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蕎麦&交流会のご案内

先ほど、修士論文の報告という長文のブログをアップしましたが、今度は短く、イベントのご案内です。
何も難しい話はない、蕎麦を食べてのほほんとする会のお知らせです。


修士論文の報告が細切れになってしまうので先に終えてから書こう・・・と思っていたら日程が迫ってしまいました(><) すみません・・・

そば打ち見学&交流会
~打ちたてのおそばを食べて交流しましょう~
日時:4月4日(日)午前11時50分 かとうぎ桜子事務所集合
                   (会場は近くの飲食店です)
参加費:2,000円
申し込み先:かとうぎ桜子事務所
電話:03-3978-4154 FAX:03-3978-4158メール:sakurako_happy_society@yahoo.co.jp

かとうぎ桜子が、そば打ちを得意としている区民の方と知りあったことによる企画です。かとうぎ桜子事務所近くにある飲食店を会場にそば打ち見学&交流をしませんか?
4月2日までにお申し込みください。
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修士論文報告⑦公共と市民

咳がなかなか治らず、薬を飲んでもなかなか治らず、よれよれになってきまして、現実世界の仕事をするだけで精一杯の10日ほどだったもので、またしてもブログ更新の間があいてしまいました。

さて、今回で修士論文の報告を最終回にします。先日、大学院は無事に修了しました。。


前回は、保育園民営化の課題を書きました。今回は、市民と行政がどのようなかかわりを持つべきなのか、その前提となる「公共性」とは何なのかということについて考えたいと思います。

保育園の民営化は、保護者のニーズへの対応など、色々な理屈をつけながらも、実際には利用者の声は聞かずに進められてきてしまいました。そもそも、市場に任せればすべてがうまくいくというような新自由主義的な発想がどんどん進んでしまい、前回のブログに書いたように、一般論として国民に受け入れられてしまったのはなぜなのでしょう。
前回も引用した宮崎省吾さんが次のように述べています。

住民運動が積み上げてきた「公共性」批判の論理は、単なる公共セクターの縮小=「民営化」へと水路づけられつつあるように思われる。つまり「公共事業」型国家を超える市民的公共性の論理が、ネオリベラリズム的な私化、「自己責任」化の「小さな政府」論へと接合されてしまっているのである。

宮崎さんが住民運動をしていたのは1970年代。地域の住民が問題を提起しても、「これは公共のためなんだ」という理屈で、行政が決めたことがどんどん進められてしまっていた。
「住民を置き去りにしてすべてを行政が決めるのではなくて、ともに課題解決をしていきたい」という方向へ向かうはずが、「行政には住民目線が足りないから市場に任せてしまおう」という方向へと進んでしまったといえます。

それから、齋藤純一さんという人は、「公共性」という本の中で次のように書いています。

「市民社会へ」という方向性は、生命の保障を基本的に個人の自助努力と家族・親族の間での相互扶助に委ね、それが機能しない場合にのみはじめて公的な対応をおこなうという日本の社会保障システム―それは批判的に「残余的福祉モデル」とよばれる―にとって、もともとうまく適合するものである。

日本の社会保障のしくみは基本的に、自分のことは自分でやるか、家族で支えあうということが前提になっている。それがダメなら制度を使おうという考えや感覚がずっとあって、それは福祉の制度が措置から契約へと移行しても変わっていない。
その流れの中で語られる「市民社会へ」という方向性は、市民が主体的に政策決定をしていくことではなくて、自分のことは自分でやりなさいという方向へ向かっていく危険があるわけです。

斎藤さんは次のようにも書いています。

ボランティア活動などの市民社会の活力はそれが非政治的であるかぎりで歓迎される、という問題である。いいかえれば、市民社会において評価されるのは社会的行為であって政治的行為ではない。

市民ができることは現場レベルで対応することであって、そこから見えてくる課題を政策に反映するようなことは求められていないということですね。

しかし、それでは市民が主体的に社会を創っていくことができません。

そこで、そもそも市民が主体的に築いていきたい公共性とは何なのか、を考えてみます。

これまた斎藤さんの引用ですが、

国家が媒介する非人称の連帯のメリットはまず、人称的な関係(世話するものと世話される者)につきまとう依存・従属の関係が廃棄されるという点にある。「国家の世話になる」人びとは、特定の誰かの世話になっているわけではないがゆえに、(少なくとも権利上は)誰かへの遠慮のゆえに声を呑み込む必要はない

市民と市民のかかわりは、固有名詞の人と人のかかわりです。だから、場合によっては迅速で柔軟な対応ができる。

しかし、内容的にも量的にも、顔の見える関係だけでは支えきれない部分もあると思います。だれもが使える保育や、低所得者に対する支援、虐待への対応などは市民だけではなくて、制度として支える必要があるでしょう。

どんな状況にあっても、どんな人も支えてもらうことのできるしくみがあるということが大切なことです。

そして、DVやセクハラのように時代によっては私的な不運と見られてきたような問題も、公共的に解決する問題と再認識されてきたように、どこまでが公共で支えるべき範囲なのかは変わってくるものなのだとも、斎藤さんは言っています。


社会の中でおきる様々な困難のうち、どこまでを公共的課題と位置づけていくべきかは、ずっと議論していかなくてはならないことで。そして、こうした議論や整理の作業に市民が関わっていくことが必要なのだと思います。

そこで、今後必要なこととして論文には、

・政策の決定の過程に市民が参画できること
・財源や国の動き等も含めて情報公開をすること
・公共の範囲はどこまでなのかを議論する場を設定すること
・こうした市民参画のしくみづくりが議員の役割だということ

