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依存症などの問題と居場所づくりについて
生活保護をバッシングする声の中に、「生活保護を受けていながら、仕事もせずにパチンコをしている人がいる」というものがあります。今日のブログではこの問題について書きたいと思います。
①叩く側のとらえ方の問題
まず、そもそも私たちは、自分の知っている人の中に何人、生活保護の受給者と判明している人がいるかということを改めて考えてみる必要があると思います。
生活保護を受けている人の多くは、生活保護で暮らしているのは本意でないと思いながら生活しており、あまり周囲にそのことを言わないと思います。
だから、私たちの周りには、私たちが「この人は生活保護を受けている」と把握している以上に実はもっとたくさん生活保護を受けている人がいて、そういう人たちは目立たないから気づかないだけです。(なにせ、全国で208万人いるわけですから、本当はすぐ身近にいると考えて間違いないでしょう。)
だから、たまたま知っている1人、2人がパチンコをしていたからといって、それがあたかも生活保護全体の問題であるかのようにとらえるのは間違っていると私は思います。
②自分の生活の管理のしかたとギャンブル依存症の問題
たとえ生活保護を受けながらパチンコをしている人がいたとして、この人は、働かなくてもお金が入るからパチンコをする、だから生活保護を切ればしゃきっと仕事を始めるか、というとこれは違うと思います。
お金と時間があるからという理由だけでパチンコをやるわけではない―。
まずひとつにはなんらかの理由(たとえば障害があるのにそれに応じた適切な教育環境になかったとか、親や周りの大人が生活の適切な管理のしかたを教えてくれる環境になかったとか)によって、1ヶ月・1年・一生という目安をもってお金を使ったり生活の設計を立てるという技術を身につけられていないという人も中にはいます。
そしてまた、まだまだ理解が広がらないのが「依存症」の問題だと思います。
アルコール依存症については、「本人の努力だけでなく、適切なケアがなければ克服が難しい」という理解は広がってきていると思いますが、一般的に依存症の実態の理解はまだまだ十分ではないと思います。
ギャンブル依存、アルコール依存、薬物依存、性依存など、様々な依存症がありますが、本人の自己責任ととらえられがち。
たとえば薬物依存については、取り締まりの対象として、使った人は悪者として認識され、更生のためのケアと社会の理解が不十分であるとも言われています。
過酷な人生を送ってきた人にとって、何か心のよりどころになるものがなければ生きていけない。健全な形の「居場所」が見つかればいいけれども、そうでなかった場合には何かに依存しなければ心が壊れてしまう。
そういう中で起きるのが「依存症」です。
DVや虐待の問題も、相手との対等で健全な関係が築けずに不健全な依存の関係に陥るために起きると考えられると思います。
依存する人を悪者にするのではなくて、なぜ依存するに至ったかを理解して、依存状態からの脱却と健全な関係性をつくる支援が必要です。
パチンコなどのギャンブルへの依存も同様です。
だから、「生活保護でパチンコをするなんて悪いやつだ、パチンコに使うお金を与えなければいいんだ」というだけではその人の人生は立て直すことができないので、依存に対する正しい理解と克服のための適切な支援をする必要があります。
③居場所づくり
ギャンブル依存とまではいかなくても、パチンコ屋はある種の「居場所」になっているのではないかと感じることがあります。
生活保護とはまったく関係ない話ですが、私が喫茶店とか飲み屋に行って、他のお客さんの会話を聞いていると、パチンコの話をしている人は結構たくさんいます。
パチンコが趣味の人が多いんだなあと思います。
それで、何が楽しいのかなあ・・・と、さらに話を聞いてみると、どうやらパチンコそのものの面白さ以外に、だんだん顔見知りが増えてくる面白さも感じているようです。
たとえ会話をすることはなくても、いつも同じ時間に同じ人がいて、パチンコをするときのそれぞれの癖もだんだん見えてくる。そして、その中に自分が座る場所もあるという居心地の良さ。
また、喫茶店とか飲み屋とかに行ったときにも、パチンコを通して他の人と共通の話題を持てるということ。
それがある種の魅力なのではないかと感じました。
