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被災地③ 大川小学校

8月27日の早朝、私たちは気仙沼を出発して、次の目的地へと向かいました。石巻市雄勝町へ。

途中、多くの児童が津波の被害に遭った大川小学校を通りました。

ここは、全校児童108人のうち68人が死亡、6人が行方不明となったそうです。地震後、校庭にいて、高い場所へ逃げるのが遅れたそうです。


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学校。



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中はほとんど空っぽで、おそらく校歌が書いてあったと思われる壁の文字も抜け落ちている。


近くに祭壇が置いてあって、行方不明になっている子の親御さんの「見つけてあげられなくてごめん」という手紙が置いてありました。
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被災地でのボランティア②(気仙沼その2)

被災地に同行したボランティアの人たちは、私に声をかけてくれた区民のTさんを除いて初めてお会いしてお話をした方でした。
Eさんは6月くらいから何度も被災地に足を運んで様々な支援活動をしていらっしゃって、Nさんは東京でできる支援を中心にやっていたために今回初めて現地に足を運ぶという方でした。

猪苗代病院で、お2人の活動の話を聞いたり、病院のスタッフの方々と言葉を交わしながら、津波につかってしまった椅子についている丸い金具のさびをこすってさび止めを塗りました。

ようやく終わった頃には、丸いものを見るとすべてにさび止めを塗りたいような心もちになって(^^;)、ふうと一息ついて改めて周囲を見渡すと、なんだか周囲の状況を受け止める私の気持ちが違うのです。

なかなかうまく言葉にできないのですが・・・ただ、足を踏み入れて被災の状況を見て、現地の人達と挨拶を交わしているときと、何時間かそこにいて、椅子をこするという作業の時間をともに過ごしたあととは何かが違う。
「ああ、生活してきた場所が、今まで積み重ねてきた場所が、3月に壊れてしまったのだなあ・・・」ということを、しみじみと実感するというのでしょうか。自分のこととして感じる、というんでしょうか。



猪苗代病院の脇の階段を上がると、「紫神社」があります。そこに紫会館という、近隣の自治会の会館があって、26日の晩はここに泊めさせてもらいました。

一応、議員としてアポをとっていったわけじゃないので、自己紹介するときのために「社会福祉士」とだけ書いた名刺を作って持っていっていました。でも、それじゃあ何の仕事をしているんだか分からないので、結局、名刺交換をした人に「実は議員なんです」と言うはめになりました(笑)


紫会館は災害の後、この地域の避難所となり、多いときは150人くらいの人がそこで生活をしていたそうです。

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自治会の会館だから広いことは広いけど、普通に寝るとしたら2,30人が限界ではないかと思われるような場所です。本当に密集するような形だったのでしょう。


紫会館の避難所のHPがあります。こちら
ここに書いてある様子では、生活している避難者で役割分担をして、毎日を過ごしていたようです。

地元の新聞にも出ていたみたいです。こちら

今ではみんな、仮設住宅に入ったり、自宅を直したりして避難所からは出たそうで、今は自治会の役員の方たちが来て、ボランティアへの対応などをしてくださっている様子。

会館を出たところにはテントが張ってあって、人数が多くなってしまったときにボランティアが泊まれるようなスペースがあったり、お風呂もありました。

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今、紫会館の避難所にかかわっていた方たちは、商店街を復興させるとりくみを始めているそうです。
こちらも最近HPができたようです。こちら

私達が猪苗代病院でのボランティア作業を終えて泊まらせてもらうと決めたときに、「東京から来てくれたから、最近ようやくとれるようになったカツオを食べさせてあげよう」と準備をしてくださったようでした。


皆さん、とても温かくて素敵な人達でした。気仙沼を再び良くするぞ、と活動していらっしゃる。
「前向きに頑張っていらっしゃる」なんていう言い方は、とても大変な思いをされた被災地の方々に対して失礼な言い方かもしれないけど、でもそう言いたくなるような、温かいエネルギーが紫会館にありました。
また会いたい、と思った。
復興商店街のことも、何か手伝えないかなあと思います。

絶対また来たい、という思いを持って、27日の朝は早朝5時過ぎに気仙沼をあとにしました。

※かとうぎ桜子のHPはこちら

被災地でのボランティア①(気仙沼その1)

