むというのは、結構エネルギーが要るでしょう。人を愛するのと同じくらいのパワーを使うと思います。しかも憎しみは、エネルギーを使うのに、生まれるのはマイナスだけ。差別される側だけじゃなくて、差別する側にとってだって決してハッピーなエネルギーじゃないはず。
にもかかわらず、病気だったり障害だったり出身や性別や、そういったものに対してなぜ憎しみが向けられるのかがどうしても分からない。
でも、この理由を見つけなければ、差別を無くすこともできないと思います。。
原田さんの本に「差別があるところに公害が生まれる」と書いてありました。
うーん・・・分かるような分からないような・・・と思っていたのですが、直接水俣の人からお話を聞いて、私なりにすこし理解ができました。
お話を聞く中で分かってきたこととしては、どうやら水俣はずっと昔々は、漁業をやっていた人はほんの少しだったようなのですね。
海の向こうには小さな島々があるわけですが、島に住んでいる人たちがだんだん多くなると島だけでは生活できなくなるから、新たな住まいや職を求めて水俣のほうに海を渡ってやってくる。そして、今まであまり人の住んでいなかった海沿いに住まい、漁業を始める。
元々住んでいた人たちは農業などをやっているから、生活スタイルがそもそも違うし、しかもどこからか人がやってきて住み始めたぞ、という警戒もある。そして海沿いに住む人たちは、どちらかというと貧しい生活をしていた。
なかなか地域が打ち解けない状態がある中で、チッソが工場を作り、そこで働く人が増えてくる。
一番に水銀の被害を受けるのは、漁業をやっている人たち・・・海沿いで貧しい生活をしていた人たち。
もともとの経緯があったところに公害が起きてしまった。
しかも、多くの人がチッソに依存した生活をしている。チッソがなくなったら困ってしまう。ならば海沿いで暮らし始めた「よそもの」が出て行けば良いじゃないか・・・というのが、一つの差別の形態として表れてくるわけです。
こうした地域内の問題のほかに、水俣以外の人たちとの関係もあります。
政治家なんかが時々、「水俣の人たちは本当は病気じゃなくても偽って申請してお金をもらえて良いなあ」なんていうことを言って問題になるというのを繰り返してきたようです。
あんまり腹が立つから、ついつい、お話を伺った水俣の人に、「なんでこんなことを言う奴がいるんでしょうかね?」という質問をしてしまいました・・・。それは、この方に聞いても分からないですよねぇ。。
「怠けている人のために税金を使ったりなんかしない」という趣旨の発言は、最近も別の問題であったようですが、そういう発言をする政治家は、当事者に会ったことがないのでしょう。当事者の苦しみを前にしたら、恥ずかしくてそんな発言はできないはず。
当事者に会わずに言っているということは、その人が勝手に想像して「怠けているはずだ」と判断しているわけです。人間っていうのは、自分と違う生き方をしている人と会って話してみたり、異なる価値観を知る努力をしたりというように、よっぽど努力しない限り、自分の持ち前の価値観からは抜け出せないものです。
当事者に会わずして、「偽って申請する人がいるはずだ」「怠けて税金の恩恵を受けている奴がいるはずだ」という発言をする人はきっと、ご自身が「いかにうまいこと税金で私腹を肥やしてやろうか」という価値観で生きてきて政治家になった人なのでしょう。・・・ふぅ、久々に腹が立った。
とにかく、地域内であれ外からであれ、どんな経緯があろうと、何の罪もない人たちが差別されることは絶対あってはならないはずだし、そんなことがあったら当事者が「ふざけるな!」とこぶしを振り上げないといけないはず。なのに、今もなお、差別を恐れて水俣病の申請をできずにいる人もいる。
それは、もしかしたら小さい頃から、「水俣病のことを話すと差別されるかもしれないから、黙っておくんだよ」と聞かされて育ったからなのかもしれないと思ったのでした。
それで、思ったのは、「大勢に楯突くのは一部の変わり者」という「世の中」があるのかなあ、ということです。チッソでみんなの生活が成り立っているんだから、たとえ病気になっても声をあげずに静かに暮らしていれば、他のみんなが幸せなんだよ・・・と。声をあげる「一部の人」の仲間になんかなっちゃいけない、と。
ここでふと、この感覚が、日本の社会の問題のすべてを表しているように思えてきました。
私は今、保育園民営化問題で修士論文を書いているんですが、練馬だけではなくて多くの自治体で、「保育園民営化に反対するのは一部の保護者だ」と首長が言います。
ハンセン病問題で、当事者が「差別から解放してくれてありがとう」と言っているうちは歓迎するのに、「なぜ差別するのか」と抗議したとたんに「ハンセン病患者は税金で生きているくせに・・・」とバッシングされたという問題も、根っこは同じである気がします。世の中の流れから頭ひとつでも飛び出すと、ぽこんと殴られる。
そういえば、昨年の今頃、私が名誉区民の議案に反対しようとしているときにも、いろんな人に「一部の議員が反対している」と言われました。
特定の立場の誰かではなくて、見事にあらゆる人に「一部の人が・・・」と呼ばれまして、しまいには区議会だよりにも「反対(一部)」と書かれていたので、「私は、【一部】という名前じゃないよ~」と、だんだん笑えてきまして(^^;
一人会派になった暁には会派名を「一部」にしようかと思っていたくらいでした。
こうやって笑いでもしなくちゃ、やっていられませんでしたぜ。
しかし、同じ状況に遭遇した時、誰もがこんな風にのんきに笑っていられるわけではないと思います。
「あなたが今発言したら、みんなと違う【一部の人】になっちゃんだよ」という圧力の前に苦しむ人はたくさんいるのではないかと思います。
差別の根っこは、積極的な憎しみではなくて、みんなと違う人を排除すること、みんなと同じであることに安心することによって生まれるものなのかもしれないと思ったのです。
そう考えると、水俣の問題は私達だれの心にも突きつけられる問題であるように思ったのでした。
それから、今は3,40代で若い人たちで視野狭窄などが起きている人たちは、今は自分の中で我慢してしまっていたりもするけれど、今後高齢化していく中では隠していられないほど体調不良が悪化していく心配もあるのではないかということを、お話を伺った方がおっしゃっていました。
水俣病の解決のための法律が先日できましたが、今までも何度も繰り返されてきた水俣病の解決策は、「高齢化の波の中で今できるだけ早く、問題解決をしないと生きているうちに解決できなくなってしまう」という切迫した状態に当事者を追い込みながら行なわれてきたのでした。
そう考えると、これで解決ではなく、これからも、まだまだこの問題は続いていくと思われます。
「水俣病」そのものも、そこからみえる社会のありようも、しっかりと、見ていきたいですね。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
アメリカ旅行は、シアトルに移動してからは市のホールを見学したり、市民農園みたいなのやコミュニティセンターなどを見学させてもらいました。
コミュニティの活性化のための工夫をしているというお話で面白かったので、ブログにも書きたいのですが、書くためにまずは参考文献を読み直さないといけない・・・。
そして、これがなんと(当然)英語なもんですから(^^;)日本語を読む以上に時間がかかるため、修士論文と一般質問のメドがつくまで、アメリカ旅行記の続きをちょっと保留にさせてください・・・