依存しない程度に趣味として、そういう楽しみ方をするのは一つの選択かなとは思うのですが、使い方を間違えるとそこが唯一の「自分がいても良い居場所」になってしまうおそれもあるだろうと思います。
だから、生活保護を受けている人や、非正規で厳しい生活をしている人、また逆に仕事がとても忙しくて趣味を楽しむ時間があまりない人などが、パチンコ屋以外に、「ここは自分が来ても良くて、けっこう居心地が良いな」と思える居場所を作るということも大切なことではないかと思います。
この数回にわたって、ブログで貧困問題について取り上げてきました。
・災害時の日雇い労働者のこと
・生活費の貸付制度と連帯保証人の問題
・住まいのセーフティネットの問題
・非正規労働者が増え続けているという課題
・子どもの貧困問題
貧困問題、生活保護のことなどを議論する中で感じるのは、「福祉を利用する人は、利用していない人と比べたら悪い状態の生活をしている限りにおいて許される」と考えている人がいるということです。
これは「劣等処遇」という考えですが、福祉を利用する人を自分とは違う一段低い人間と見る、差別意識であるといえます。
そして一番怖いのは、この差別意識を持っている人たちが、自分の持つ感情を「差別意識である」と気づいていないことです。
今現在、どんな状況に置かれている人であっても、「この世に生まれてきた一人の人間の価値として、私より高い人も、私より低い人もいないんだ」という認識を広めていかなければ、社会はどんどん、ぎすぎすした、豊かさに欠けるものになってしまいます。
ぜひ、そんな視点から、今後も皆さんとともに貧困問題、福祉のあり方について考えていければと思います。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
①叩く側のとらえ方の問題
まず、そもそも私たちは、自分の知っている人の中に何人、生活保護の受給者と判明している人がいるかということを改めて考えてみる必要があると思います。
生活保護を受けている人の多くは、生活保護で暮らしているのは本意でないと思いながら生活しており、あまり周囲にそのことを言わないと思います。
だから、私たちの周りには、私たちが「この人は生活保護を受けている」と把握している以上に実はもっとたくさん生活保護を受けている人がいて、そういう人たちは目立たないから気づかないだけです。(なにせ、全国で208万人いるわけですから、本当はすぐ身近にいると考えて間違いないでしょう。)
だから、たまたま知っている1人、2人がパチンコをしていたからといって、それがあたかも生活保護全体の問題であるかのようにとらえるのは間違っていると私は思います。
②自分の生活の管理のしかたとギャンブル依存症の問題
たとえ生活保護を受けながらパチンコをしている人がいたとして、この人は、働かなくてもお金が入るからパチンコをする、だから生活保護を切ればしゃきっと仕事を始めるか、というとこれは違うと思います。
お金と時間があるからという理由だけでパチンコをやるわけではない―。
まずひとつにはなんらかの理由(たとえば障害があるのにそれに応じた適切な教育環境になかったとか、親や周りの大人が生活の適切な管理のしかたを教えてくれる環境になかったとか)によって、1ヶ月・1年・一生という目安をもってお金を使ったり生活の設計を立てるという技術を身につけられていないという人も中にはいます。
そしてまた、まだまだ理解が広がらないのが「依存症」の問題だと思います。
アルコール依存症については、「本人の努力だけでなく、適切なケアがなければ克服が難しい」という理解は広がってきていると思いますが、一般的に依存症の実態の理解はまだまだ十分ではないと思います。
ギャンブル依存、アルコール依存、薬物依存、性依存など、様々な依存症がありますが、本人の自己責任ととらえられがち。
たとえば薬物依存については、取り締まりの対象として、使った人は悪者として認識され、更生のためのケアと社会の理解が不十分であるとも言われています。
過酷な人生を送ってきた人にとって、何か心のよりどころになるものがなければ生きていけない。健全な形の「居場所」が見つかればいいけれども、そうでなかった場合には何かに依存しなければ心が壊れてしまう。
そういう中で起きるのが「依存症」です。
DVや虐待の問題も、相手との対等で健全な関係が築けずに不健全な依存の関係に陥るために起きると考えられると思います。