8月26日、27日に被災地に出かけてきました。8月初旬に議会の視察として行きましたが、今回はボランティアとしてです。

3月の震災以降、何ができるだろうかと悩みつつも、現地に行っての活動などはほとんどできていませんでした。

区民のみなさんに「震災の時に不安に感じたこと」「被災地のために実践していること」についてお聞きするアンケートを配ったり、「議会で視察に行きます」という報告を区民の皆さんにしたりしていましたが、そんな中で、毎週のようにボランティアに出かけているという方と知り合いました。

8月に議会で視察に行く前にもその方にお話を聞いていたのですが、やはり議会の視察だと大人数だし、なかなかじっくり見てこられず、ボランティアとして役に立つこともできなかったので、「これは改めていかなくては」という気持ちになりました。

今回、私は議員としてアポをとって行ったのではなくて、いつもボランティア活動をしている方が信頼関係を持っている場所に連れて行っていただいて、お手伝いをしたり、お話を聞くというスタンスです。

私も含めて4人で車に乗って出かけました。

まず、気仙沼へ。朝出かけて午後3時過ぎに到着しました。

以下が、気仙沼の街の様子です。
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津波の水が襲った建物の室内の様子
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震災が起きた直後には車道も通れないほどだったということですから、それに比べたら整理されてきてはいるということですが、建物はそのままだし、とてもまだ元通りに暮らせる状況ではないですね。

8月に視察に行った時には、石巻の駅からそんなに遠くない地域の一部を見ただけでしたが、本当に広い地域に被害が広がり、とてもじゃないけどもとの生活には程遠いことを改めて感じます。

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おだやかであればきれいな海。でも、逆側に目を転じれば、津波の爪痕が残っています。

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ちょっと分かりにくいですが、写真を拡大してみてください。
真ん中でくねっと曲がって倒れている棒状のものは、街灯です。
奥に見える船着き場の屋根が手前から向こうに向かって傾斜していますが、これはもともとは平らだったものが持ち上がって傾斜してしまっているのです。


海に近い多くの家が2階くらいの高さまで津波の被害を受けて、がらんとしてしまっている中に、猪苗代病院という病院があって、ここで片づけのお手伝いをさせてもらいました。

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手前の建物も被災していますが、その奥に見えるのが病院の入口。さらに奥にある石段を上がると神社がありますが、この日はここに泊めさせてもらいました。


病院も水につかってしまっていたところを、ボランティアで少しずつきれいにしたり、だめになってしまった医療関係の道具を揃えたりしているとのこと。

暑い時期に、網戸も流されてしまってないという状況の中、ボランティアが網戸の木枠を作って張って作ったそうです。私が行った日は、この網戸が長持ちするように、腐食や虫食いを防ぐ塗料を塗りました。

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うつっているのは一緒に行ったうちの一人であるNさん。

それから、院長先生が長く大事に使っていたたくさんの椅子が水につかってしまって金具の部分がさびてしまったということなので、錆をとって錆止めを塗るという作業も。

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作業してるうちに暗くなってしまって、作業後に撮ったので暗くて見えにくいですが、錆止め後の椅子。


到着も遅くなってしまったし、作業をしているうちに夜になってしまったなあ・・・と思っていたら、神社にある自治会の会館で少し前まで避難所をやっていて今は商店街の復興に取り組んでいる方が、「会館に泊まっていけばいいよ」と声をかけてくれたのでした。

その話題はまた次回。

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区政報告会のお知らせ

9月4日(日)午後2時~4時 勤労福祉会館2階会議室(大泉学園駅南口)

少し遅くなりましたが、4月の選挙以降、最初の区政報告会です。

選挙を経ての議会の様子、6月の定例会のこと、9月9日から始まる予定の定例会のことなどをお話できればと思います。

特に、3月の震災については、区民の皆さんも様々な思いをお持ちだろうと思いますので、意見交換したいと考えています。ぜひご参加ください。



明日とあさって、再び被災地に行ってきます。今度は個人で、ボランティアとして。

帰ってきたら、視察だけでは気づくことができなかったこと、ご報告できればと思います。

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中学高校の思い出

私は桐朋女子という、中学高校が一貫の私立の学校に通っていたのですが、中1と高3で担任をしてもらったT先生がご病気で亡くなってしまい、今朝、告別式に行ってきました。