を結論として書きました。

なんだか、分かりきったような結論なんですがね・・・(--;)


ただ、論文にはうまく書ききれなかったのですが、論文を書きながら色々考えていてハッと思うことが2つほどありました。

ひとつは、「公共の範囲はどこまでなのか」という切り口で様々な問題を見ていくと、社会の問題がとても理解しやすくなるということです。
行政の施策を見るときに、「ムダ使い」という切り口がよく使われますね。
これは一見分かりやすいのだけど、見方を間違えるとちょっと怖いなと思うのです。
人はついつい、自分に関係ないことはムダだと思いがちな部分があるのではないかと思うからです。だから、生活保護にお金をかけすぎるという批判をする人がいるのだろうと思うのです。自分は今生活保護を使っていないから、使っている人を批判するのでしょう。
そういう切り口だけで問題を見ていってしまうと、社会に向かって声を大きく発せない人―相対的に弱い立場に立たされている人に関わるものが切り下げられていく心配があると思います。さっき引用した、非人称の連帯のメリットというのが消されてしまう可能性があります。

だからそういう視点よりもむしろ、その事業はどんな公共性を実現するものなのか―だれのための、何のためのものなのか、を考えていったほうが良いように思います。

たとえば、商店街振興は誰のためにするのか。行政はどこまでの役割を果たすべきなのか。
小学校の統廃合と跡施設の活用は誰のためにやるのか。
などなど・・・。


誰の困難を取り除くための施策なのか、といった観点から見ていくと、「表向きの目的(例えば保育園民営化ならば、「保護者のニーズに対応する」など)」とは違った、その地域の政治の姿が見えてくるように思います。


それから、2つ目に思ったこと。これは、保育園民営化の各地の事例を見ていて気付いたのですが、行政が市民に向き合う姿勢の違いは、その地域の政治の違いだということです。

事例にあげたうちの一つの自治体では、当初、民営化のガイドラインを作る必要はないといっていたのです。しかし、途中から議会での答弁も変化していって、結局はガイドラインを作ることになりました。ガイドライン作りに市民が参画するというところまでは至らなかったようですが、しかし、いったん作らないといったものを作るようになるというのは、練馬だったらなかなか難しいことなんじゃないか、と思いまして。
それで、その自治体に問い合わせてみたのですが、なんだかケロッと、「求められたから作ることにしただけですよー」というような返事が返ってきました。

それで、ふと思い至ったのは、市民の声を聞いてそれを実現するかあるいは突っぱねるかという決定をするのは、行政じゃなくて、政治なんですよね。

市民の声を無視して話を進めたり話し合いの場を打ち切ったり、どんどん計画通りに進めていくのは、担当の課長や部長が意地悪なわけではなくて(^^;)、政治がその方向に持っていっているからだと思ったのです。

「市民と行政の協働」ということがよく言われますが、定義がどうもはっきりしなかったり、その中で結局は、今まで行政がやっていた仕事を安く市民にやらせているだけではないかという批判があったりします。新しく練馬区が作った協働の指針などを見てみても、市民と行政が一緒にできることというのは事業のレベルのことにとどまっていて、政策決定にどう市民が入っていくかというところには至らないのです。

でも、そもそも行政がやっている仕事は、その地域の政治の方向性だと考えてみれば、「市民と行政との協働」というのが現場レベルの問題解決にとどまり、ときに下請け的になってしまうという理屈も合点がいくような気がするのです。

本当に市民が自ら課題解決に関与する社会を創るためには、行政との協働よりも前に、政治と市民が協働しないといけないのですね。

政治と市民とのかかわりという議論をすっ飛ばして、行政と市民とのかかわりという議論にしてしまったのは、政治の責任逃れのような気がするし、だから、「新しい公共(行政だけが公共を担うのではなく、NPOなど様々な主体が公共を支える社会)」と「新自由主義的な発想(行政の役割を減らして市場に任せていく)」がごちゃ混ぜになってしまったのかなとも思います。


だから議員としての私にできることは、政治の世界を市民に開いていくことと、行政が市民を置き去りにしている場面に出会ったときに政治家としてどう軌道修正できるかを考えていくことだろうと思います。

それから、そうした行政組織の特徴を考えてみると、たとえ、中にいる職員さんたちが現状の市民との関係で課題を感じたとしてもなかなかすぐに変えることはできないのだろうとも思います。それは、良くも悪くも行政という組織がかっちりとある意味でしょう。
大きくてかっちりした組織のメリットは、決定した方向に向かって大人数で実行に移せることだろうし、デメリットは多くの組織人が課題に気付いていても変えるまでに時間がかかることだと思います。

私が1年半ほど前、議会で大人数の会派から一人会派に移ったときに、いろんな人から「少人数になってしまったら変えることができないじゃないか」といわれました。
これからも永久に少人数でいることが理想的だと思っているわけではありませんが(笑)、ただ、大人数になることによって私が言うべきと考えることが言えなくなったら本末転倒だと思うのです。
まずはたとえ少数であっても、もしかしたら誰もが気付いていてもすぐに変えられていない課題、だれも指摘することができずにいる課題を俎上にあげることができると思うのです。

私がかつて大会派にいたときにそうだったように、組織の中にいることによって指摘したいことが言えなくなってしまったら(ブログでは言っていましたが・・・ ^^; でもブログでぼやいているだけだったら議員である意味がないですしね)、行政組織と変わらなくなってしまう。
それじゃあ、議員としては、いてもいなくても良い存在だと思うんですよね。声をあげることができないならば、議員ではなくて違う仕事をしたほうがよほど区民の役に立つかもしれないもの。