(ちなみに、いい加減に好き勝手にブログを書いているように見えるかもしれませんが、日本国内のことを書くときも一応ちゃんと文献にあたってから書いているんですよ。文章に残るというのは怖いものですからねぇ・・・)
★水俣問題
先日、水俣病の問題に関わっている方からお話を聞く機会がありました。
公害の問題は、学校の頃習ったり、報道で聞くことはあっても、じっくり向き合う機会がありませんでした。
少し前に、友人が水俣に出かけたときの話を聞かせてくれて、それでハタと、「私も水俣のことをちゃんと勉強しよう」と思いました。
水俣に住んでいる人からお話を聞けることになったので、事前に本を読みました。
原田正純さんというお医者さんの書いた「豊かさと棄民たち」という本でしたが、これを読むことで、水俣の問題がぐっと私に近づいてきた感じがしました。
海に近いまちはどこもそうかもしれませんが、水俣は、家々の目の前に海が広がる。
窓から糸をたらせば魚が釣れるのではないかというくらい海が身近な土地だから、子ども達はおやつ代わりに魚や、貝や、カニを食べる。
小さな子ほど、家にいる時間が長いから、一日中、お魚を食べている。
目の前の海で、新鮮な魚介がとれたら、誰だってそうしますよね。
水俣の人たちは、そんな当たり前の生活をしていて、病気になってしまった。
おやつ代わりに、せっせとカニを剥いて食べていた男の子や、貝をとってきてつついて食べていた小さな姉妹が、病気になってしまう。
原田さんの本にはまず、そういう例が書いてありました。
教科書的に書いてあるのだけでは分からないこと・・・いったい、その子たちはどんな気持ちだっただろう、親御さんはどんな気持ちだっただろうということを思うと、公害の問題は決して特別なことではないということが分かってきます。
水俣病は1956年に公式に確認され、1968年に国が公害と認めました。
私がお話を聞いた方は40代くらいの方でしたが、近しい友人にも視野狭窄の症状のある人がいるということで、「水銀を出さなくなったからといってその年からすぐに影響がなくなっているわけではないから、いくつまでの人が病気になっただろうとか簡単に区切れるものではないし、隣の市に住んでいるとか行政単位で分ければ水俣病とは関係ないと思われてしまうような人でも、水俣の魚を食べて影響を受けた人もいるはず。
私と同年代の40代の人の中にも、調子の悪い人はいる。視野が狭くなるとか、怪我をしても痛さを感じにくいとか、多くの人が何らかの体調不良を持っているはず」とおっしゃっていました。
ひとつには、あまりにも長年体調が悪いために、自分の視野が狭くなっていたり感覚の麻痺があることに気づかないということもある。それに、たとえ「調子が悪いな」と思っても、不調を訴えて差別を受けることを恐れる気持ちもあるのではないかということ。
ここで、私がどうしてもわからないのは、なんで病気になった人が差別されなくちゃならないのか、ということです。
差別の問題は、いつも気になっているのですが、なぜ差別というものが起きるのかがどうしても分かりません。
人を憎むというのは、結構エネルギーが要るでしょう。人を愛するのと同じくらいのパワーを使うと思います。しかも憎しみは、エネルギーを使うのに、生まれるのはマイナスだけ。差別される側だけじゃなくて、差別する側にとってだって決してハッピーなエネルギーじゃないはず。
にもかかわらず、病気だったり障害だったり出身や性別や、そういったものに対してなぜ憎しみが向けられるのかがどうしても分からない。
でも、この理由を見つけなければ、差別を無くすこともできないと思います。。
原田さんの本に「差別があるところに公害が生まれる」と書いてありました。
うーん・・・分かるような分からないような・・・と思っていたのですが、直接水俣の人からお話を聞いて、私なりにすこし理解ができました。
お話を聞く中で分かってきたこととしては、どうやら水俣はずっと昔々は、漁業をやっていた人はほんの少しだったようなのですね。
海の向こうには小さな島々があるわけですが、島に住んでいる人たちがだんだん多くなると島だけでは生活できなくなるから、新たな住まいや職を求めて水俣のほうに海を渡ってやってくる。そして、今まであまり人の住んでいなかった海沿いに住まい、漁業を始める。
元々住んでいた人たちは農業などをやっているから、生活スタイルがそもそも違うし、しかもどこからか人がやってきて住み始めたぞ、という警戒もある。そして海沿いに住む人たちは、どちらかというと貧しい生活をしていた。
なかなか地域が打ち解けない状態がある中で、チッソが工場を作り、そこで働く人が増えてくる。
一番に水銀の被害を受けるのは、漁業をやっている人たち・・・海沿いで貧しい生活をしていた人たち。
もともとの経緯があったところに公害が起きてしまった。
しかも、多くの人がチッソに依存した生活をしている。チッソがなくなったら困ってしまう。ならば海沿いで暮らし始めた「よそもの」が出て行けば良いじゃないか・・・というのが、一つの差別の形態として表れてくるわけです。
こうした地域内の問題のほかに、水俣以外の人たちとの関係もあります。
政治家なんかが時々、「水俣の人たちは本当は病気じゃなくても偽って申請してお金をもらえて良いなあ」なんていうことを言って問題になるというのを繰り返してきたようです。
あんまり腹が立つから、ついつい、お話を伺った水俣の人に、「なんでこんなことを言う奴がいるんでしょうかね?」という質問をしてしまいました・・・。それは、この方に聞いても分からないですよねぇ。。
「怠けている人のために税金を使ったりなんかしない」という趣旨の発言は、最近も別の問題であったようですが、そういう発言をする政治家は、当事者に会ったことがないのでしょう。当事者の苦しみを前にしたら、恥ずかしくてそんな発言はできないはず。
当事者に会わずに言っているということは、その人が勝手に想像して「怠けているはずだ」と判断しているわけです。人間っていうのは、自分と違う生き方をしている人と会って話してみたり、異なる価値観を知る努力をしたりというように、よっぽど努力しない限り、自分の持ち前の価値観からは抜け出せないものです。
当事者に会わずして、「偽って申請する人がいるはずだ」「怠けて税金の恩恵を受けている奴がいるはずだ」という発言をする人はきっと、ご自身が「いかにうまいこと税金で私腹を肥やしてやろうか」という価値観で生きてきて政治家になった人なのでしょう。・・・ふぅ、久々に腹が立った。
とにかく、地域内であれ外からであれ、どんな経緯があろうと、何の罪もない人たちが差別されることは絶対あってはならないはずだし、そんなことがあったら当事者が「ふざけるな!」とこぶしを振り上げないといけないはず。なのに、今もなお、差別を恐れて水俣病の申請をできずにいる人もいる。
それは、もしかしたら小さい頃から、「水俣病のことを話すと差別されるかもしれないから、黙っておくんだよ」と聞かされて育ったからなのかもしれないと思ったのでした。
それで、思ったのは、「大勢に楯突くのは一部の変わり者」という「世の中」があるのかなあ、ということです。チッソでみんなの生活が成り立っているんだから、たとえ病気になっても声をあげずに静かに暮らしていれば、他のみんなが幸せなんだよ・・・と。声をあげる「一部の人」の仲間になんかなっちゃいけない、と。
ここでふと、この感覚が、日本の社会の問題のすべてを表しているように思えてきました。
私は今、保育園民営化問題で修士論文を書いているんですが、練馬だけではなくて多くの自治体で、「保育園民営化に反対するのは一部の保護者だ」と首長が言います。
ハンセン病問題で、当事者が「差別から解放してくれてありがとう」と言っているうちは歓迎するのに、「なぜ差別するのか」と抗議したとたんに「ハンセン病患者は税金で生きているくせに・・・」とバッシングされたという問題も、根っこは同じである気がします。世の中の流れから頭ひとつでも飛び出すと、ぽこんと殴られる。
そういえば、昨年の今頃、私が名誉区民の議案に反対しようとしているときにも、いろんな人に「一部の議員が反対している」と言われました。
特定の立場の誰かではなくて、見事にあらゆる人に「一部の人が・・・」と呼ばれまして、しまいには区議会だよりにも「反対(一部)」と書かれていたので、「私は、【一部】という名前じゃないよ~」と、だんだん笑えてきまして(^^;
一人会派になった暁には会派名を「一部」にしようかと思っていたくらいでした。
こうやって笑いでもしなくちゃ、やっていられませんでしたぜ。
しかし、同じ状況に遭遇した時、誰もがこんな風にのんきに笑っていられるわけではないと思います。
「あなたが今発言したら、みんなと違う【一部の人】になっちゃんだよ」という圧力の前に苦しむ人はたくさんいるのではないかと思います。
差別の根っこは、積極的な憎しみではなくて、みんなと違う人を排除すること、みんなと同じであることに安心することによって生まれるものなのかもしれないと思ったのです。
そう考えると、水俣の問題は私達だれの心にも突きつけられる問題であるように思ったのでした。
それから、今は3,40代で若い人たちで視野狭窄などが起きている人たちは、今は自分の中で我慢してしまっていたりもするけれど、今後高齢化していく中では隠していられないほど体調不良が悪化していく心配もあるのではないかということを、お話を伺った方がおっしゃっていました。
水俣病の解決のための法律が先日できましたが、今までも何度も繰り返されてきた水俣病の解決策は、「高齢化の波の中で今できるだけ早く、問題解決をしないと生きているうちに解決できなくなってしまう」という切迫した状態に当事者を追い込みながら行なわれてきたのでした。
そう考えると、これで解決ではなく、これからも、まだまだこの問題は続いていくと思われます。
「水俣病」そのものも、そこからみえる社会のありようも、しっかりと、見ていきたいですね。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
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★秋のような・・・ ★アメリカ旅行記④―サンフランシスコの壁画
★秋のような・・・
朝晩、ずいぶん涼しくなりましたね。秋も近いのかなと思わされますね。
コンビニで、「秋」のつく名の缶ビールを見つけて、妙にしみじみしました(^^;
しかし、今年は暑い日の少ない夏だったから、心配なところがありますねぇ・・・。
★アメリカ旅行記④―サンフランシスコの壁画
サンフランシスコの「24street mission」という駅で降りると、まちには壁画だらけ。

