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和力
またご無沙汰をいたしました。
最近ちょっと過労気味で、頭の中がフリーズしていてブログが書けません・・・。とにかく近況報告を。
1月24日、無事、和力の公演が終わりました。
おかげさまでたくさんのお客様に来ていただくことができました。

すやすや寝ているお獅子。

だんじり囃子

みなさんにご挨拶。
(写真提供:和力事務所)
2年ほど前から、和力は「音舞語り」というのをやっています。演奏とあわせて、お芝居のようなものをやるのです。前回の練馬公演では「牡丹燈籠」。ほかに、ヤマタノオロチのお話や、浦島太郎などもあります。
誰もが聞いたことのあるお話に、和力としての解釈を加えて新たな物語にしている。
それで、今回の演目は「雪女」。
雪女は、春になったら溶けてしまうけれど、自分に惚れた男性の命を吸い取ることによってその命をつなぐことができる。
だけど、ある時、雪女のほうが男を好きになってしまう。だんだん暖かい季節になってきて、雪女の体は弱っていく。男の顔を見て悩む雪女…
和力の作るお話には、ある種の共通点があるように思っています。
牡丹燈籠の主人公は、すでにこの世にいない女性。ヤマタノオロチは半身が蛇の男性。雪女も、人の命を奪っていく存在。
昔話の中で、「異種」として恐れられる存在として登場する人物達。
けれど、和力の音舞語りに登場する彼らは、恋心を持ち、迷い、苦しむ「ふつうの人」として現れます。
「異種」を恐れるという感覚は、自分と異なる者に自分と同様の人格があることを認めないこと―差別の感覚につながっているように思うのです。
だから和力が、「異種」とされる者の中にある「心」に着目した物語作りをしていることに、興味と共感を覚えます。
私はどちらかというと、そんな風に客観的に見ていたのですが、今回、来てくださったお客さんの感想を聞いてみると、「もし自分が雪女の立場だったら」という、私とは違う視点の話が出て、面白かったです。
和力版雪女では結局、愛する男の命を取ることなく雪女は姿を消すのですが。
姿を消す前、雪女は眠る男の脇で悲しそうに舞います。
それを見てまず、「雪女は最後まで、男の命をとるかどうか迷っていたんだ」という人がいました。
それに対して、「いや、迷ってなんかいない。はじめから自分が消える覚悟はしていたけど、男のもとを去るのが辛かったんだ」という人もいました。
「私だったら、どんなに愛する人のためでも自分を犠牲にしたりはしない」という女性。
「私は、どうすれば良いかと悩んで、結論が見つからないままもだえ苦しんで死んでいくかも・・・」という女性も。
「自分が雪女の夫の立場だったら、ひとり後に残されて悲しむよりも、命を吸い取られてしまったほうがましだ」という男性もいました。
ふーん、そうか、おもしろい。同じ物語を見ても、解釈は人によって違うし、自分だったらどうするかというのも人によって違うんだ。
そこで私も客観的解釈から離れ、改めて「私が雪女の立場だったら」を考えてみました。
私は、好きな人の命は吸い取らずに、自分が溶けて消える方が良い。
それは、相手の命を吸い取って生き延びても、好きだった人がいなくなっている状態で自分が生きていかなくちゃならないのはたまらないから。まあ、この考えは相手のためというより、ある意味自分のためかもしれませんが・・・。
とにかく、大変な選択です。看取るのと看取られるのとどちらが幸せかという、誰もが人生の最期に突きつけられる問題にも通じるような。
だから、私の結論としては、雪女が舞っているときは、男の命を奪うかどうか、迷っていたのではないかと思います。それは、自分が生き延びるためではなくて、どっちの選択がお互いにとって幸せなのかということの迷い。
まあ、いずれにしても作品に唯一の回答はなくて、「こんな解釈もあるね」と話し合うことによる楽しみもあるんだと思います。
今回の公演には、そんなことを語り合える人たちがたくさん見に来てくださったのが嬉しかったです。
1年半前にやった練馬公演よりも、お客さんの人数も客層もずっと幅が広がり、これからも進化を続けていく予感がします。
次回は、いつ会場を取れるかというくじ運によるのですが(^^;)、近日中に次回の公演予定をご案内できればと思っていますので、ぜひ、お越しください。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
最近ちょっと過労気味で、頭の中がフリーズしていてブログが書けません・・・。とにかく近況報告を。
1月24日、無事、和力の公演が終わりました。
おかげさまでたくさんのお客様に来ていただくことができました。