そんな、地方自治体の政治、行政、市民の関係について改めて考え、そして私のなすべきことを考えることのできた論文でした。

できれば今年中にちょっと加筆したり読みやすいものに編集しなおして、冊子にできたら良いなと思っています。


それから、今回のブログの最後にちらっと書いた、私の議員としての役割という話ですが、次の練馬区長選・区議選まであと1年ちょっとです。
私が2期目の選挙に向けて、どんな考えを持っているか、ということも、4月中にはご報告したいと思っています。

※かとうぎ桜子のHPはこちら

修士論文報告⑥ 保育園民営化の課題

修士論文の報告、すこし間があいてしまったので、おさらいしながら続きを書きたいと思います。

今まで5回にわたって、論文の内容を報告してきました。まず第一回目では、1980年代からの「民間活力の活用」の変遷について書きました。

それから後は、保育園民営化についての各地の事例について報告しました。
練馬
横浜
葛飾
文京

練馬や横浜は、保護者が不安に思う声を無視してどんどん進めていました。葛飾は当初はどんどん進めようとしたけれど、議会からの指摘でかなり中身が変わっていった。文京は民営化そのものを凍結しました。対応は自治体によってまちまちです。

ここで見ていかなくてはならないことは、
・保育園民営化とは一体なんだったのか、保育のあるべき姿はどういうものなのかということ
・市民と行政のかかわりはどうあるべきなのか、そもそも公共性とは何なのかということ

です。

今回のブログでは前者を報告し、次回に後者を報告します。それでようやく長い論文の報告が終わり、現在進められている平和台保育園の民間委託の話に至ることができます。。


さて、どこの自治体も、保育園民営化をする理由として、利用者のニーズへの対応・サービス拡充をあげます。
民間の力を活用すれば経費の削減ができるから、余ったお金で新たな保育サービスの提供ができる。
民間の柔軟な力によって延長保育や休日保育など、新たなサービス提供もできるようになる。

この言葉をかりにそのまま信じるとすれば、保育園民営化は保育園を利用する子どもや保護者のためのものであるわけです。

であるならば、保護者から不安の声があがったならば、「あれ?良かれと思ってやろうとしていたのに、なんでだろう?」と立ち止まって相手の声に耳を傾けなければなりません。

私が事例にあげた自治体でも、保護者の声に耳を傾けた自治体は計画を凍結したり、徹底的に保護者に情報公開をするという手段をとっています。

けれど一方で、「保護者は反対するために反対しているんだ」と言った自治体もありました。こうやってはじめから保育園利用者の声に耳を傾けない姿勢を見ると、そもそも「民営化が保育園利用者のためになる」という理由じたいが嘘だったのだろうと思えてくるのです。
だって、本当に利用者のためになると信じているならば、より良くするために声を聞かなくてはならないのだから。
それをやらずに強行突破しようとするのは、本当は利用者のためにならないかもしれないと分かっているからでしょう。

かつて住民運動をやっていた人の本がありまして、そこに、次のように書かれていました。

いったい、関係住民を犠牲にする「公共性」とは何なのか。住民運動はいっさいの「公共性」を拒否するのか。「公共の福祉」と「地域エゴ」を対立させて考える限り、突破口はない。それよりも、この両者が対立させられてきたこと自体がおかしい、と考えた方が素直ではないか。そもそも「公共の福祉」が、住民がそれぞれ住んでいる地域がよくなる、あるいは悪くなるのを防ぐということと矛盾し、対立するということ自体がおかしいのである。
(宮崎省吾『いま、「公共性」を撃つ』より)

地域住民が不安に思う「公共」はありえないはず。だから、むしろ「地域エゴ」から公共が始まるべきなのではないか―という趣旨のことを宮崎さんは言っているのですが、これはあらゆる問題に共通することではないかと思うのです。
「地域エゴ」として当事者と非当事者が分断されていくという問題。(これは、先日私が会を企画した「沖縄戦の教科書問題」だとか、沖縄の基地問題、公害問題にも共通するところだと思います。)

当事者と非当事者との分断―というふうに考えると、これは保育園民営化問題にもあてはまると思うのです。

横浜前市長が主張したように「保護者は反対のために反対する」なんていうことはあり得ません。そんなに保護者は暇じゃない。保護者をバカにした言い方だと思います。

保護者はとにかく自分の子どもの育ちと生存権に関わる深刻な問題として、やむにやまれず民営化問題に時間を割いている。
けれども、直接かかわりを持たない人達は、「無駄を省く(効率化する)」とか「サービス向上」という一般論でしか向き合おうとしない。そして、なぜ当事者が不安を感じるのかに思いをはせずに「当事者エゴ」として切り捨てていくのです。
しかし、このように当事者の苦しみを傍観者として批判していく動きは、「非当事者エゴ」といえるのではないかと思うのです。そして、自分自身には関係ない問題を突き放し、一般論として当事者を評論・批判しているだけであることを考えると、この非当事者エゴに大きな問題があるように思います。
それは例えば、「生活保護利用者は怠け者」として自己責任論を唱えるのとも同じです。