マクドナルドの外壁も絵が描かれているほど。

ガイドさんがまちの歴史や絵の意味を解説してくれるツアーに参加しました。
まちを歩いてみると、印象としては「下町」風な感じがする。
もともとは、メキシコ出身の画家がこの地域に壁画を持ち込んだことに始まるようですが、壁画を施すことによって街中の落書きが少なくなるという、まちづくりの側面もあるようです。
今では、子ども達に壁画のレッスンをしたり、住民とともにワークショップのようにして絵を描いたりというようなこともやっているようです。壁は、ここに住んでいる人やお店の人から提供してもらって、どんなものを描くかの合意形成をしながらやっているとか。
私は美術は苦手なので、壁画を見に行くといわれたときには、「はぁ、そうですか・・・」という感じでしたが(^^;)、解説を聞いてみると、社会的な意味をもたせた絵が多くて、とても面白い。

多くの女性がこぶしを振り上げ、先頭に立つ女性が握る鎖が千切れているという絵。絵が大きすぎて写真に収まりきれませんでしたが、鎖の先では年輩の女性が手をさし伸ばしている。

鎖をよく見ると、そこには「IMF(国際通貨基金)」「WTO(世界貿易機関)」「GATT」「world bank(世界銀行)」などの文字が書いてある。

人々が倒れる混乱の状態を描いた絵の上に重なる赤いリボン・・・レッドリボンの意味は、エイズに対する理解と支援の思い。

写っている人はガイドさんです・・・この絵は、左側は女性たちが武器を持って戦っている姿で、右側は豊かな土地に野菜が育ってみんなが笑っている姿。

真中に女の子が座っていますが、この子をよくよく見てみると、野菜の入った箱の上に座っている。
その箱には「For export only(輸出用)」と書いてあります。

洪水の波に、電卓やめがねや、様々な日常の用品が流されていってしまう様を描いた絵ですが、よく見れば洪水の波は迷彩柄になっている・・・。

シャッターに描かれた顔。その瞳の中には、片目には武器、片目には鳩が映っている。

これもエイズへの支援の思いが込められていますが、真中の絵はプロが書いて、周りの絵は住民とともに描くという手法を取ったようです。
政治的・社会的な発想と、まちの雰囲気を新しくする効果と、アートが融合するということがあるんだなあと思いました。
自分の政治的な信念を表す一手段としてアートを用いることができるならば、世界はぐっと広がりますね。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
朝晩、ずいぶん涼しくなりましたね。秋も近いのかなと思わされますね。
コンビニで、「秋」のつく名の缶ビールを見つけて、妙にしみじみしました(^^;
しかし、今年は暑い日の少ない夏だったから、心配なところがありますねぇ・・・。
★アメリカ旅行記④―サンフランシスコの壁画
サンフランシスコの「24street mission」という駅で降りると、まちには壁画だらけ。

マクドナルドの外壁も絵が描かれているほど。

ガイドさんがまちの歴史や絵の意味を解説してくれるツアーに参加しました。
まちを歩いてみると、印象としては「下町」風な感じがする。
もともとは、メキシコ出身の画家がこの地域に壁画を持ち込んだことに始まるようですが、壁画を施すことによって街中の落書きが少なくなるという、まちづくりの側面もあるようです。
今では、子ども達に壁画のレッスンをしたり、住民とともにワークショップのようにして絵を描いたりというようなこともやっているようです。壁は、ここに住んでいる人やお店の人から提供してもらって、どんなものを描くかの合意形成をしながらやっているとか。
私は美術は苦手なので、壁画を見に行くといわれたときには、「はぁ、そうですか・・・」という感じでしたが(^^;)、解説を聞いてみると、社会的な意味をもたせた絵が多くて、とても面白い。

多くの女性がこぶしを振り上げ、先頭に立つ女性が握る鎖が千切れているという絵。絵が大きすぎて写真に収まりきれませんでしたが、鎖の先では年輩の女性が手をさし伸ばしている。

鎖をよく見ると、そこには「IMF(国際通貨基金)」「WTO(世界貿易機関)」「GATT」「world bank(世界銀行)」などの文字が書いてある。

人々が倒れる混乱の状態を描いた絵の上に重なる赤いリボン・・・レッドリボンの意味は、エイズに対する理解と支援の思い。

写っている人はガイドさんです・・・この絵は、左側は女性たちが武器を持って戦っている姿で、右側は豊かな土地に野菜が育ってみんなが笑っている姿。

真中に女の子が座っていますが、この子をよくよく見てみると、野菜の入った箱の上に座っている。
その箱には「For export only(輸出用)」と書いてあります。

洪水の波に、電卓やめがねや、様々な日常の用品が流されていってしまう様を描いた絵ですが、よく見れば洪水の波は迷彩柄になっている・・・。

シャッターに描かれた顔。その瞳の中には、片目には武器、片目には鳩が映っている。

これもエイズへの支援の思いが込められていますが、真中の絵はプロが書いて、周りの絵は住民とともに描くという手法を取ったようです。
政治的・社会的な発想と、まちの雰囲気を新しくする効果と、アートが融合するということがあるんだなあと思いました。
自分の政治的な信念を表す一手段としてアートを用いることができるならば、世界はぐっと広がりますね。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
★近況 ★アメリカ旅行記③―バークレイその3
★近況
・道ですれ違った知人が、「加藤木さん、シアトルに行ったんですってね。どうでした?」と言いました。
いやぁ、1週間の出来事を、道ですれ違う5秒くらいの間に伝えるのは難しいですねぇ・・・「楽しかったです。」という、小さい子の夏休みの感想のようなことしか言えませんでした(^^; とほほ
・せっせと修士論文と一般質問の準備をしていますが、目が疲れる・・・。移動中の電車の中なんかで本や資料を読んでいると、目が痛くなってくるから、ついつい閉じるでしょう。閉じるとそのまま、Zzz・・・となる・・・
高校生くらいのときはいくら読んだって目なんか疲れなかったのに、嫌になっちゃうわ、と思いながら、目薬を買ってみました。
私は目だけは良いので、目薬を使うのも人生初です。
目に物を入れるというのは反射的に「怖い」と思うものですね。
目薬を片手についつい目を閉じて口ばかりが開いてしまいます。
それでも頑張って目薬をさすと、ずいぶん楽になるもんですね。
しかし、もう少しスマートにささっと目薬をさせるようにならないと、電車で目を閉じてしまう現象の解決ができませんね・・・。目薬をさすたびに、いちいち口をパカッと開くんではねぇ・・・。
★アメリカ旅行記③―バークレイその3
さて、なかなか進まないアメリカ旅行記の続きです。
各地にあるという「コミュニティカレッジ」を見に行きました。

