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修士論文報告⑥ 保育園民営化の課題
修士論文の報告、すこし間があいてしまったので、おさらいしながら続きを書きたいと思います。
今まで5回にわたって、論文の内容を報告してきました。まず第一回目では、1980年代からの「民間活力の活用」の変遷について書きました。
それから後は、保育園民営化についての各地の事例について報告しました。
・練馬
・横浜
・葛飾
・文京
練馬や横浜は、保護者が不安に思う声を無視してどんどん進めていました。葛飾は当初はどんどん進めようとしたけれど、議会からの指摘でかなり中身が変わっていった。文京は民営化そのものを凍結しました。対応は自治体によってまちまちです。
ここで見ていかなくてはならないことは、
・保育園民営化とは一体なんだったのか、保育のあるべき姿はどういうものなのかということ
・市民と行政のかかわりはどうあるべきなのか、そもそも公共性とは何なのかということ
です。
今回のブログでは前者を報告し、次回に後者を報告します。それでようやく長い論文の報告が終わり、現在進められている平和台保育園の民間委託の話に至ることができます。。
さて、どこの自治体も、保育園民営化をする理由として、利用者のニーズへの対応・サービス拡充をあげます。
民間の力を活用すれば経費の削減ができるから、余ったお金で新たな保育サービスの提供ができる。
民間の柔軟な力によって延長保育や休日保育など、新たなサービス提供もできるようになる。
この言葉をかりにそのまま信じるとすれば、保育園民営化は保育園を利用する子どもや保護者のためのものであるわけです。
であるならば、保護者から不安の声があがったならば、「あれ?良かれと思ってやろうとしていたのに、なんでだろう?」と立ち止まって相手の声に耳を傾けなければなりません。
私が事例にあげた自治体でも、保護者の声に耳を傾けた自治体は計画を凍結したり、徹底的に保護者に情報公開をするという手段をとっています。
けれど一方で、「保護者は反対するために反対しているんだ」と言った自治体もありました。こうやってはじめから保育園利用者の声に耳を傾けない姿勢を見ると、そもそも「民営化が保育園利用者のためになる」という理由じたいが嘘だったのだろうと思えてくるのです。
だって、本当に利用者のためになると信じているならば、より良くするために声を聞かなくてはならないのだから。
それをやらずに強行突破しようとするのは、本当は利用者のためにならないかもしれないと分かっているからでしょう。
かつて住民運動をやっていた人の本がありまして、そこに、次のように書かれていました。
いったい、関係住民を犠牲にする「公共性」とは何なのか。住民運動はいっさいの「公共性」を拒否するのか。「公共の福祉」と「地域エゴ」を対立させて考える限り、突破口はない。それよりも、この両者が対立させられてきたこと自体がおかしい、と考えた方が素直ではないか。そもそも「公共の福祉」が、住民がそれぞれ住んでいる地域がよくなる、あるいは悪くなるのを防ぐということと矛盾し、対立するということ自体がおかしいのである。
(宮崎省吾『いま、「公共性」を撃つ』より)
地域住民が不安に思う「公共」はありえないはず。だから、むしろ「地域エゴ」から公共が始まるべきなのではないか―という趣旨のことを宮崎さんは言っているのですが、これはあらゆる問題に共通することではないかと思うのです。
「地域エゴ」として当事者と非当事者が分断されていくという問題。(これは、先日私が会を企画した「沖縄戦の教科書問題」だとか、沖縄の基地問題、公害問題にも共通するところだと思います。)
当事者と非当事者との分断―というふうに考えると、これは保育園民営化問題にもあてはまると思うのです。
横浜前市長が主張したように「保護者は反対のために反対する」なんていうことはあり得ません。そんなに保護者は暇じゃない。保護者をバカにした言い方だと思います。
保護者はとにかく自分の子どもの育ちと生存権に関わる深刻な問題として、やむにやまれず民営化問題に時間を割いている。
けれども、直接かかわりを持たない人達は、「無駄を省く(効率化する)」とか「サービス向上」という一般論でしか向き合おうとしない。そして、なぜ当事者が不安を感じるのかに思いをはせずに「当事者エゴ」として切り捨てていくのです。
しかし、このように当事者の苦しみを傍観者として批判していく動きは、「非当事者エゴ」といえるのではないかと思うのです。そして、自分自身には関係ない問題を突き放し、一般論として当事者を評論・批判しているだけであることを考えると、この非当事者エゴに大きな問題があるように思います。
それは例えば、「生活保護利用者は怠け者」として自己責任論を唱えるのとも同じです。
こうした非当事者エゴに乗っかって、住民同士を分断し、市民が自ら課題解決を図る力を奪っていくのが横浜市や練馬区の事例だと思います。