こうした非当事者エゴに乗っかって、住民同士を分断し、市民が自ら課題解決を図る力を奪っていくのが横浜市や練馬区の事例だと思います。

つまり、民営化の進め方の違いはその自治体の政治の違いだったということなのですが、このことについては次回詳しく書きます。

今回は保育園民営化問題について課題を整理します。

その課題は、

・住民が顧客となることによって、ともに解決を図ることができない。行政が示したメニューを超えて住民が意見を言おうとすると「ご理解を」とのみ言って、ともに考える場が用意されていない。
・保育園を民営化すると経費が削減できるということはすなわち、働く人の条件が悪くなるということなので、保育従事者がワーキングプア化する。
・そもそも、保育はどうあるべきかという検証と目標がないから、経済的効率だけが指標とされてしまっている。
・保育のあるべき姿を考えるという場を設定していないし、そこに市民が参画するしくみもとられていない。
・私が修士論文報告の1回目に書いたような保育を取り巻く環境や財政のことなど、基本となる情報が市民に分かりやすく公表されていない。

ということです。

事例で見ても分かるように、葛飾の場合には理解ある議員さんがいたり、それを受け入れる土壌が区政にあったことによって改善されたし、文京の場合も政治が「凍結」に動いたのだと思います。
政治がひどかった横浜でも、混乱した園とそんなに混乱しなかった園があるようなのですが、それは受託をした法人がどれだけ保護者の声に耳を傾けたかという違いによるようです。
そうなると、たまたま法人が良かったか、その地域の政治が良かったか、という違いで若干の混乱の回避はできたとしても、基本的に既設の保育園の民営化は混乱を伴うという構造的な問題が見えてきます。そのため、

・既設の保育園は民営化しないこと
・公立保育園の果たす役割として、地域の中での子育て支援体制の核となること
・自治体によって公立保育園の果たしてきた役割は違うので(例えば2009年度、練馬区は公立園60園(公設民営園も含む)・私立20園だけれど、多摩市は公立は2園・民間園16園というように地域によって公私の割合が全く違う)、その地域の中での公立保育園の果たしてきた役割を検証する必要がある
・保護者だけではなく、地域の市民がともにより良い保育を作ることができるような情報交換の場を作ることが必要

といった、課題解決の方向性が考えられると思います。

さて、ようやく次回で論文の報告の最終回となります。

※かとうぎ桜子のHPはこちら

★女性センターの議案の動画 ★ハンセン病療養所見学のお誘い

★前回書いた、最終日の議会の動画が議会HPに載りました。
こちらの3月12日の、3段目にある「討論・採決」を再生すると出てきます。

だいぶムカムカしながらしゃべってたんですけどね・・・動画で見るとなんか、冷静にシラッとしゃべっているように見えるかもしれません(^^;
そうか、どうやら私はあんまり感情が顔に出ないんだなということに初めて気づきました

★さて、今日はまたイベントのご案内です。

ハンセン病を知ってみよう!
~お花見&ハンセン病資料館の見学に行きませんか?~

日時:3月28日(日)午前11時30分 西武池袋線・秋津駅南口改札口集合
参加費:1,000円(差し入れ歓迎!)
申し込み先:かとうぎ桜子事務所
電話:03-3978-4154 FAX:03-3978-4158メール:sakurako_happy_society@yahoo.co.jp
雨天時は、資料館見学と室内での交流を行ないます。集合場所での出欠確認の都合上、前日までにお申込ください。

東村山市に「全生園」という国立ハンセン病療養所があるのをご存知ですか? 1996年に「らい予防法」という法律が廃止されるまで、ハンセン病に一度かかると療養所に隔離をされて、たとえ治癒しても療養所の中で一生を過ごさざるを得なかったのです。今では隔離はされていませんが、元患者さんの高齢化が進んでいるため、たくさんの方が療養所で生活をしています。
全生園の敷地はとても広く、桜もたくさん咲きます。当日はお花見をしながら交流をし、ハンセン病の元患者さんからお話を聞いて、療養所内にある資料館の見学をする予定です。

女性センターの名称変更

今日で練馬区議会の第一回定例会が終わりました。

このブログでは、私の修士論文についての一連の報告が済んだら順番に区議会での議論を書こうと思っていたのですが、今日はどうしても先に書きたいことができたので、そっちを書くことにします。

今日は議会の最終日ということで、この定例会に出ていた議案の賛否を決める日でした。
私は、女性センター条例の改正の議案に反対の討論をしました。

女性センターは、石神井公園駅の近くにある施設です。これを、男女共同参画センターと名称を変えて、その目的も「女性の地位向上」や「女性問題の解決」というものから、性別にかかわりなく暮らしやすい社会を目指す・・・というような趣旨のものに変わるのです。


私はブログでは、自分の思っていることを十分に言い切れたなあと思うことはよくあるのですが、議会だとなかなかうまくいかないのです。正式な場であんまり変なことは言っちゃまずいかなあとも思うし、緊張もするし、まだまだ不慣れだし・・・結果として、どうも不完全燃焼ということが多いのです。思いのたけを言い切れないからブログで補足することが多いのです。

それが、この女性センターの反対討論に関しては、十分に言い切れた感じがしました。
議会の場で初めて、私の言葉で私らしく、しっかり言い切った感じがして、この内容を早く皆さんにお伝えしたくなって、今日はこのことを書きました。

以下、討論の文章を書きます。

議案第13号 練馬区立練馬女性センター条例の一部を改正する条例に反対の立場から討論をします。

練馬女性センターは1987年に婦人会館として誕生しました。
婦人会館設立に関しては、区議会にも陳情が出され、採択されたということですが、1987年の婦人会館事業概要には、その目的・機能について次のように書かれています。