同行した仲間の中に大学教育についての研究をした人がいるのですが、その人いわく・・・
コミュニティカレッジは2年制で、授業料が安い。基本的に希望する人は誰でも入れるので、たとえば家庭が貧困の状態にあってなかなか学ぶ機会がなかった人にとっても、就職に向けて学ぶ場として選択することができる。
さらにしっかり勉強したいと思った場合は、一般の大学への編入試験を受けるという道も開けてくる。(例えばバークレイなら、近くにあるカリフォルニア大学に編入するという可能性ができる。)
2年制大学といっても、日本の短大とはイメージの違うものなのだと、説明してくれました。
学校の入り口の受付で対応してくれた人は、この学校の学生さんでもあるらしい。丁寧に、案内をしてくれました。

きれいな建物でした。建物の中には、どの授業をとるべきか、先々の進路のために何をすべきかについて相談に乗ってくれる、相談室のようなところに、かなりのスペースがとられていました。

ちょっと暗いですが、教室の中の様子。丸いテーブルを囲むような形って、日本の学校ではないですよね。

学生が自習できるスペース。
学内に飾ってある絵は学生が書いたものなんだよと、案内してくれた人が言っていた(・・・そういうように私には聞き取れたのだけど、果たして・・・
)
コミュニティカレッジの見学を終え、カリフォルニア大学バークレイ校にも行きました。
前々回のブログに書いた、障害者自立生活運動を始めた人が通った大学です。
自然のたくさんある広い学校で、リスが歩いていました。

最先端の研究に学生が身近に触れられるような工夫をしているとか。

学内の「Free speech movement cafe」は、お茶を飲めるスペースで、学生がパソコンを持ち込んでそれぞれ勉強をしていたりするのですが、1960年代の学生運動の記録を残している場所でもあります。

壁に、学生運動のときの写真が貼ってある。

テーブルには、学生運動のときに作ったビラが埋め込んである。

学内の「スプラウル広場」が学生運動の舞台になった場所ですが、ここは戦争反対や人種差別への反対運動などの拠点ともなり、最近では反イラク戦争の運動も行なわれたとか。
前回・前々回のブログで書いたようにバークレイの街中を見ても感じたところですが、市民による運動が起きるということがすごいだけではなくて、その歴史が権力によって奪われていないことがすごいなと思います。
カリフォルニア大学バークレイ校の中に、今でも続く社会活動の拠点が許されており、そして学内のカフェに運動の歴史が残る。それを誰にも邪魔されない。
んー。あと10年くらい早く知っていたら、ここに留学したかったですね・・・。
次回は、サンフランシスコの壁画によるまちづくりについて書きます。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
・道ですれ違った知人が、「加藤木さん、シアトルに行ったんですってね。どうでした?」と言いました。
いやぁ、1週間の出来事を、道ですれ違う5秒くらいの間に伝えるのは難しいですねぇ・・・「楽しかったです。」という、小さい子の夏休みの感想のようなことしか言えませんでした(^^; とほほ
・せっせと修士論文と一般質問の準備をしていますが、目が疲れる・・・。移動中の電車の中なんかで本や資料を読んでいると、目が痛くなってくるから、ついつい閉じるでしょう。閉じるとそのまま、Zzz・・・となる・・・

高校生くらいのときはいくら読んだって目なんか疲れなかったのに、嫌になっちゃうわ、と思いながら、目薬を買ってみました。
私は目だけは良いので、目薬を使うのも人生初です。
目に物を入れるというのは反射的に「怖い」と思うものですね。
目薬を片手についつい目を閉じて口ばかりが開いてしまいます。
それでも頑張って目薬をさすと、ずいぶん楽になるもんですね。
しかし、もう少しスマートにささっと目薬をさせるようにならないと、電車で目を閉じてしまう現象の解決ができませんね・・・。目薬をさすたびに、いちいち口をパカッと開くんではねぇ・・・。
★アメリカ旅行記③―バークレイその3
さて、なかなか進まないアメリカ旅行記の続きです。
各地にあるという「コミュニティカレッジ」を見に行きました。

同行した仲間の中に大学教育についての研究をした人がいるのですが、その人いわく・・・
コミュニティカレッジは2年制で、授業料が安い。基本的に希望する人は誰でも入れるので、たとえば家庭が貧困の状態にあってなかなか学ぶ機会がなかった人にとっても、就職に向けて学ぶ場として選択することができる。
さらにしっかり勉強したいと思った場合は、一般の大学への編入試験を受けるという道も開けてくる。(例えばバークレイなら、近くにあるカリフォルニア大学に編入するという可能性ができる。)
2年制大学といっても、日本の短大とはイメージの違うものなのだと、説明してくれました。
学校の入り口の受付で対応してくれた人は、この学校の学生さんでもあるらしい。丁寧に、案内をしてくれました。

きれいな建物でした。建物の中には、どの授業をとるべきか、先々の進路のために何をすべきかについて相談に乗ってくれる、相談室のようなところに、かなりのスペースがとられていました。

ちょっと暗いですが、教室の中の様子。丸いテーブルを囲むような形って、日本の学校ではないですよね。

学生が自習できるスペース。
学内に飾ってある絵は学生が書いたものなんだよと、案内してくれた人が言っていた(・・・そういうように私には聞き取れたのだけど、果たして・・・

コミュニティカレッジの見学を終え、カリフォルニア大学バークレイ校にも行きました。
前々回のブログに書いた、障害者自立生活運動を始めた人が通った大学です。
自然のたくさんある広い学校で、リスが歩いていました。

最先端の研究に学生が身近に触れられるような工夫をしているとか。

学内の「Free speech movement cafe」は、お茶を飲めるスペースで、学生がパソコンを持ち込んでそれぞれ勉強をしていたりするのですが、1960年代の学生運動の記録を残している場所でもあります。

壁に、学生運動のときの写真が貼ってある。

テーブルには、学生運動のときに作ったビラが埋め込んである。

学内の「スプラウル広場」が学生運動の舞台になった場所ですが、ここは戦争反対や人種差別への反対運動などの拠点ともなり、最近では反イラク戦争の運動も行なわれたとか。
前回・前々回のブログで書いたようにバークレイの街中を見ても感じたところですが、市民による運動が起きるということがすごいだけではなくて、その歴史が権力によって奪われていないことがすごいなと思います。
カリフォルニア大学バークレイ校の中に、今でも続く社会活動の拠点が許されており、そして学内のカフェに運動の歴史が残る。それを誰にも邪魔されない。
んー。あと10年くらい早く知っていたら、ここに留学したかったですね・・・。
次回は、サンフランシスコの壁画によるまちづくりについて書きます。
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★勉強会のお誘い ★近況 ★アメリカ旅行記② バークレイ補足
★勉強会のお誘い
「高齢者の住まいを考える」
日時:9月12日(土)午後2時~4時
場所:勤労福祉会館(大泉学園駅南口)
講師:山本美香先生(東洋大学准教授)
参加費:500円(資料代)
申し込み方法:sakurako_happy_society@yahoo.co.jp まで。(お名前、ご連絡先、参加人数をお書きください)
当日参加も可能です。
主催:市民ふくしフォーラム
【会の趣旨】
高齢期に生活する場の選択肢は、決して豊かであるとはいえません。
いま、練馬区の特別養護老人ホーム待機者は2515人(2009年3月末現在)。1施設あたり平均の待機者は約575人で、1人が申し込んでいる施設数は平均4.35施設。
要介護度が重く、また家族状況などもかなり厳しい状況にあったとしても、必ずしも入れるわけではないのです。
一方、今まで住んでいた家に住み続けるにも、在宅介護の支援も十分とはいえません。家にいて介護を受ける人は、施設に入っている人に比べて介護保険の給付費(サービスにあわせて出される介護保険のお金)は半分くらいしか支給されていません。それも毎年減額になっています。
そんな中で、有料老人ホームの利用者が増えています。しかし、有料老人ホームは入居一時金が数百万~数千万円。月々の費用もかかりますから、この選択肢を選ぶことが経済的に可能な人はそんなに多くはないでしょう。
今後、団塊の世代が高齢者になっていくことを思うと、この状況はより深刻になるといえます。
高齢期の住まいの状況を改善するために私達には何ができるのか。まずは現在ある高齢者の住まいに関する施策を知る講演会を行ないます。
【山本美香先生プロフィール】
東洋大学ライフデザイン学部生活支援学科准教授。社会福祉士。
専門分野は地域福祉論・小地域福祉活動論・居住福祉論。
現在の研究テーマは、「高齢者の居住支援サービスを考える―住宅と福祉の連携のあり方」。
著書に、「高齢者の住環境」(編著)ぎょうせい 2009、「臨床に必要な居住福祉」(編著)弘文堂 2008、「地域福祉の理論と方法」(編著)弘文堂 2009など。
★近況
予算審議などの中で見えてくる、高齢者の生活の困難さをどうにかしたいという思いで、勉強会を企画しました。一度きりで終わらず、2,3ヶ月に1度の頻度で継続していきます。
第1回目である9月12日は、大学の先生をお呼びしての会になります。ぜひいらしてください。
・・・いやはや。脳みそが筋肉痛になりそうです。
今月中に、修士論文のメドをつけなくてはなりません(><) 今月中にメドがつかなかったら、ほぼ留年決定だなあ・・・。
そして、9月の定例会では、一般質問が・・・。
9月12日の勉強会だって、先生に丸投げするわけにはいかないし(^^;)
すべて今月中に、一定のメドを付けなくてはならない。あと10日くらいしかないじゃないか・・・
喉の奥から「しくしく」という音が鳴る今日この頃です。
とりあえず、何か書き始めなくてはと思い、「一般質問」というタイトルのワードのファイルを作りました。
そして、「社民党・市民の声・ふくしフォーラムの一般質問をいたします。」とだけ書き、「ふぅ、とりあえず1行は書いたぞ」と、おでこの冷や汗をゴシゴシと拭っております。
★アメリカ旅行記② バークレイ補足
今日のブログはすでに長文になりつつあるので、アメリカの話は少しだけ。前回書いたことの補足です。
前回のブログで紹介した、アートな通りは「アディソン通り」といいます。
建物も、古くからのものを用いて、テナントもこだわりのある店を入れているとか。