数年前から闘病されているとは伺っていたんですが、54歳ですって。若いですね・・・。

私はいくつかある母校の中でも一番郷愁を感じるというか、好きだなと思うのがこの中学高校なのです。
かといって当時はすごい反抗期だったから先生と仲が良かったわけでもないし、人付き合いが上手なわけでもないから友達が多かったわけでもないし(笑)、たまに同窓会などに行っても、仲間たちとわーと手を取り合って再会を喜ぶほどでもないんですけど(^^;

大人になったって10代のころと頭の中身がそれほど変わるわけでもないけれど、今は「ちぇっ、あの人嫌い」と思っても口にも顔にも出さない程度には大人になったし(笑)、まあほどほどの人付き合いもできるようになりましたが、桐朋に通っていたころはもっと思うままにとげとげしながら生きてたものです。

たとえばホームから電車に乗るときに、おじさんたちが先を争って人を押しのけて自分が座る席を確保しているのを見て、「自分のために人を押しのけるなんて、なんて恥ずかしい大人がいるものかしら」とわざと大声で言ったりとか・・・
間違った行動を指摘すること自体は悪いことではないかもしれないけど、今だったらもっと別な声かけのしかたを考えるだろうと思います。ダメな行動をしている人に批判の言葉を浴びせるだけでは、自分がせいせいするだけで、相手も不愉快な気分になるだけで反省もしないだろうし、全体の課題は解決しないですからね。

まあ、一事が万事で10代の頃はすべてのことになんだか腹を立てて反抗してたなあと思います。学校の先生にも親にも。

あとで思えば「あちゃー・・・」と思うような状態だけど、でもそんな私でも排除されることもなく、なんとなく自然に受け入れてもらえていたような学校の雰囲気が好きだったなあと思い出します。


今回亡くなったT先生にもいつも「プンッ」としてた記憶しかないし・・・。


桐朋女子には学年色というものがあって、入学から卒業まで同じ色がついてまわります。6色が循環している・・・干支みたいなものです。
日常の呼び名も「何年生の人」ではなくて「何色の人」と呼ぶ。部活で後輩が先輩を呼ぶ時も「何色のかた」と呼ぶ。
私の学年色は紫だったので、後輩には「紫のかた」と呼ばれて、なんだか高貴な人のようだなと思った記憶があります。

亡くなった先生は最後は赤の学年にいたそうで、夏休み中だからでしょう、現役の生徒たちも告別式に来ていました。

私は高校時代の友人と待ち合わせていたので、参列者の生徒たちを眺めて、「ここにいる人はだいたいみんな赤なのかなあ」と友人に話しかけました。・・・桐朋の学年色のしくみを知らない人が聞いたら、いったいどういうことだと思う会話ですねぇ(^^;

葬儀の手伝いをしていた人の中に、中3のときの担任のK先生を見つけたので、「先生、紫の卒業生の加藤木です」と話しかけます。

K先生、「僕も、亡くなったT先生にはお世話になったんだよ・・・子どもたちを連れて合宿に行って、子ども達が僕によじ登ってきたために僕が怪我をしてしまったことがあったんだ。その時にT先生は代わりに僕の荷物を持ってくれた。
それに、子どもたちを連れて山登りに行ったら体調を崩した子が出たときにも、T先生にその子を背負って降りてもらったり・・・。」

なんだ、担いでもらった記憶ばかりだなあ、と思って聞いていると、

「君たちは独身なのか。そうかやっぱり。うちの卒業生は独身が多いねぇ。結婚しても離婚したりねぇ・・・」としみじみK先生。

うーむ、ずいぶんユニークな先生に囲まれて中高時代を過ごしていたんだなあと再認識して帰ってきました。


桐朋に最後に行ったのは教育実習をしに行ったときなので、もう10年くらい前。

気になりながら会えなかった人に再会できて、昔を思い出すことができたけど、それがお葬式の場というのは残念。

桐朋に通っていたころに毎日の生活の様子を話していた私の母もすでに亡くなってしまったし、「T先生が亡くなっちゃったよ」「K先生に会ってきたよ」と報告してわかってもらえる人もいないんだなあとしみじみ。(反抗期だったので当時は父とは口をきいておらず、父は先生の名前くらいしか知らないので。)