「すべての婦人がお互いの生活課題を持ち寄り、婦人に共通の問題を考え、婦人が生き生きと暮せる社会を目ざして集い、活動する場を提供することにより、婦人問題の解決に寄与するものである」。
この、女性の地位向上をめざしたいという区民の思いは、現在の練馬女性センター条例にも引き継がれています。

しかし、今回の議案で新しく出された男女共同参画センターの条例では、この「女性の地位向上」という文言が抜けて、「性別にかかわりなく」という表現に変わってしまいました。
区は、「今まで女性の地位向上に向けて一定の取り組みをしてきたので、今後は性別にかかわらずに男性も女性も暮らしやすい社会を目指すのだ」といいます。
しかし、2009年の区民意識意向調査では、社会全体において男女平等であると答えた数が16.4%にすぎず、男性優位と答えた割合が66.6%であることを考えてみれば、今もなお、男性と女性が平等であるとは言いがたい状況があるのです。

私は議員になる前、4年間在宅介護の仕事をしていましたが、そこでは職場の8割,9割は女性という環境でした。
そんな中では精神的に女性であることによる壁を感じたことはありませんでしたが、しかし、今改めて、なぜ介護の職場にそれだけ女性が多いのかと考えるとそれは低賃金の問題につながってきます。
国がこの1月に発表した資料によれば、現在の介護職全体の平均給与は約23万円、訪問介護のヘルパーであれば約14万円です。このような状況では、結婚をして家庭をもった男性はやむを得ず離職していくという話をよく聞きます。
男性が稼いで一家を支えるという前提、そして長年、介護や家事は女性が無給か低賃金で担ってきたという女性差別の問題と介護の低賃金の問題は切っても切り離せないことなのです。

さて、練馬区政における女性の割合ですが、2009年度の「練馬区人事行政の運営等の状況の公表」という資料によれば、部長級32人のうち女性は2人で約6%、課長級77人のうち女性は10人で約13%ということでした。区議会議員50人のうちの女性は16人です。区の管理職に比べれば多いとはいえ32%です。
私は3年前に議員になって初めてこのように男性の割合の多い職場に身をおきました。そんな中では、「かとうぎさんは若い女の子だから当選できたんだね」というように、性別をことさらに強調する言い方にたくさん出会いました。それは、女性が政策決定の場に関わることがまだまだ珍しいということの表れでしょう。皆さん、悪気があって言っているわけではないと思うのですが、だからこそ潜在的にひそむ、女性差別の根深さを感じます。

誰もが暮らしやすい社会を作るためには、まずは社会の中で相対的に弱い立場に立たされてきた人、現に壁を感じている人の視点に立って問題を考え、環境を改善していかなくてはなりません。男性も生きやすい社会を作るためには、まずは今、女性が感じている社会の壁を取り払わなくてはならないのです。それなのに、性別にかかわりなく…という表現ではいまだ解決していない問題がうやむやになってしまいます。

たとえばドメスティックバイオレンスの問題です。男性と女性の身体的な力の違いと社会的な力の違いを背景にして、DVの被害者となるのは圧倒的に女性です。被害にあった女性が相談する最初の窓口として、女性センターの果たす役割は大きなものです。

このような状況のなかでなぜ、あえて今、名称を変更する必要があるのか、私には理解できません。
先の見通しのつきにくい社会にあって、女性をとりまく環境も決してよくはなっていません。低賃金、不安定雇用の問題。結婚や出産を機に仕事を辞めなくてはならないような状況。
働いている女性は忙しさや社会の窮屈さの中で孤立し、家庭に入った女性は社会とのつながりが見つけられずに孤立しているのです。

今、女性センターがなすべきことは、ひとりでも多くの女性がつながり、元気に社会で生活できるようにしていくという、設立当初の目標に向かってさらに取り組むべきであるということを申し上げ、反対討論といたします。




私のほかにも2人、他の会派の議員さんが反対討論をしていましたが、その討論に対して野次を飛ばす議員がいました。

私と違う考えを持つ人がいるのはしかたのないことだけど、議論をする場である議会で、正式に議論を挑むのではなくて、野次という形で妨害するのはみっともないですね。

議会に傍聴に来る区民の方は残念ながら少ないですから、直接区民の目には触れないかもしれないけれど、もし区民に見られたらはばかられるような態度を恥ずかしげもなくするようになったときには私は議員を辞めようと、いつも心に決めています。

時々、その反面教師となるような状況を目の当たりにするので、改めて心が引き締まる思いです。

そして、私は腹が立つと勢いづいて元気になるというひねくれた性格なものですから、ばかげた野次が飛んできたおかげでイラッとした勢いで緊張も解け、無事、咳き込むこともなく、しっかり討論することができました。

反面教師になってくださり、緊張を解いてくださった議員さんたちに、感謝感謝、ですな。

来週に入ったら、議会のHPに動画が載ると思いますので、またお知らせします。

※かとうぎ桜子のHPはこちら

★声 ★修士論文⑤文京の事例

★ふだん、私は声が通らないので、区民の人に「ああ、あなたいつも朝の駅でボソボソしゃべっている人ね」といわれたり、たまに議会事務局の人に、「かとうぎさん、発言のときもう少し声を張ってもらわないとテープ起こしがきついです」といわれたり、居酒屋で「すみませ~ん」と店員さんを呼んでも気づいてもらえなかったり(><)するのですが、今、風邪で鼻声になったらなぜかかえって声が通りやすくなって、店員さんが振り向いてくれます。このままずっと鼻声でも良いかも・・・。