市民の寄付だけで作られた劇場・養成校があったり。


その隣にはジャズスクールがあったり。

大きな駐車場の壁が、以前はただの壁だったらしいのだけれど、ショーウインドーのような状態に変えて、絵などを飾れるようにしたとか。


既成概念からの「自由」を感じることのできる道ですね。
それから、バリアフリーについて。
まちを走る車椅子をたくさん見かけましたが、成人の場合はほとんどが電動車椅子でした。
アメリカ全体がそうなのかもしれませんが、でもおそらくバークレイは特に、お店の入り口が必ずフラットになっていて、車椅子マークがついている。

(コーヒー屋さん。まちのなかには、カフェだらけ。)

(アイスクリーム屋さん)
段差がある場合は、「車椅子が入れる入り口はあっちにあるよ」のマークがついている。

これは日本でもできそうですよね。スロープだとかエレベーターだとか、ずいぶん設置されているけれども、せっかくあってもどこにあるかがとても分かりにくいのだから。
実際に活用している現場は見られませんでしたが、案内してくれた人によると、バスもほとんどすべて、車椅子利用者が一人で乗り込めるようになっているとか。

ちなみに、バスの前方には、自転車が乗せられるようになっています。自転車を持ってバスにも電車にも乗れるとなると、移動の幅が広がって楽しそうですよね。

そこでふと、「この国にはママチャリはないのか・・・」と発見しました(^^;
ママチャリはバスの前方には乗せられないですもんねぇ。
日本での適用はできなさそう。残念。
今日は、このくらいにしておきます。
次回は、カリフォルニア大学のことと、「コミュニティカレッジ」について書きます。
・・・福祉の分野を外れてくると、復習しなければブログに書けないもんですから(しかも、「近況」に書いたように、脳みそに冷や汗をかいているものですから・・・)、気長に更新をお待ちくださいませ(^^;
※かとうぎ桜子のHPはこちら
「高齢者の住まいを考える」
日時:9月12日(土)午後2時~4時
場所:勤労福祉会館(大泉学園駅南口)
講師:山本美香先生(東洋大学准教授)
参加費:500円(資料代)
申し込み方法:sakurako_happy_society@yahoo.co.jp まで。(お名前、ご連絡先、参加人数をお書きください)
当日参加も可能です。
主催:市民ふくしフォーラム
【会の趣旨】
高齢期に生活する場の選択肢は、決して豊かであるとはいえません。
いま、練馬区の特別養護老人ホーム待機者は2515人(2009年3月末現在)。1施設あたり平均の待機者は約575人で、1人が申し込んでいる施設数は平均4.35施設。
要介護度が重く、また家族状況などもかなり厳しい状況にあったとしても、必ずしも入れるわけではないのです。
一方、今まで住んでいた家に住み続けるにも、在宅介護の支援も十分とはいえません。家にいて介護を受ける人は、施設に入っている人に比べて介護保険の給付費(サービスにあわせて出される介護保険のお金)は半分くらいしか支給されていません。それも毎年減額になっています。
そんな中で、有料老人ホームの利用者が増えています。しかし、有料老人ホームは入居一時金が数百万~数千万円。月々の費用もかかりますから、この選択肢を選ぶことが経済的に可能な人はそんなに多くはないでしょう。
今後、団塊の世代が高齢者になっていくことを思うと、この状況はより深刻になるといえます。
高齢期の住まいの状況を改善するために私達には何ができるのか。まずは現在ある高齢者の住まいに関する施策を知る講演会を行ないます。
【山本美香先生プロフィール】
東洋大学ライフデザイン学部生活支援学科准教授。社会福祉士。
専門分野は地域福祉論・小地域福祉活動論・居住福祉論。
現在の研究テーマは、「高齢者の居住支援サービスを考える―住宅と福祉の連携のあり方」。
著書に、「高齢者の住環境」(編著)ぎょうせい 2009、「臨床に必要な居住福祉」(編著)弘文堂 2008、「地域福祉の理論と方法」(編著)弘文堂 2009など。
★近況
予算審議などの中で見えてくる、高齢者の生活の困難さをどうにかしたいという思いで、勉強会を企画しました。一度きりで終わらず、2,3ヶ月に1度の頻度で継続していきます。
第1回目である9月12日は、大学の先生をお呼びしての会になります。ぜひいらしてください。
・・・いやはや。脳みそが筋肉痛になりそうです。
今月中に、修士論文のメドをつけなくてはなりません(><) 今月中にメドがつかなかったら、ほぼ留年決定だなあ・・・。
そして、9月の定例会では、一般質問が・・・。
9月12日の勉強会だって、先生に丸投げするわけにはいかないし(^^;)
すべて今月中に、一定のメドを付けなくてはならない。あと10日くらいしかないじゃないか・・・

喉の奥から「しくしく」という音が鳴る今日この頃です。
とりあえず、何か書き始めなくてはと思い、「一般質問」というタイトルのワードのファイルを作りました。
そして、「社民党・市民の声・ふくしフォーラムの一般質問をいたします。」とだけ書き、「ふぅ、とりあえず1行は書いたぞ」と、おでこの冷や汗をゴシゴシと拭っております。
★アメリカ旅行記② バークレイ補足
今日のブログはすでに長文になりつつあるので、アメリカの話は少しだけ。前回書いたことの補足です。
前回のブログで紹介した、アートな通りは「アディソン通り」といいます。
建物も、古くからのものを用いて、テナントもこだわりのある店を入れているとか。

市民の寄付だけで作られた劇場・養成校があったり。


その隣にはジャズスクールがあったり。

大きな駐車場の壁が、以前はただの壁だったらしいのだけれど、ショーウインドーのような状態に変えて、絵などを飾れるようにしたとか。


既成概念からの「自由」を感じることのできる道ですね。
それから、バリアフリーについて。
まちを走る車椅子をたくさん見かけましたが、成人の場合はほとんどが電動車椅子でした。
アメリカ全体がそうなのかもしれませんが、でもおそらくバークレイは特に、お店の入り口が必ずフラットになっていて、車椅子マークがついている。