依存する人を悪者にするのではなくて、なぜ依存するに至ったかを理解して、依存状態からの脱却と健全な関係性をつくる支援が必要です。
パチンコなどのギャンブルへの依存も同様です。
だから、「生活保護でパチンコをするなんて悪いやつだ、パチンコに使うお金を与えなければいいんだ」というだけではその人の人生は立て直すことができないので、依存に対する正しい理解と克服のための適切な支援をする必要があります。
③居場所づくり
ギャンブル依存とまではいかなくても、パチンコ屋はある種の「居場所」になっているのではないかと感じることがあります。
生活保護とはまったく関係ない話ですが、私が喫茶店とか飲み屋に行って、他のお客さんの会話を聞いていると、パチンコの話をしている人は結構たくさんいます。
パチンコが趣味の人が多いんだなあと思います。
それで、何が楽しいのかなあ・・・と、さらに話を聞いてみると、どうやらパチンコそのものの面白さ以外に、だんだん顔見知りが増えてくる面白さも感じているようです。
たとえ会話をすることはなくても、いつも同じ時間に同じ人がいて、パチンコをするときのそれぞれの癖もだんだん見えてくる。そして、その中に自分が座る場所もあるという居心地の良さ。
また、喫茶店とか飲み屋とかに行ったときにも、パチンコを通して他の人と共通の話題を持てるということ。
それがある種の魅力なのではないかと感じました。
依存しない程度に趣味として、そういう楽しみ方をするのは一つの選択かなとは思うのですが、使い方を間違えるとそこが唯一の「自分がいても良い居場所」になってしまうおそれもあるだろうと思います。
だから、生活保護を受けている人や、非正規で厳しい生活をしている人、また逆に仕事がとても忙しくて趣味を楽しむ時間があまりない人などが、パチンコ屋以外に、「ここは自分が来ても良くて、けっこう居心地が良いな」と思える居場所を作るということも大切なことではないかと思います。
この数回にわたって、ブログで貧困問題について取り上げてきました。
・災害時の日雇い労働者のこと
・生活費の貸付制度と連帯保証人の問題
・住まいのセーフティネットの問題
・非正規労働者が増え続けているという課題
・子どもの貧困問題
貧困問題、生活保護のことなどを議論する中で感じるのは、「福祉を利用する人は、利用していない人と比べたら悪い状態の生活をしている限りにおいて許される」と考えている人がいるということです。
これは「劣等処遇」という考えですが、福祉を利用する人を自分とは違う一段低い人間と見る、差別意識であるといえます。
そして一番怖いのは、この差別意識を持っている人たちが、自分の持つ感情を「差別意識である」と気づいていないことです。
今現在、どんな状況に置かれている人であっても、「この世に生まれてきた一人の人間の価値として、私より高い人も、私より低い人もいないんだ」という認識を広めていかなければ、社会はどんどん、ぎすぎすした、豊かさに欠けるものになってしまいます。
ぜひ、そんな視点から、今後も皆さんとともに貧困問題、福祉のあり方について考えていければと思います。
※かとうぎ桜子のHPはこちら
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子どもの貧困問題が、大人の貧困へつながる
生活保護・貧困状態にある人は「努力が足りない」と叩かれることがよくあります。でも本当にそうでしょうか。
生まれて育ち生活する環境や教育環境がまったく同じ状態であるならばともかく、多くの場合スタートラインが違うのです。
「よくわかる公的扶助」という本に掲載されていた資料をこちらに載せました。
たとえば「朝食をたまにとらない」「ほとんどとらない」という割合は、親の年収が400万円以下の子どもが全体の平均を上回っている。
また、「習い事をさせている」「塾・家庭教師を利用している」「学校の成績ができるほう」の割合についても、親の年収の高さに比例している。
子どもは生まれる環境を選べるわけではないから、どんな教育を受けるかも自分では選べないけれど、時間がたてば子どもは大人になり、そして「努力が足りない」と言われるようになる理不尽さを、私たちは考えなければなりません。
高校の社会科の講師であり、スクールソーシャルワーカーである「たぬきの凡太」さんが、子どもたちの実態についてメールをくださいました。