でも、早口になると声がかすれてしまうので、明日の議会での反対討論の発言が心配です。女性センターを男女共同参画センターに名称変更する議案に反対をします。
5分程度で討論をするのですが、練習してみたら、原稿の分量が多すぎて、ギリギリなのです。
ずいぶん削ったつもりなんですが、もうこれ以上は削れない~(←内容が良すぎて削れない、と、自分の原稿を、自画自賛?? 笑)

5分の間にハナを垂らしたり咳き込んだりしないことを祈るばかりです。最終日の討論は区議会のHPに動画で出ますので。。


★さて、修士論文でとりあげた、最後の事例をご紹介します。文京区。

文京区は行政改革の一環ということで、2003年に2つの保育園の民営化計画を発表しました。具体的な園名もあげて、計画の素案として出したのです。

計画は、素案から案になり、そして決定するのですが、このプロセスで保護者から不安の声があがりました。ここまでは他の自治体と同じ。

しかしここで文京区が他と違ったのは、いったん、具体的な園名を撤回して、保護者と6ヶ月間協議する時間をとる計画へと修正したことでした。

この修正内容でもって計画は確定し、行政と保護者の協議会が開かれました。

結局、協議会は半年では済まず、第3次まで、合計1年8ヶ月ほど行われました。

当事者に聞くと、必ずしも良好な関係が築かれていたわけではなく、そもそもなぜ協議しなくてはならないのかということで行政と保護者は見解の食い違いを見せており、第2次以降の協議会の報告書は正式には区側にはわたっていないという状況もあるようです。

保護者は行政と協議をする徒労感はあったようですが、しかし、文京区が練馬や横浜と違うのは、ここで、既に運営されている区立保育園の民営化はやめようという判断にいたったことでした。

保育園の保護者の協議と同時に文京区は、保育ビジョンというものをまとめました。これも区民や学識経験者が参加している検討会でまとめられたもので、行政計画の基本指針とするものといわれています。
「行政の指針にする」というだけで「行政としての決定」ではないというところが区民にとっては不安材料として残っているようですが、しかしこの保育ビジョンには保育のあり方や、そこで行政が果たすべき役割がとても整理されています。

そしてここで、公設公営保育園は維持し、地域の子育ての拠点となることが書かれているのです。


文京区は人口も面積も小規模であることもあって、保護者が全区的にまとまって意見表明しやすかったということもひとつの理由としてあるようです。

しかしそれにしても、横浜練馬の事例と、葛飾の事例、文京の事例はあまりにも違いすぎます。

この違いはいったい何なんでしょうか。人口規模の違いだけでは説明できないと思うし、一番最初に書いた国の問題だけでも説明がつかないのです。

じゃあ一体何なのか・・・。
つづきは次回。


※かとうぎ桜子のHPはこちら

3月の勉強会のご案内

★私は、風邪を引いてからそろそろ1週間たつのです。
先週は比較的おとなしく養生していたというのに、いつまでもグズグズと風邪が治らないので、「えーい!うっとうしいわ!大事にしても治らないなら無理してやる!」とやけを起こし、今朝、駅頭でレポート配りをしたら、終了後に声変わり(?)をしました(^^;

自分の感じとしては先週よりは体調は良くなっている感じがするんですが、変な声になったせいで皆さんに心配されまして
あんまりたくさん「大丈夫?」と言われるので、なんとなく本当に具合が悪いような暗示にかかってきました。。

たしか昨年の今頃もゴホゴホしていたのですが、一人会派だったので、一人で壁に向かって咳き込んでいて誰も心配してくれなかった思い出が・・・。それに比べたら今はいろんな人に心配してもらって幸せですねぇ。。

しょうがないから、変な声が治るまでは駅頭のレポート配りはお休みします。


★イベントのお知らせです。
今年は1ヶ月に1度くらいの割合で、いろんなテーマの勉強会を企画したいと思っています。

1月は和力があったし、2月は議会の定例会があったのでお休みでしたが、3月は以下の会です。ぜひいらしてください。


練馬から「沖縄」を考える

3月18日(木)午後6時30分~8時30分 勤労福祉会館1階小会議室
参加費500円
2007年度の高校教科書検定で、沖縄戦に触れた部分について「軍から集団自決の強制があった」という旨の記述を削除すべき検定意見が出されました。沖縄では反発が強まり、新聞等でも大きく報じられたのを覚えていらっしゃるでしょうか。
東京でも、東久留米市、国分寺市、台東区、豊島区など、2008年3月の段階で16の区市で検定意見の撤回を求める
意見書が採択されています。
練馬区でも意見書の提出を求める陳情が出されていますが、今でも陳情は継続審議の状態にあります。

沖縄は今、基地の問題も大きく注目されています。
東京にいる私達は、沖縄の問題をどう捉えたらいいのでしょうか…今回の勉強会は、そんな素朴な思いからスタートしています。

教科書問題についてのDVDを鑑賞し、この問題に取り組んでいる方からのお話を聞いたうえで皆さんとディスカッションしたいと思っております。

※かとうぎ桜子のHPはこちら

八千代市の保育園/修士論文の報告④葛飾の事例

★3月3,4日くらいの新聞などの報道で、千葉県八千代市の保育園で保育士により、1歳の子どもの口にガムテープを貼るなど虐待を疑われる行為があったことが書かれています。内部からの通報だったとか。
ここは、2007年に民営化された保育園であるとのこと。

しかし一方で、この保育士自身は「やっていない」と言っているそうです。

何が真実かは今後の検証が必要だと思いますが、いずれにしても保育園内が混乱しているのは事実でしょう。
本当に虐待があったとしても、ないものをあると言っているのだとしても、いずれにしても保育士の心が窮屈になっているのだろうと想像します。