すやすや寝ているお獅子。

だんじり囃子

みなさんにご挨拶。
(写真提供:和力事務所)
2年ほど前から、和力は「音舞語り」というのをやっています。演奏とあわせて、お芝居のようなものをやるのです。前回の練馬公演では「牡丹燈籠」。ほかに、ヤマタノオロチのお話や、浦島太郎などもあります。
誰もが聞いたことのあるお話に、和力としての解釈を加えて新たな物語にしている。
それで、今回の演目は「雪女」。
雪女は、春になったら溶けてしまうけれど、自分に惚れた男性の命を吸い取ることによってその命をつなぐことができる。
だけど、ある時、雪女のほうが男を好きになってしまう。だんだん暖かい季節になってきて、雪女の体は弱っていく。男の顔を見て悩む雪女…
和力の作るお話には、ある種の共通点があるように思っています。
牡丹燈籠の主人公は、すでにこの世にいない女性。ヤマタノオロチは半身が蛇の男性。雪女も、人の命を奪っていく存在。
昔話の中で、「異種」として恐れられる存在として登場する人物達。
けれど、和力の音舞語りに登場する彼らは、恋心を持ち、迷い、苦しむ「ふつうの人」として現れます。
「異種」を恐れるという感覚は、自分と異なる者に自分と同様の人格があることを認めないこと―差別の感覚につながっているように思うのです。
だから和力が、「異種」とされる者の中にある「心」に着目した物語作りをしていることに、興味と共感を覚えます。
私はどちらかというと、そんな風に客観的に見ていたのですが、今回、来てくださったお客さんの感想を聞いてみると、「もし自分が雪女の立場だったら」という、私とは違う視点の話が出て、面白かったです。
和力版雪女では結局、愛する男の命を取ることなく雪女は姿を消すのですが。
姿を消す前、雪女は眠る男の脇で悲しそうに舞います。
それを見てまず、「雪女は最後まで、男の命をとるかどうか迷っていたんだ」という人がいました。
それに対して、「いや、迷ってなんかいない。はじめから自分が消える覚悟はしていたけど、男のもとを去るのが辛かったんだ」という人もいました。
「私だったら、どんなに愛する人のためでも自分を犠牲にしたりはしない」という女性。
「私は、どうすれば良いかと悩んで、結論が見つからないままもだえ苦しんで死んでいくかも・・・」という女性も。
「自分が雪女の夫の立場だったら、ひとり後に残されて悲しむよりも、命を吸い取られてしまったほうがましだ」という男性もいました。
ふーん、そうか、おもしろい。同じ物語を見ても、解釈は人によって違うし、自分だったらどうするかというのも人によって違うんだ。
そこで私も客観的解釈から離れ、改めて「私が雪女の立場だったら」を考えてみました。
私は、好きな人の命は吸い取らずに、自分が溶けて消える方が良い。
それは、相手の命を吸い取って生き延びても、好きだった人がいなくなっている状態で自分が生きていかなくちゃならないのはたまらないから。まあ、この考えは相手のためというより、ある意味自分のためかもしれませんが・・・。
とにかく、大変な選択です。看取るのと看取られるのとどちらが幸せかという、誰もが人生の最期に突きつけられる問題にも通じるような。
だから、私の結論としては、雪女が舞っているときは、男の命を奪うかどうか、迷っていたのではないかと思います。それは、自分が生き延びるためではなくて、どっちの選択がお互いにとって幸せなのかということの迷い。
まあ、いずれにしても作品に唯一の回答はなくて、「こんな解釈もあるね」と話し合うことによる楽しみもあるんだと思います。
今回の公演には、そんなことを語り合える人たちがたくさん見に来てくださったのが嬉しかったです。
1年半前にやった練馬公演よりも、お客さんの人数も客層もずっと幅が広がり、これからも進化を続けていく予感がします。
次回は、いつ会場を取れるかというくじ運によるのですが(^^;)、近日中に次回の公演予定をご案内できればと思っていますので、ぜひ、お越しください。
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