ぜひ皆さんに読んでいただきたいと考えて、公表できるようにリライトしていただきました。
以下に、凡太さんの文章を載せます。
------------
「たぬきが会った生徒たち」
僕の出会った生徒たちについて話しましょう。多くの生徒は、とりあえず、「高卒の資格がほしい」という気持ちで来ているようでした。だから、ある意味、割り切っていてドライな印象でした。
その中で1クラスに何人か、何のために学校に来ているのだろうと首をかしげたくなるような生徒がいました。
彼ら、彼女らは、生育歴の中で親に愛された経験がなかったり、小中学校時代に、家庭の養育不十分やいじめ、学校での不適切なかかわり、発達障害などで「いい思い」をした経験がない子たちです。だから簡単に不登校傾向になります。
生徒たちは、学校に在籍するものの、女子ならば、幼い弟妹の母親替わり、「児童ケアラー」となり、自己実現を諦めてしまう生徒もいます。
男子ならば、アルバイトで一家を支えなければならない生徒もいます。
この子たちは「生きること」に対しては比較的に真面目です。
しかし、人間はみんな「弱い」から、道からそれてしまう子もいます。
彼ら彼女らは、ふだんは身の上話はしません。人前で泣いたり、怒ったり、感情を表にだすのは「ダサい」と考えているのかもしれません。
ある年、教科書もノートも持って来ずに、足投げ出して一時間中、後ろのやつと話している男子を叱ったら、「知らねえし」というから、僕もムカついて本気(マジ!)怒鳴ったら、次の授業から出て来なくなってしまった。弱いというより、か細いんだ。
とうとうその学期はほとんど来なかった。
次の学期になって、クラスの誰かから「おい、タヌキはいいやつだぞ」とでも聞いたのか、ポツポツと来るようになった。「先生、俺この教室にいていいのか?」と聞いてきたから、「当たり前だろ?」と。居場所がないんだなと思った。
なんだか「知らねえし」がかわいく思えてきた。「授業の邪魔はするな」「うん!」
「読み書き算盤だけでは計れない人間力 」
生きていくためのスキルや倫理観の習得は、言語や記号だけでは計れない。例えば、人間のコミュニケーションのうち70%以上は、非言語コミュニケーションだと言われています。だから、僕は授業の中で、アニメーションやドキュメンタリー、映画などのDVDをふんだんに使います。時には漫画なども手作り教材に使います。資史料は必ず音読します。歴史の授業では、冒頭に、サルが木から飛びおり、二本脚で歩き、道具を手に入れ、ホモサピエンスに至るまでの無言劇を、教壇を舞台に僕が演じてみます。
『風の谷のナウシカ』、『平成たぬき合戦ぽんぽこ』、『ゴジラ』、『風が吹くとき』、『アフガンに命の水を』、『アミスタッド』、『ダンス・ウィズ・ウルブス』などのDVD鑑賞を通じて生命倫理、環境倫理や異文化への共感を感じ取り、考えてもらい、感想文を書かせる。短く拙い感想の中にキラリと光ったところを取り上げて、みんなの前で褒める。誰が書いたかは言いません。「目立つこと」を嫌いますから。でも自分が書いたことはわかります。
「すげぇ!きれいだ。緑になった。水ってすげぇよ」。『アフガンに命の水を』を見ていて、例の「知らねえし」君が思わず漏らした一言。
プリントには、ちょっと難しい言葉は全部ルビを付け、音読します。必ず側についていて、小声で、訂正したり、「良く読めた!」と褒めたり。音読はクラスの中でも、授業に入らない子に割り振ります。教科書が「読めた!」例え教師の「介助」を受けても「読めた!」という感じが大事だと考えています。
そうして力をつけて、「病院廃止問題」などの難しい新聞記事に挑戦する。こちらからは「もし君たちの近くの総合病院がなくなったらどう?」と公共性に感心を向けさせます。
ある日の授業で、宗教改革をやった。「カルヴァン派の教会」という絵を見せたら、「先生、見てみろよ、この教室と似てないか」と。ヘルニアが痛くて横に寝そべって聞いているやつ、飯食いながら聞いているやつ、お菓子食べながらの女子。勝手なおしゃべりをしているやつ。バラバラなんだけど教室を見回すと、何だか妙に和んだ空気が流れている。生徒は聞くともなしに聞いている。
よく騒いでいた女子の一人が、「先生の側にいれば安心だと思ったんだよ」と話してくれた。コレって何なのだろう?「自分は排除されてない」ってこと?だとしたら、この子たちにそう言わせるこの社会っていったい何なのだろう?