保育士の資格を取るための勉強をしているときには、誰もが子どもと関わる楽しい仕事を夢見ていたはず。それがこんな事態を招いたのはなぜなのか。当然、現場の責任ではなく、管理をする側の問題だと思います。

多かれ少なかれ同様の混乱が起きているのが今の保育の現場ではないかと思いますし、だからこそ今後の経過をしっかり見ていかないといけないなと思います。

★さて、修士論文の話。葛飾の例を紹介します。

葛飾は2002年から民営化の検討が始まりましたが、当初、かなり混乱したこともあって一度撤回し、2005年頃から再び検討が始まりました。
不安に思った保護者が議会に請願を出しているのですが、葛飾が他の自治体と違うのは、議会の中で一番多数派を占めていた会派の議員さん―他の自治体だったらどちらかといえばどんどん民営化を進めるべきだといっているような立場の人がしっかりと保護者の声に耳を傾けて、少しでもベターな方向になるように力を注いだことでした。

この議員さんの所管委員会での発言を引用します。カッコ内の注釈は私が入れました。

まず、今の話(課長の説明)の中で、(民営化が)お子様に影響がいくというふうな言い方をしたのだけれども、「お子様に影響」ではなく、「子どもの最善の利益を実現する」ことが、僕は目的だと思うのだよね。だから、その「お子様の影響」という言い方は、ちょっと僕、あなた担当課長として腑に落ちないのだけれども、もう一度言っていただけます。民営化に向かって円滑に情報を公開していきますと。お子様に影響がいかないようにって、お子様に影響がいくというようなことを、あなたは保育の行政を考えているの。違うのではないかな。

この議員さんがかなり力を入れて質問するようになってから、保育園民営化の状況はかなり変わってきます。
・まず、当初行政は「作らない」といっていたガイドラインを作ることになった
・ガイドラインの一番頭に「子どものことを最優先に」という文面が来た
・近県の社会福祉法人に限定した
・法人選定の審査項目に保護者の意見を反映させることになった
・応募事業者の提案内容等を保護者に示し、保護者の意見を選定委員会に報告することになった
・事業者との引継ぎの計画は保護者と区で話し合うと取り決めた

などが決まりました。
それから、選定委員会のメンバーに保護者が入ることができ、入らない場合も議事録を公開するという方法で透明性をはかるということが行われています。

これらのことは当たり前のことのようでありながら、「応募してきた事業者の負担になるから」という理由で他の自治体では行なわれていないことが多いのです。

他の自治体ではかなり高いハードルをひょいと乗り越えた葛飾の事例でした。

さて、葛飾ではなぜハードルを乗り越えられたのでしょうか。これは、次回報告する文京の事例を見た後に検証したいと思います。

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今日のイベントの報告

今日は、埼玉県の鶴ヶ島で友人の川田虎男さんが企画したイベントに参加してきました。参加というか、ゲストスピーカーみたいなやつです。
政治不信の若者と語ろうというような趣旨で、私と松戸市議の山中啓之さんが呼ばれてました。

社会人になって1~3年くらいの若者が多かったかなと思います。

結構、面白かった。

よく聞かれることですが、「議員の仕事って何なんですか?」とか、「お給料は良いんですか?」とか、「ふだん、何をやっているんですか?」とか、「悪い政治を良くするためにはどうすれば良いと思いますか?」なんていう質問が出て、やり取りをする感じ。


「政治」の話ってなかなか一般的には話題にしにくかったりするし、それに政治に不信感があったり無関心だったりするのは、そもそも「政治」とは何なのかというのが漠然としたイメージしかないからじゃないかなと私は思うのです。


社会の中での人と人の間に生じる葛藤はすべて政治といえるかもしれない。

政治に対する不信感を誘発するのは「政治とカネ」というやつですね。
カネや名誉やしがらみに動かされてしまう、流されてしまう人間の心理と、それを前提とする交渉も「政治的」といえるかもしれない。


だけど本来、政治は何をすべきなのか。どうあるべきなのか。

私は、自由に任せているだけでは光が当たらず放っておかれてしまうかもしれない弱い立場の人たちの声に光を当てることや、組織の理論(役人の考え)では見逃されてしまうかもしれない問題について光を当てていくのが政治の役割ではないかと思っているのです。それが目的。

目的を達成するために、今の課題を多くの人に知らせなくてはいけない。印刷や郵送にお金がかかる。当選しなければ目的は達成できないから、当選するよう頑張る。
これらは、目的を達成するための手段です。

しかしときどき、人間って、手段と目的がごちゃまぜになりますよね。手段だったはずのことが目的化してしまう。
「当選したら何をやるか」ではなくて、当選することそのものが目的になっていってしまう。

カネにだらしがない人間に政治を任せて良いのか、という点では、カネの問題は見逃してはいけないけれど、でもこれはあくまでも手段の失敗だと思うのです。
じゃあ目的の方はどうなっているのか、という点も同時に見ていかないと本末転倒になるんじゃないかと思うんです。

政治家自身が手段と目的を混同して失敗することがたくさんあるけれど、それだけではなくて、社会全体のなかでも、政治の手段と目的が混同して議論される傾向にあるような気がして。だから混乱したまま漠然とした不信感になるんじゃないかなと思いました。