毎年のように親しい人の中から誰か亡くなってしまうし、だんだん、親しい人もいなくなってしまうんだなあと思うと、淋しいですね。

視察2日目(石巻市)


視察2日目の報告が遅くなりました。

ふだん、議会の委員会で視察に行く時(常任委員会の視察は毎年10月末に行きます)は、視察先の議会のことを聞いたり、行政から説明をしていただいたりします。

今回も亘理町の視察では、町役場の方からお話を聞きましたが、2日目の石巻市は現地の状況を見るにとどめるという形でした。

石巻市のHPによると、石巻市は2月の段階で人口が16万2千822人、面積は555.78K㎡。
死者3153人、行方不明者890人(8月9日現在)。
避難所にいる避難者は7月30日の段階で3356人(74施設)。

練馬区の面積が48.16k㎡ですから、市の面積がとても大きいし、そして被害も大きかったといえると思います。

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(日和山公園から)

日和山公園というところにのぼると、海や街全体が見渡せます。震災が起きるまでは良い景色を見るための場所だったのでしょうが、今は津波の被害を見ることができる状態です。

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ここで全体を見渡したあとに、被害の大きかった地域に入りました。

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(日和山公園の上から見た、瓦礫の山)

小型のバスで移動していたのですが、運転手さんは現地の人で、「4,5月くらいはもっとひどかった。魚が瓦礫の下に入ってしまっていたので、ハエもたくさん出てしまう状態だったけど、最近は随分良くなった」とおっしゃっていました。

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(バスの窓から見た車の山)

たしかに、かなり早い段階で被災地に入った方達から見せていただいた写真だと、本当に街の中がすべて瓦礫のような状態でしたが、今はある程度、置く場所に集められている印象です。

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(被害の大きかった地域)

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(崩れずにいた建物)

ただ、集めた後にこれからどうするんだ、この大きな山を・・・と思うと、気が遠くなるような段階ではありますが。

多くの家が家ごと流されている中で、ぽつんぽつんと建物が残っています。

遠くから見るとふつうに建っているように見えて、近づくと窓もないし家具もない。中はからっぽになっている。
これもまた、ドキッとするものでした。


これから、被災地ではない場所に暮らす私たちに何ができるのか・・・

亘理町でお話を伺った時、町の職員の方が、「今までは泥かきや瓦礫を取るようなこともボランティアが関わっていたけれど、これからは、仮設住宅に入ったご高齢の方とお話をする機会を作ることなどが必要になってくるのではないか」とおっしゃっていました。

だんだんニーズも変わってくるのだと思います。

今回の視察では状況を見てくるだけで精いっぱいだったので、もっと具体的に関わりようがあるのかどうか、現地で動いている方のお話を聞くために、近いうち(今月末)にまた被災地に行くことになりました。
今度は個人としてです。ひょんなことで急に決まりました(^^;

何度か足を運ぶ中で、「何かしたいけど、どうしよう」と思っている区民の皆さんとの支援活動につなげていきたいと思っています。

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視察1日目(宮城県亘理町)

改めまして、ブログの更新が1ヶ月も滞り、すみませんでした。
暑さのせいなのか何かわかりませんが、なんだか体調が悪くて、粛々、黙々と、目の前にある相談に対応したり作業をするので精一杯な感じでした。

さて、今日と明日は視察で宮城県に来ています。

今日(8月8日)は亘理町に行ってきましたので、その報告を書きます。

亘理町には、練馬区の職員を派遣していたという縁があります。

庁舎は地震の被害を受け、使える状態ではないので、隣にプレハブを建てて業務をしています。
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同じ町でも海沿いと少し奥とは様子が全然違っていました。海に近い家は土台を残して家が消滅しているところも多く、海には見上げるほどの瓦礫の山が積み上げられていました。

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うずたかい瓦礫を目の前にするとしみじみ、「いったいどこから手をつけたらいいんだろう」と思いますね。