(コーヒー屋さん。まちのなかには、カフェだらけ。)

(アイスクリーム屋さん)
段差がある場合は、「車椅子が入れる入り口はあっちにあるよ」のマークがついている。

これは日本でもできそうですよね。スロープだとかエレベーターだとか、ずいぶん設置されているけれども、せっかくあってもどこにあるかがとても分かりにくいのだから。
実際に活用している現場は見られませんでしたが、案内してくれた人によると、バスもほとんどすべて、車椅子利用者が一人で乗り込めるようになっているとか。

ちなみに、バスの前方には、自転車が乗せられるようになっています。自転車を持ってバスにも電車にも乗れるとなると、移動の幅が広がって楽しそうですよね。

そこでふと、「この国にはママチャリはないのか・・・」と発見しました(^^;
ママチャリはバスの前方には乗せられないですもんねぇ。
日本での適用はできなさそう。残念。
今日は、このくらいにしておきます。
次回は、カリフォルニア大学のことと、「コミュニティカレッジ」について書きます。
・・・福祉の分野を外れてくると、復習しなければブログに書けないもんですから(しかも、「近況」に書いたように、脳みそに冷や汗をかいているものですから・・・)、気長に更新をお待ちくださいませ(^^;
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★お仕事再開―大学生の新たな仲間ができました ★アメリカ旅行記①―バークレイ
★お仕事再開―大学生の新たな仲間ができました
大学生の女の子から、「何かお手伝いできませんか?」というメールをもらいました。
この数ヶ月、2,30代の若い人たちが比較的手伝ってくれるようになってきたんです。
まあ、若いのに、奇特な人がいるものです(^^;
で、今日、メールをくれた大学生と直接お会いして、お話をしました。おっとりとした、可愛らしい女の子でした。
選挙とか狭い意味での政治とかではなくて、福祉に関心があった様子なので、私が視察に行く時などにご一緒することになりました。
「なんだろう?」「なぜだろう?」と思ったところに飛び込んでみるのが好きなので、学生のうちに色々見てみたいとか。
大学の友達に同じような人はいない様子。私も、学生の頃は同年代に問題意識を共有できる仲間はいなくて、24,5歳になってようやく、「同年代でも同じようなことを考えている人もいるんだなあ」と知ることができたという経験があります。もっと早く同年代の仲間を見つけるためには、大学でサークルを選ぶ時に、市民活動とかをやっている団体に入ればよかったなあと後で気づいた。
なので、「なんのサークルに入っているの?」と聞いてみました。
そしたら、「ダジャレサークルです」という、まさかの返事が・・・(><)
あまりの意外な答えに、しばらく腹をよじった後、思わずメモりました。
なんでも、週1回メンバーが集まって、ダジャレを言い合うんだとか。。
大学に入学した時にこのサークルを見つけて、「何だろう・・・」と思って行ってみたら、気づけばメンバーになっていたとか。
類は友を呼ぶ、で、どちらかというと似た傾向の人が集まってくるもんだなあと、妙にしみじみと思った今日でした
まあとにかく、自分よりも年下の子に、自分が経験したことを伝えながらともに学ぶことができるのはワクワクするものです。
新たな仲間が増えて、嬉しいな。
★アメリカ旅行記①―バークレイ
さて、アメリカの報告をします。
サンフランシスコ空港から地下鉄に乗って、バークレイのまちに向かいました。


車内にあった地図です。


なぜか、電車の床がカーペットだったんですが(カーペットだと車椅子が移動しにくいのではないかなあという気がしたんですけど・・・)、ホームと電車の間に段差はないので、駅員の介助がなくても電車に乗れるようになっているし、すべての車両に車椅子スペースがありました。

ちなみに、電車には、自転車を持って乗れるらしいです。

このマークのついた公衆電話にはキーボードがついていて、聴覚障害の人が使えるらしい。
キーボードで打った文字は、交換手が翻訳してくれるんだとか。

これが電話。
バークレイは、障害者の自立生活運動(IL運動)の発祥の地と言われています。
1970年代はじめ、障害のある人がカリフォルニア大学バークレイ校で学び、その地域で生活をしようと思ったときに、たくさんのバリアがあった。それを仲間や市民とともに解消する運動へと発展していったのですね。

ここは、車道と歩道の段差をなくすために、市民がハンマーを持ってきてその段差をたたき壊してしまった場所なのだそうで、記念の言葉が埋め込まれています。

In commemoration of the first public curb ramp and in recognition of those who have fought for equal access in every community.
最初にできた縁石のスロープと、そしてすべての地域で誰もが等しくアクセスできるようにと戦ってきた人たちを記念して・・・といったところでしょうかね。(うーん、こなれない翻訳だ・・・。)
歩道と車道のスロープの傾斜は、日本よりずっと緩やかだと思います。

このまちは他にも、市民によるたくさんの試みがあります。
少し先の道を行くと、90年代に新しく再生された通りに出ます。
かつては荒れた状態にあった通りを、地域のアーティストの手によってきれいに作り変えた。
詩を書いたタイルだとか。


カラフルなタイルの装飾だとか。

まちの歴史を書いたりだとか。

「1911年に、社会主義者のウィルソンさんが市長に選ばれました。」
そのほかには、
「1969年に医療費が無料になりました」
「1935年に反戦運動をした人がこの地で逮捕されました」
というタイルもありました。
うーん、これは、住みやすそうなまちだ・・・。。
しかし、こういった、その地域独自の歴史をタイルに刻みながらデザインしていくというのは、どこのまちでもできることなのではないかな、と、同行した仲間と話し合いました。
そんなに大掛かりにお金がかかるわけではないだろうし、道行く人が気軽にそのまちの特徴を知ることができる。これは良い。練馬で提案してみようかしら。
そこで、もし練馬だったらタイルには何が刻まれるだろうかと、頭をめぐらせました。
うーん・・・
色々考えて、ふと固まっていたら、そばにいた仲間が言いました。
「練馬だったら、もしかしたら名誉区民が刻まれたりするのかもね。」
おお、さすが、1週間の旅をともにする我が友。
よくぞ、今まさに、私の頭の中をよぎった事柄(そして私を固まらせた事柄)が分かったものだ。
「やっぱり、そうなりそうですよねぇ・・・ふぅ」と肩を落としていたら、仲間が励ます口調で言いました。
「まあ、そうなったときには、加藤木さんがハンマーを持って行って、ね・・・」
バークレイの旅行記は次回に続く。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
大学生の女の子から、「何かお手伝いできませんか?」というメールをもらいました。
この数ヶ月、2,30代の若い人たちが比較的手伝ってくれるようになってきたんです。
まあ、若いのに、奇特な人がいるものです(^^;
で、今日、メールをくれた大学生と直接お会いして、お話をしました。おっとりとした、可愛らしい女の子でした。
選挙とか狭い意味での政治とかではなくて、福祉に関心があった様子なので、私が視察に行く時などにご一緒することになりました。
「なんだろう?」「なぜだろう?」と思ったところに飛び込んでみるのが好きなので、学生のうちに色々見てみたいとか。
大学の友達に同じような人はいない様子。私も、学生の頃は同年代に問題意識を共有できる仲間はいなくて、24,5歳になってようやく、「同年代でも同じようなことを考えている人もいるんだなあ」と知ることができたという経験があります。もっと早く同年代の仲間を見つけるためには、大学でサークルを選ぶ時に、市民活動とかをやっている団体に入ればよかったなあと後で気づいた。
なので、「なんのサークルに入っているの?」と聞いてみました。
そしたら、「ダジャレサークルです」という、まさかの返事が・・・(><)
あまりの意外な答えに、しばらく腹をよじった後、思わずメモりました。
なんでも、週1回メンバーが集まって、ダジャレを言い合うんだとか。。
大学に入学した時にこのサークルを見つけて、「何だろう・・・」と思って行ってみたら、気づけばメンバーになっていたとか。
類は友を呼ぶ、で、どちらかというと似た傾向の人が集まってくるもんだなあと、妙にしみじみと思った今日でした