つまり、民営化の進め方の違いはその自治体の政治の違いだったということなのですが、このことについては次回詳しく書きます。
今回は保育園民営化問題について課題を整理します。
その課題は、
・住民が顧客となることによって、ともに解決を図ることができない。行政が示したメニューを超えて住民が意見を言おうとすると「ご理解を」とのみ言って、ともに考える場が用意されていない。
・保育園を民営化すると経費が削減できるということはすなわち、働く人の条件が悪くなるということなので、保育従事者がワーキングプア化する。
・そもそも、保育はどうあるべきかという検証と目標がないから、経済的効率だけが指標とされてしまっている。
・保育のあるべき姿を考えるという場を設定していないし、そこに市民が参画するしくみもとられていない。
・私が修士論文報告の1回目に書いたような保育を取り巻く環境や財政のことなど、基本となる情報が市民に分かりやすく公表されていない。
ということです。
事例で見ても分かるように、葛飾の場合には理解ある議員さんがいたり、それを受け入れる土壌が区政にあったことによって改善されたし、文京の場合も政治が「凍結」に動いたのだと思います。
政治がひどかった横浜でも、混乱した園とそんなに混乱しなかった園があるようなのですが、それは受託をした法人がどれだけ保護者の声に耳を傾けたかという違いによるようです。
そうなると、たまたま法人が良かったか、その地域の政治が良かったか、という違いで若干の混乱の回避はできたとしても、基本的に既設の保育園の民営化は混乱を伴うという構造的な問題が見えてきます。そのため、
・既設の保育園は民営化しないこと
・公立保育園の果たす役割として、地域の中での子育て支援体制の核となること
・自治体によって公立保育園の果たしてきた役割は違うので(例えば2009年度、練馬区は公立園60園(公設民営園も含む)・私立20園だけれど、多摩市は公立は2園・民間園16園というように地域によって公私の割合が全く違う)、その地域の中での公立保育園の果たしてきた役割を検証する必要がある
・保護者だけではなく、地域の市民がともにより良い保育を作ることができるような情報交換の場を作ることが必要
といった、課題解決の方向性が考えられると思います。
さて、ようやく次回で論文の報告の最終回となります。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
今まで5回にわたって、論文の内容を報告してきました。まず第一回目では、1980年代からの「民間活力の活用」の変遷について書きました。
それから後は、保育園民営化についての各地の事例について報告しました。
・練馬
・横浜
・葛飾
・文京
練馬や横浜は、保護者が不安に思う声を無視してどんどん進めていました。葛飾は当初はどんどん進めようとしたけれど、議会からの指摘でかなり中身が変わっていった。文京は民営化そのものを凍結しました。対応は自治体によってまちまちです。
ここで見ていかなくてはならないことは、
・保育園民営化とは一体なんだったのか、保育のあるべき姿はどういうものなのかということ
・市民と行政のかかわりはどうあるべきなのか、そもそも公共性とは何なのかということ
です。
今回のブログでは前者を報告し、次回に後者を報告します。それでようやく長い論文の報告が終わり、現在進められている平和台保育園の民間委託の話に至ることができます。。
さて、どこの自治体も、保育園民営化をする理由として、利用者のニーズへの対応・サービス拡充をあげます。
民間の力を活用すれば経費の削減ができるから、余ったお金で新たな保育サービスの提供ができる。
民間の柔軟な力によって延長保育や休日保育など、新たなサービス提供もできるようになる。
この言葉をかりにそのまま信じるとすれば、保育園民営化は保育園を利用する子どもや保護者のためのものであるわけです。
であるならば、保護者から不安の声があがったならば、「あれ?良かれと思ってやろうとしていたのに、なんでだろう?」と立ち止まって相手の声に耳を傾けなければなりません。
私が事例にあげた自治体でも、保護者の声に耳を傾けた自治体は計画を凍結したり、徹底的に保護者に情報公開をするという手段をとっています。
けれど一方で、「保護者は反対するために反対しているんだ」と言った自治体もありました。こうやってはじめから保育園利用者の声に耳を傾けない姿勢を見ると、そもそも「民営化が保育園利用者のためになる」という理由じたいが嘘だったのだろうと思えてくるのです。
だって、本当に利用者のためになると信じているならば、より良くするために声を聞かなくてはならないのだから。
それをやらずに強行突破しようとするのは、本当は利用者のためにならないかもしれないと分かっているからでしょう。