「奮闘努力の甲斐もなく、中退・不登校になってしまったら…」
『高校中退』の著者で、埼玉大学の青砥恭先生が立ち上げたような、地域のネットワーク力を彼ら彼女らの自己実現のための「セーフティーネット」にするしかないと思います。
自治体は、「地域百年の計」の観点から、こうした試みに予算をつけるべきだと思います。
誰でも老後は、人から優しくされたいと思うはずです。私たちがどう考えようが将来、地域の担い手となり、社会的介護の担い手となるのは、まさにこの子たち。だから、豊かな人間性を育んでほしいと思うわけです。
たぬきの凡太
(社会科講師・スクールソーシャルワーカー )
生まれて育ち生活する環境や教育環境がまったく同じ状態であるならばともかく、多くの場合スタートラインが違うのです。
「よくわかる公的扶助」という本に掲載されていた資料をこちらに載せました。
たとえば「朝食をたまにとらない」「ほとんどとらない」という割合は、親の年収が400万円以下の子どもが全体の平均を上回っている。
また、「習い事をさせている」「塾・家庭教師を利用している」「学校の成績ができるほう」の割合についても、親の年収の高さに比例している。
子どもは生まれる環境を選べるわけではないから、どんな教育を受けるかも自分では選べないけれど、時間がたてば子どもは大人になり、そして「努力が足りない」と言われるようになる理不尽さを、私たちは考えなければなりません。
高校の社会科の講師であり、スクールソーシャルワーカーである「たぬきの凡太」さんが、子どもたちの実態についてメールをくださいました。
ぜひ皆さんに読んでいただきたいと考えて、公表できるようにリライトしていただきました。
以下に、凡太さんの文章を載せます。
------------
「たぬきが会った生徒たち」
僕の出会った生徒たちについて話しましょう。多くの生徒は、とりあえず、「高卒の資格がほしい」という気持ちで来ているようでした。だから、ある意味、割り切っていてドライな印象でした。
その中で1クラスに何人か、何のために学校に来ているのだろうと首をかしげたくなるような生徒がいました。
彼ら、彼女らは、生育歴の中で親に愛された経験がなかったり、小中学校時代に、家庭の養育不十分やいじめ、学校での不適切なかかわり、発達障害などで「いい思い」をした経験がない子たちです。だから簡単に不登校傾向になります。
生徒たちは、学校に在籍するものの、女子ならば、幼い弟妹の母親替わり、「児童ケアラー」となり、自己実現を諦めてしまう生徒もいます。
男子ならば、アルバイトで一家を支えなければならない生徒もいます。
この子たちは「生きること」に対しては比較的に真面目です。
しかし、人間はみんな「弱い」から、道からそれてしまう子もいます。
彼ら彼女らは、ふだんは身の上話はしません。人前で泣いたり、怒ったり、感情を表にだすのは「ダサい」と考えているのかもしれません。
ある年、教科書もノートも持って来ずに、足投げ出して一時間中、後ろのやつと話している男子を叱ったら、「知らねえし」というから、僕もムカついて本気(マジ!)怒鳴ったら、次の授業から出て来なくなってしまった。弱いというより、か細いんだ。
とうとうその学期はほとんど来なかった。
次の学期になって、クラスの誰かから「おい、タヌキはいいやつだぞ」とでも聞いたのか、ポツポツと来るようになった。「先生、俺この教室にいていいのか?」と聞いてきたから、「当たり前だろ?」と。居場所がないんだなと思った。
なんだか「知らねえし」がかわいく思えてきた。「授業の邪魔はするな」「うん!」
「読み書き算盤だけでは計れない人間力 」
生きていくためのスキルや倫理観の習得は、言語や記号だけでは計れない。例えば、人間のコミュニケーションのうち70%以上は、非言語コミュニケーションだと言われています。だから、僕は授業の中で、アニメーションやドキュメンタリー、映画などのDVDをふんだんに使います。時には漫画なども手作り教材に使います。資史料は必ず音読します。歴史の授業では、冒頭に、サルが木から飛びおり、二本脚で歩き、道具を手に入れ、ホモサピエンスに至るまでの無言劇を、教壇を舞台に僕が演じてみます。