まあとにかく、自分よりも年下の子に、自分が経験したことを伝えながらともに学ぶことができるのはワクワクするものです。
新たな仲間が増えて、嬉しいな。
★アメリカ旅行記①―バークレイ
さて、アメリカの報告をします。
サンフランシスコ空港から地下鉄に乗って、バークレイのまちに向かいました。


車内にあった地図です。


なぜか、電車の床がカーペットだったんですが(カーペットだと車椅子が移動しにくいのではないかなあという気がしたんですけど・・・)、ホームと電車の間に段差はないので、駅員の介助がなくても電車に乗れるようになっているし、すべての車両に車椅子スペースがありました。

ちなみに、電車には、自転車を持って乗れるらしいです。

このマークのついた公衆電話にはキーボードがついていて、聴覚障害の人が使えるらしい。
キーボードで打った文字は、交換手が翻訳してくれるんだとか。

これが電話。
バークレイは、障害者の自立生活運動(IL運動)の発祥の地と言われています。
1970年代はじめ、障害のある人がカリフォルニア大学バークレイ校で学び、その地域で生活をしようと思ったときに、たくさんのバリアがあった。それを仲間や市民とともに解消する運動へと発展していったのですね。

ここは、車道と歩道の段差をなくすために、市民がハンマーを持ってきてその段差をたたき壊してしまった場所なのだそうで、記念の言葉が埋め込まれています。

In commemoration of the first public curb ramp and in recognition of those who have fought for equal access in every community.
最初にできた縁石のスロープと、そしてすべての地域で誰もが等しくアクセスできるようにと戦ってきた人たちを記念して・・・といったところでしょうかね。(うーん、こなれない翻訳だ・・・。)
歩道と車道のスロープの傾斜は、日本よりずっと緩やかだと思います。

このまちは他にも、市民によるたくさんの試みがあります。
少し先の道を行くと、90年代に新しく再生された通りに出ます。
かつては荒れた状態にあった通りを、地域のアーティストの手によってきれいに作り変えた。
詩を書いたタイルだとか。


カラフルなタイルの装飾だとか。

まちの歴史を書いたりだとか。

「1911年に、社会主義者のウィルソンさんが市長に選ばれました。」
そのほかには、
「1969年に医療費が無料になりました」
「1935年に反戦運動をした人がこの地で逮捕されました」
というタイルもありました。
うーん、これは、住みやすそうなまちだ・・・。。
しかし、こういった、その地域独自の歴史をタイルに刻みながらデザインしていくというのは、どこのまちでもできることなのではないかな、と、同行した仲間と話し合いました。
そんなに大掛かりにお金がかかるわけではないだろうし、道行く人が気軽にそのまちの特徴を知ることができる。これは良い。練馬で提案してみようかしら。
そこで、もし練馬だったらタイルには何が刻まれるだろうかと、頭をめぐらせました。
うーん・・・
色々考えて、ふと固まっていたら、そばにいた仲間が言いました。
「練馬だったら、もしかしたら名誉区民が刻まれたりするのかもね。」
おお、さすが、1週間の旅をともにする我が友。
よくぞ、今まさに、私の頭の中をよぎった事柄(そして私を固まらせた事柄)が分かったものだ。
「やっぱり、そうなりそうですよねぇ・・・ふぅ」と肩を落としていたら、仲間が励ます口調で言いました。
「まあ、そうなったときには、加藤木さんがハンマーを持って行って、ね・・・」
バークレイの旅行記は次回に続く。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
ただいま
アメリカから帰ってきました。
何度かに分けて、視察内容の報告をしたいと思います。
アメリカに行ったのは人生初だったんですが、あぁ受験勉強の英語って一体何なんだろうとしみじみ思いました(^^;
受験英語をやってた頃は、読み書きは結構得意だったんですよ。それでも高校までなんだから、もう10年も前ですけどねぇ。
しかし、読み書きはそこそこできるのに、なんで聞いたりしゃべるのができないんだろうと思うと、嫌になってしまいます。この1週間、ほとんど、「さんきゅう」と「えくすきゅーずみー」しか言わなかったような・・・。
あとは必要に迫られて、
「帽子がほしいです」
「お茶をください」
「部屋の冷蔵庫のワインを飲みました」(←!?)
とはしゃべったなあ・・・。
せめて、旅行に行く時に使う言葉くらいは復習していくべきでした・・・。
アメリカに入国する時、「目的は?」とか、「誰と来た?」とか聞かれるのですね。
それで、入国の担当の職員が、「仕事はなにをしてるんだ」と聞くわけです。
私「(あ?は?仕事? えーとえーと。 そうだ・・・)officer.」
職員「officer? police officer?」
私「おー!No!no! 役所。やくしょ!」
いざとなったら言語を超越するんだ!という勢いで一週間を過ごしてきましたが(^^;)、んー、英会話、勉強した方が良いなと思いました・・・。
前半は、サンフランシスコの近くのバークレイというまちで過ごしました。
バークレイは、バリアフリーの先端のまちです。
次回からは、このまちで見て来たことを真面目に報告いたします。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
何度かに分けて、視察内容の報告をしたいと思います。
アメリカに行ったのは人生初だったんですが、あぁ受験勉強の英語って一体何なんだろうとしみじみ思いました(^^;
受験英語をやってた頃は、読み書きは結構得意だったんですよ。それでも高校までなんだから、もう10年も前ですけどねぇ。
しかし、読み書きはそこそこできるのに、なんで聞いたりしゃべるのができないんだろうと思うと、嫌になってしまいます。この1週間、ほとんど、「さんきゅう」と「えくすきゅーずみー」しか言わなかったような・・・。
あとは必要に迫られて、
「帽子がほしいです」
「お茶をください」
「部屋の冷蔵庫のワインを飲みました」(←!?)
とはしゃべったなあ・・・。
せめて、旅行に行く時に使う言葉くらいは復習していくべきでした・・・。
アメリカに入国する時、「目的は?」とか、「誰と来た?」とか聞かれるのですね。
それで、入国の担当の職員が、「仕事はなにをしてるんだ」と聞くわけです。
私「(あ?は?仕事? えーとえーと。 そうだ・・・)officer.」
職員「officer? police officer?」
私「おー!No!no! 役所。やくしょ!」
いざとなったら言語を超越するんだ!という勢いで一週間を過ごしてきましたが(^^;)、んー、英会話、勉強した方が良いなと思いました・・・。
前半は、サンフランシスコの近くのバークレイというまちで過ごしました。
バークレイは、バリアフリーの先端のまちです。
次回からは、このまちで見て来たことを真面目に報告いたします。
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しばらく留守にします
★ついに今日から裁判員裁判が始まったそうですね。
裁判所まで出向いた候補者は47人だったとか。
今日の午後から早速裁判が始まっている様子。
裁判員の参加によって何が変わるのか、注目していかなくてはなりませんね。
★明日から11日まで、個人で視察に出かけてきます。アメリカに。(自腹です。念のため。)
お世話になっている先生が、仲間たちとともに、シアトルやサンフランシスコのまちづくりを見に行くとおっしゃっていまして。
「へー!良いですね!私も行きたい!」と叫んでみたら、行くことになっていました(笑)
今の日本の社会の動きとまったく関係なく動く私・・・なんかマイペースだなあって感じですよね(^^;
いや、でもしょうがないじゃないですか、選挙はもしかしたら10月まで無いかもしれないなんて言われてた頃に決めたんだもの。しかも、定例会や委員会もなさそうな時期、というので頑張って予定を立てたのです・・・
と、ひとしきり言い訳をして、行ってきます。
こんなに遠くまで行くのは初めてです。
外国は、韓国しか行ったことがないので。
大丈夫なんでしょうか。何か準備し忘れていることはないかなぁ・・・。
準備の最中にハタと、「お!私、英語しゃべれないじゃないか!」と気づきました
昨日、ご一緒する先生から電話をいただいて、「加藤木さんはどんなカバンを持っていくのか確認したくて電話しました。」と言われました。
私「どんなって・・・どんなって・・・えーと、あの、ゴロゴロと転がしていくやつです」
先生「ふうん・・・転がすの。じゃ、そんなに大きくないのかな。」
私「??? いや、小さくもないけど・・・うーん、大きくもないのかな・・・うぅぅん??」
先生「うーん・・・ま、いいや・・・」
何がなにやら、さっぱりダメです。
帰ってきたら視察内容、ご報告いたします。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
裁判所まで出向いた候補者は47人だったとか。
今日の午後から早速裁判が始まっている様子。
裁判員の参加によって何が変わるのか、注目していかなくてはなりませんね。
★明日から11日まで、個人で視察に出かけてきます。アメリカに。(自腹です。念のため。)
お世話になっている先生が、仲間たちとともに、シアトルやサンフランシスコのまちづくりを見に行くとおっしゃっていまして。
「へー!良いですね!私も行きたい!」と叫んでみたら、行くことになっていました(笑)
今の日本の社会の動きとまったく関係なく動く私・・・なんかマイペースだなあって感じですよね(^^;
いや、でもしょうがないじゃないですか、選挙はもしかしたら10月まで無いかもしれないなんて言われてた頃に決めたんだもの。しかも、定例会や委員会もなさそうな時期、というので頑張って予定を立てたのです・・・
と、ひとしきり言い訳をして、行ってきます。
こんなに遠くまで行くのは初めてです。
外国は、韓国しか行ったことがないので。
大丈夫なんでしょうか。何か準備し忘れていることはないかなぁ・・・。
準備の最中にハタと、「お!私、英語しゃべれないじゃないか!」と気づきました