かつて住民運動をやっていた人の本がありまして、そこに、次のように書かれていました。
いったい、関係住民を犠牲にする「公共性」とは何なのか。住民運動はいっさいの「公共性」を拒否するのか。「公共の福祉」と「地域エゴ」を対立させて考える限り、突破口はない。それよりも、この両者が対立させられてきたこと自体がおかしい、と考えた方が素直ではないか。そもそも「公共の福祉」が、住民がそれぞれ住んでいる地域がよくなる、あるいは悪くなるのを防ぐということと矛盾し、対立するということ自体がおかしいのである。
(宮崎省吾『いま、「公共性」を撃つ』より)
地域住民が不安に思う「公共」はありえないはず。だから、むしろ「地域エゴ」から公共が始まるべきなのではないか―という趣旨のことを宮崎さんは言っているのですが、これはあらゆる問題に共通することではないかと思うのです。
「地域エゴ」として当事者と非当事者が分断されていくという問題。(これは、先日私が会を企画した「沖縄戦の教科書問題」だとか、沖縄の基地問題、公害問題にも共通するところだと思います。)
当事者と非当事者との分断―というふうに考えると、これは保育園民営化問題にもあてはまると思うのです。
横浜前市長が主張したように「保護者は反対のために反対する」なんていうことはあり得ません。そんなに保護者は暇じゃない。保護者をバカにした言い方だと思います。
保護者はとにかく自分の子どもの育ちと生存権に関わる深刻な問題として、やむにやまれず民営化問題に時間を割いている。
けれども、直接かかわりを持たない人達は、「無駄を省く(効率化する)」とか「サービス向上」という一般論でしか向き合おうとしない。そして、なぜ当事者が不安を感じるのかに思いをはせずに「当事者エゴ」として切り捨てていくのです。
しかし、このように当事者の苦しみを傍観者として批判していく動きは、「非当事者エゴ」といえるのではないかと思うのです。そして、自分自身には関係ない問題を突き放し、一般論として当事者を評論・批判しているだけであることを考えると、この非当事者エゴに大きな問題があるように思います。
それは例えば、「生活保護利用者は怠け者」として自己責任論を唱えるのとも同じです。
こうした非当事者エゴに乗っかって、住民同士を分断し、市民が自ら課題解決を図る力を奪っていくのが横浜市や練馬区の事例だと思います。
つまり、民営化の進め方の違いはその自治体の政治の違いだったということなのですが、このことについては次回詳しく書きます。
今回は保育園民営化問題について課題を整理します。
その課題は、
・住民が顧客となることによって、ともに解決を図ることができない。行政が示したメニューを超えて住民が意見を言おうとすると「ご理解を」とのみ言って、ともに考える場が用意されていない。
・保育園を民営化すると経費が削減できるということはすなわち、働く人の条件が悪くなるということなので、保育従事者がワーキングプア化する。
・そもそも、保育はどうあるべきかという検証と目標がないから、経済的効率だけが指標とされてしまっている。
・保育のあるべき姿を考えるという場を設定していないし、そこに市民が参画するしくみもとられていない。
・私が修士論文報告の1回目に書いたような保育を取り巻く環境や財政のことなど、基本となる情報が市民に分かりやすく公表されていない。
ということです。
事例で見ても分かるように、葛飾の場合には理解ある議員さんがいたり、それを受け入れる土壌が区政にあったことによって改善されたし、文京の場合も政治が「凍結」に動いたのだと思います。
政治がひどかった横浜でも、混乱した園とそんなに混乱しなかった園があるようなのですが、それは受託をした法人がどれだけ保護者の声に耳を傾けたかという違いによるようです。
そうなると、たまたま法人が良かったか、その地域の政治が良かったか、という違いで若干の混乱の回避はできたとしても、基本的に既設の保育園の民営化は混乱を伴うという構造的な問題が見えてきます。そのため、
・既設の保育園は民営化しないこと
・公立保育園の果たす役割として、地域の中での子育て支援体制の核となること
・自治体によって公立保育園の果たしてきた役割は違うので(例えば2009年度、練馬区は公立園60園(公設民営園も含む)・私立20園だけれど、多摩市は公立は2園・民間園16園というように地域によって公私の割合が全く違う)、その地域の中での公立保育園の果たしてきた役割を検証する必要がある
・保護者だけではなく、地域の市民がともにより良い保育を作ることができるような情報交換の場を作ることが必要
といった、課題解決の方向性が考えられると思います。
さて、ようやく次回で論文の報告の最終回となります。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
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