そんなことを一生懸命ぺらぺらしゃべっていたら、風邪でやられた喉が悪化しました。喉が痛いよ~。咳がつらい~。

というわけで、論文の話のつづきはまた明日。

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修士論文③ 横浜の事例

★風邪をひきました・・・

月曜日の朝の駅頭でのレポート配布時が思いのほか寒かったせいか、あるいは先週末に会った友達の風邪がうつったのか。。
微熱がある程度だったのですが、激しく動くと頭がぐらぐらするので、能舞台の人のようにしずしずと移動する今日この頃です。

まあでもなんとか無事、予算の質問も終わりました。良かった良かった。

★さて、修士論文の話の3回目です。(保育園民営化の論文を書きましたもので。ちなみに無事、大学院を卒業できそうです。)

横浜の例をご紹介します。

横浜は2003年に4園の保育園民営化計画を発表しました。理由は練馬と同じ、保育ニーズの多様化に対応するためということです。横浜市立保育園では主食を出していなかったので、民営化したら出すようにしますということもあったようです。市立でも出せば良いのに・・・という感じですが。

練馬と同様に、保育園の保護者は、保育園がいったいどうなっていくのか不安に感じてやりとりを続けたのですが、横浜が練馬よりも露骨にひどかったのは、たとえば市が保育園に関するチラシを作って、その中に「保護者がいたずらに混乱を生んでいる」と書いて配ったり。
それから、ちょくちょくメディアに出る市長だったから、インタビューに答えて、「保育士が入れ替わってしまうのは子どもにとって精神的負担が大きいという指摘は、大人が反対するためにする議論だ」という趣旨の発言をしたりしていました。

保護者を悪者に仕立てて民営化を進めようとするなんて、いったい誰のための何のための計画なんだか。

いたずらに混乱を生んでいるのは誰なのか。「ためにする議論」をしているのは誰なのか―その言葉、そのままあなたにお返ししますと、横浜前市長に言ってさしあげたいと、私は思います。

ここまで露骨に不愉快なやり方をしているのを見ると、これに比べりゃ練馬区長は良い人なのではないかと思えてくるという、恐るべきイリュージョンが私の頭の中で一瞬起こりました(^^;

まあでも冷静に考えれば、練馬区長本人の口からはここまでひどいことは言っていないけれど、それに近いことが課長なり部長なり本部長なりの口から言われているので、同じようなものかな・・・いや、自分で言わずに部下にいわせるほうが卑怯かな・・・まあ、どんぐりの背比べですね。



横浜では保護者に理解を得るどころか、保護者を敵とみなすような対応を続けたのだから、当然、信頼関係も生まれず、混乱したまま引継ぎがなされ、民営化をした途端に子どもが怪我をする事故が起きたりもしました。


それでも、受けた法人の中でとにかく必死で保護者の不安や今までの不満に耳を傾けた園は比較的落ち着いて運営できたようです。

たとえば、ある園の例。
民営化して主食の提供をするようになったときに、その分の費用を新たに徴収することになる。その額はどうするのか。ひとり親の家庭など、新たな負担がきつい家もある。
「じゃあ、負担できる家庭には負担してもらって保育園が主食を提供するけれど、負担できない家庭は従来と同じように家からごはんを持参するようにしましょう」と決めたらしい。
だけど子ども達は持参の子を見て「なんでAちゃんはみんなと違うの?」と思うから、自然と差別してしまうようになる。
これは大変なことだから、家庭の環境が保育園での子ども達の生活に影響を及ぼさないように、「みんなに同様に提供しよう」と法人が決断をしたようです。
子どもが育つ場を保障するために、法人は身を削って努力していたようなのです。

これは一例ですが、ここに至るまでの行政と保護者の確執を乗り越えていい保育を築きなおすために、法人がものすごく苦労をしたということのあらわれだと思います。
たとえば上の例で言えば、民営化云々の前の問題として、主食の提供はどうするのか、その負担は誰がするのかという整理は行政がやっておくべきことだったでしょう。

もしその法人が、公立からの移管ではなくて、新設される保育園を新たに運営するというだけだったら、こんな大変な苦労はせずに済んだだろうと思います。
新設だったら別に、当時の横浜市長が放った心無い言葉による傷をかぶる必要なんかなかったんだから。

保育園民営化を強引に進めることは、子どもにも保護者にも現場の保育士にも、受託をする法人にも、ついで(?)にその交渉をする行政職員にも辛いことばかりで、なんのメリットもない。言いだしっぺの首長の自己満足にしかならないという事例のご紹介でした。(←またイライラしてきてきつい言葉を・・・


前回と今回のブログでは、読んでいる皆さんも嫌な気分になるであろう、2つの事例をご紹介しましたが、次からは少し違う展開を見せた事例を2つご紹介したいと思います。嫌な気分になる話じゃないのでご安心ください(^^;


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Appendix

桜子のツイッター

プロフィール

かとうぎ桜子

Author:かとうぎ桜子
1980年生まれ。

保育士、ヘルパー2級、社会福祉士の資格を使って福祉の仕事をしてきました。
制度だけでは一人ひとりが安心して生活するまちを作るには不十分だと考え、誰もが安心できるまちのしくみ作りをしていきたいと考えています。

2007年4月の統一地方選で練馬区議会議員に初当選。

2010年3月、「市民参加と公共性―保育園民営化を契機として」と題する修士論文を書き、立教大学大学院・21世紀社会デザイン研究科を修了。

2011年4月 無所属で2期目に当選。

2011年末に子宮頸がんが見つかり、2012年春に円錐切除の手術をしました。その後は今のところ再発もなく元気に仕事しています。
この経験を活かし、がん検診の啓発など健康に関する課題にも取り組んでいこうとしています。

2015年4月、3期目に当選。

会派は市民ふくしフォーラム。

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