『風の谷のナウシカ』、『平成たぬき合戦ぽんぽこ』、『ゴジラ』、『風が吹くとき』、『アフガンに命の水を』、『アミスタッド』、『ダンス・ウィズ・ウルブス』などのDVD鑑賞を通じて生命倫理、環境倫理や異文化への共感を感じ取り、考えてもらい、感想文を書かせる。短く拙い感想の中にキラリと光ったところを取り上げて、みんなの前で褒める。誰が書いたかは言いません。「目立つこと」を嫌いますから。でも自分が書いたことはわかります。
「すげぇ!きれいだ。緑になった。水ってすげぇよ」。『アフガンに命の水を』を見ていて、例の「知らねえし」君が思わず漏らした一言。
プリントには、ちょっと難しい言葉は全部ルビを付け、音読します。必ず側についていて、小声で、訂正したり、「良く読めた!」と褒めたり。音読はクラスの中でも、授業に入らない子に割り振ります。教科書が「読めた!」例え教師の「介助」を受けても「読めた!」という感じが大事だと考えています。
そうして力をつけて、「病院廃止問題」などの難しい新聞記事に挑戦する。こちらからは「もし君たちの近くの総合病院がなくなったらどう?」と公共性に感心を向けさせます。
ある日の授業で、宗教改革をやった。「カルヴァン派の教会」という絵を見せたら、「先生、見てみろよ、この教室と似てないか」と。ヘルニアが痛くて横に寝そべって聞いているやつ、飯食いながら聞いているやつ、お菓子食べながらの女子。勝手なおしゃべりをしているやつ。バラバラなんだけど教室を見回すと、何だか妙に和んだ空気が流れている。生徒は聞くともなしに聞いている。
よく騒いでいた女子の一人が、「先生の側にいれば安心だと思ったんだよ」と話してくれた。コレって何なのだろう?「自分は排除されてない」ってこと?だとしたら、この子たちにそう言わせるこの社会っていったい何なのだろう?
「奮闘努力の甲斐もなく、中退・不登校になってしまったら…」
『高校中退』の著者で、埼玉大学の青砥恭先生が立ち上げたような、地域のネットワーク力を彼ら彼女らの自己実現のための「セーフティーネット」にするしかないと思います。
自治体は、「地域百年の計」の観点から、こうした試みに予算をつけるべきだと思います。
誰でも老後は、人から優しくされたいと思うはずです。私たちがどう考えようが将来、地域の担い手となり、社会的介護の担い手となるのは、まさにこの子たち。だから、豊かな人間性を育んでほしいと思うわけです。
たぬきの凡太
(社会科講師・スクールソーシャルワーカー )
増え続ける非正規-労働力調査の結果から
2月20日、労働力調査の2011年の平均が公表されました。
今回は、岩手・宮城・福島を除くというものです。
この概要版を見ると、2011年平均の雇用者4918万人のうち正規職員・従業員は3185万人。一方で非正規の職員・従業員は1733万人。雇用者に占める非正規の割合は、35.2%。
男女別で見ると、男性の非正規率は19.9%、女性はなんと54.7%です。
働く女性の半数以上が非正規ということですね・・・。
非正規は、ふだんの身分の不安定さはもちろんのこと、いざというときのセーフティネットにも問題があると思います。
たとえば、がんで手術・療養が必要になった場合、正規の仕事であれば休業・治療後の復職が可能になると思いますが、非正規ではそうはいきません。
また、これだけ正規職員が減っている状況では、正規であっても事実上、「働けないなら辞めてくれ」と言われることもあるかもしれません。
お給料の面だけではなく、いざというときの安心という点でも、働いている人の中にも貧困問題が広がっているといえると思います。
今回は、岩手・宮城・福島を除くというものです。
この概要版を見ると、2011年平均の雇用者4918万人のうち正規職員・従業員は3185万人。一方で非正規の職員・従業員は1733万人。雇用者に占める非正規の割合は、35.2%。
男女別で見ると、男性の非正規率は19.9%、女性はなんと54.7%です。
働く女性の半数以上が非正規ということですね・・・。
非正規は、ふだんの身分の不安定さはもちろんのこと、いざというときのセーフティネットにも問題があると思います。
たとえば、がんで手術・療養が必要になった場合、正規の仕事であれば休業・治療後の復職が可能になると思いますが、非正規ではそうはいきません。
また、これだけ正規職員が減っている状況では、正規であっても事実上、「働けないなら辞めてくれ」と言われることもあるかもしれません。
お給料の面だけではなく、いざというときの安心という点でも、働いている人の中にも貧困問題が広がっているといえると思います。