昨日、ご一緒する先生から電話をいただいて、「加藤木さんはどんなカバンを持っていくのか確認したくて電話しました。」と言われました。
私「どんなって・・・どんなって・・・えーと、あの、ゴロゴロと転がしていくやつです」
先生「ふうん・・・転がすの。じゃ、そんなに大きくないのかな。」
私「??? いや、小さくもないけど・・・うーん、大きくもないのかな・・・うぅぅん??」
先生「うーん・・・ま、いいや・・・」
何がなにやら、さっぱりダメです。
帰ってきたら視察内容、ご報告いたします。
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今日の活動
毎日ブログを更新しようと張り切っていたら、それはそれで疲れてグッタリしてしまったので、またご無沙汰しました(^^;
涼しい日が多いですね。
朝の駅頭でのレポート配布も、一度保谷の北口でやったときに、「このままだと干物になりそうだ・・・」と思うほど暑かったですが、それ以外は楽です。
「あーあ、お酒を飲むときは食べ物も一緒にお腹に入れないとダメだよなあ、やっぱり・・・」と呟きながら目覚める毎日です。
今日は、松戸市議の山中けいじさんの報告会を見に行ってきました。
数ヶ月前、大学院の政策勉強会のメーリングリストで知り合った方です。
私が民主の会派を出て一人になるということを聞いて、「熱いっすね、熱いっすね、今度勉強を一緒にしましょう!」と声をかけてくれました。
私は、そんなに熱くないですよねぇ~。
・・・強いて言うなら、日本の夏のように、じとー、じめー、とあついかも・・・。
山中さんはガンガンに熱い人です。
鉄を打てそうな感じ。
たぶん、同じ自治体で議員をやってたとしたら、一緒の会派は組まない気がする(笑)
物事の判断の仕方は若干、私とは違うかなとは思うのですが、すごく勉強をされている方だし、報告会の開き方や一般質問をやり方を一生懸命工夫しようとされているのも感じるので、学ぶところは大きいと思っています。
そんな山中さんのHPを見ていたら、おっと、出身の小学校が私と同じではないか・・・と気づきまして(^^;
私は小学4年で松戸から引っ越しましたが。
山中さん「同じ小学校!? すごいねすごいね、縁があるねえ。ぜひ一緒に活動していこうよ」
私「あー。へへ・・・」
(たぶんお互いに)ノリに温度差を感じつつ、でも、山中さんのあまりの熱さを観察していたらだんだん面白くなってきたので、今日の報告会に参加させてもらいました。
人の報告会を見ると勉強になるものですね。
私がやった裁判員制度の勉強会のとき、弁護士である小川敏夫さんと、他の参加者の間に情報の差があることを感じました。
そりゃあそうですよね。専門家と一般の人では前提の情報がまったく違う。
そうすると、情報量の多い人にみんなが依存してしまいがち。
議会報告会のときの議員と参加者の関係もこれに近いですね。
ついつい、山中さんに質問する形式になってしまう。
山中さんは途中で、「僕と皆さんのやりとりだけではなくて、皆さん同士でのやりとりもしてもらいたいんです」とおっしゃいました。
その思いは、私の活動でも同じです。
でも、前提での情報量が違うんだから、意見を言うためには山中さんに質問する形を取らざるを得ない。
情報の格差を超えて、意見を交換できるようになるための工夫が必要だと思いました。
どうしたら良いんでしょうね・・・しばらく、私の宿題にしたいと思います。
夕方は、大泉学園町商店会のお祭りに参加しました。
私の自宅の近くなのです。
毎年参加させていただいていますが、まるで実家に帰ったような気持ちになれる、温かい場です。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
涼しい日が多いですね。
朝の駅頭でのレポート配布も、一度保谷の北口でやったときに、「このままだと干物になりそうだ・・・」と思うほど暑かったですが、それ以外は楽です。
「あーあ、お酒を飲むときは食べ物も一緒にお腹に入れないとダメだよなあ、やっぱり・・・」と呟きながら目覚める毎日です。
今日は、松戸市議の山中けいじさんの報告会を見に行ってきました。
数ヶ月前、大学院の政策勉強会のメーリングリストで知り合った方です。
私が民主の会派を出て一人になるということを聞いて、「熱いっすね、熱いっすね、今度勉強を一緒にしましょう!」と声をかけてくれました。
私は、そんなに熱くないですよねぇ~。
・・・強いて言うなら、日本の夏のように、じとー、じめー、とあついかも・・・。
山中さんはガンガンに熱い人です。
鉄を打てそうな感じ。
たぶん、同じ自治体で議員をやってたとしたら、一緒の会派は組まない気がする(笑)
物事の判断の仕方は若干、私とは違うかなとは思うのですが、すごく勉強をされている方だし、報告会の開き方や一般質問をやり方を一生懸命工夫しようとされているのも感じるので、学ぶところは大きいと思っています。
そんな山中さんのHPを見ていたら、おっと、出身の小学校が私と同じではないか・・・と気づきまして(^^;
私は小学4年で松戸から引っ越しましたが。
山中さん「同じ小学校!? すごいねすごいね、縁があるねえ。ぜひ一緒に活動していこうよ」
私「あー。へへ・・・」
(たぶんお互いに)ノリに温度差を感じつつ、でも、山中さんのあまりの熱さを観察していたらだんだん面白くなってきたので、今日の報告会に参加させてもらいました。
人の報告会を見ると勉強になるものですね。
私がやった裁判員制度の勉強会のとき、弁護士である小川敏夫さんと、他の参加者の間に情報の差があることを感じました。
そりゃあそうですよね。専門家と一般の人では前提の情報がまったく違う。
そうすると、情報量の多い人にみんなが依存してしまいがち。
議会報告会のときの議員と参加者の関係もこれに近いですね。
ついつい、山中さんに質問する形式になってしまう。
山中さんは途中で、「僕と皆さんのやりとりだけではなくて、皆さん同士でのやりとりもしてもらいたいんです」とおっしゃいました。
その思いは、私の活動でも同じです。
でも、前提での情報量が違うんだから、意見を言うためには山中さんに質問する形を取らざるを得ない。
情報の格差を超えて、意見を交換できるようになるための工夫が必要だと思いました。
どうしたら良いんでしょうね・・・しばらく、私の宿題にしたいと思います。
夕方は、大泉学園町商店会のお祭りに参加しました。
私の自宅の近くなのです。
毎年参加させていただいていますが、まるで実家に帰ったような気持ちになれる、温かい場です。
※かとうぎ桜子のHPはこちら