亘理町では避難所はすべて終了し、被災した方々は今では仮設住宅やアパートに入っているそうです。

支援物資はたくさん体育館に集まっていたので、これから季節が移り変わるなかで、どう届けていくかも課題なんだろうなと思いました。

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それから、集団でバスで移動しているため個別にあまりゆっくり話を聞く時間をもてませんでしたが、

・災害ボランティアセンターは今週いっぱいで閉めて、今後は違う形態にしていくらしいけれど、「この町は一度ボランティアに来てくれた人が再び訪ねてくれることが多い」とおっしゃっていた方がいたこと。それをずっと引き継いでいけるといいですよね。
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・町の災害ラジオ(FM)があって、毎日放送しているそうです。これはボランティアが運営しているそうで、「やろうよ!」と呼びかけたのもボランティアの立場にある方だったらしいこと。
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が見えてきました。

どこから手をつけていったらいいかわからないほどの状況の中で、立ち上がり動き始める「一人の人の行動」から学ぶべきことがきっとあるんだろうと思います。

今日だけでは伺えなかった話を今後聞く機会を持てたらと思っています。


明日の視察は石巻市。ここは話を聞くというよりも状況を見てくることになる予定です。



私自身は、3月以降、今までのところ、被災地のために、募金活動以外のことはやっていませんでした。

あまりにも甚大な被害のあった災害で、東京に住まう私たち自身も人生観、価値観を問われるような状況でした。そんな中で、「なにか動きたい」と、あせるような気持ちは私も持ってはいました。
ただ、私は生まれてから今までほとんど東北に行ったこともなく、知り合いや親しい活動団体もあるわけではなかったので、すぐに私が東北のために役立つ術を見つけられなかったのです。

私は今までの東北のことを何も知らなかったくせに、震災が起きてあわてて動くことは、被災地のためというよりもむしろ、「なにかしなくちゃ不安になってしまう」という自分の気持ちを満たすためにしかならないような気がしてしまったのです。

一方で「震災関連の募金が集まることによって、震災以外の活動団体に寄付が集まらなくなってしまった」といわれていたから、当面、私はむしろ、たとえばビッグイシュー(路上生活者が販売している雑誌。売り上げの一部が販売者の収入になる)を今まで以上に積極的に買うとか、被災地支援とは違う形での社会とのつながりをしてきました。

東北の被災地の支援は、もっと長期的な視点でやっていきたいなと。


でも、今まで知らなかった地域のことを知るための最初の一歩を踏み出すのもとても大切なことで、今回の視察はたぶんその一歩になるような気がしています。

私の周りにも、もっと何か具体的な支援をしたいと思いながら、とっかかりが見つからない区民の方もたくさんいらっしゃるから、これから一緒に、支援に加わる活動を始めたいなと思っています。


そんな思いが具体化したら、ブログにも書きますね。

※かとうぎ桜子のHPはこちら

視察に行ってきます

長いこと、ブログの更新ができませんでした。あまり長く更新しないと、トップに広告が載ってしまうので(^^;)、ひとまず急いで更新しました。

明日、明後日と、災害対策等特別委員会で宮城県亘理町・石巻市に視察に行ってきます。
1泊で視察となると、本当に短い時間になってしまいますが、今後被災地のために私たちになにができるか、今後にどう生かすか、しっかり考えてきたいと思います。

Appendix

桜子のツイッター

プロフィール

かとうぎ桜子

Author:かとうぎ桜子
1980年生まれ。

保育士、ヘルパー2級、社会福祉士の資格を使って福祉の仕事をしてきました。
制度だけでは一人ひとりが安心して生活するまちを作るには不十分だと考え、誰もが安心できるまちのしくみ作りをしていきたいと考えています。

2007年4月の統一地方選で練馬区議会議員に初当選。

2010年3月、「市民参加と公共性―保育園民営化を契機として」と題する修士論文を書き、立教大学大学院・21世紀社会デザイン研究科を修了。

2011年4月 無所属で2期目に当選。

2011年末に子宮頸がんが見つかり、2012年春に円錐切除の手術をしました。その後は今のところ再発もなく元気に仕事しています。
この経験を活かし、がん検診の啓発など健康に関する課題にも取り組んでいこうとしています。

2015年4月、3期目に当選。

会派は市民ふくしフォーラム。

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