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子どもの貧困問題が、大人の貧困へつながる
生活保護・貧困状態にある人は「努力が足りない」と叩かれることがよくあります。でも本当にそうでしょうか。
生まれて育ち生活する環境や教育環境がまったく同じ状態であるならばともかく、多くの場合スタートラインが違うのです。
「よくわかる公的扶助」という本に掲載されていた資料をこちらに載せました。
たとえば「朝食をたまにとらない」「ほとんどとらない」という割合は、親の年収が400万円以下の子どもが全体の平均を上回っている。
また、「習い事をさせている」「塾・家庭教師を利用している」「学校の成績ができるほう」の割合についても、親の年収の高さに比例している。
子どもは生まれる環境を選べるわけではないから、どんな教育を受けるかも自分では選べないけれど、時間がたてば子どもは大人になり、そして「努力が足りない」と言われるようになる理不尽さを、私たちは考えなければなりません。
高校の社会科の講師であり、スクールソーシャルワーカーである「たぬきの凡太」さんが、子どもたちの実態についてメールをくださいました。
ぜひ皆さんに読んでいただきたいと考えて、公表できるようにリライトしていただきました。
以下に、凡太さんの文章を載せます。
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「たぬきが会った生徒たち」
僕の出会った生徒たちについて話しましょう。多くの生徒は、とりあえず、「高卒の資格がほしい」という気持ちで来ているようでした。だから、ある意味、割り切っていてドライな印象でした。
その中で1クラスに何人か、何のために学校に来ているのだろうと首をかしげたくなるような生徒がいました。
彼ら、彼女らは、生育歴の中で親に愛された経験がなかったり、小中学校時代に、家庭の養育不十分やいじめ、学校での不適切なかかわり、発達障害などで「いい思い」をした経験がない子たちです。だから簡単に不登校傾向になります。
生徒たちは、学校に在籍するものの、女子ならば、幼い弟妹の母親替わり、「児童ケアラー」となり、自己実現を諦めてしまう生徒もいます。
男子ならば、アルバイトで一家を支えなければならない生徒もいます。
この子たちは「生きること」に対しては比較的に真面目です。
しかし、人間はみんな「弱い」から、道からそれてしまう子もいます。
彼ら彼女らは、ふだんは身の上話はしません。人前で泣いたり、怒ったり、感情を表にだすのは「ダサい」と考えているのかもしれません。
ある年、教科書もノートも持って来ずに、足投げ出して一時間中、後ろのやつと話している男子を叱ったら、「知らねえし」というから、僕もムカついて本気(マジ!)怒鳴ったら、次の授業から出て来なくなってしまった。弱いというより、か細いんだ。
とうとうその学期はほとんど来なかった。
次の学期になって、クラスの誰かから「おい、タヌキはいいやつだぞ」とでも聞いたのか、ポツポツと来るようになった。「先生、俺この教室にいていいのか?」と聞いてきたから、「当たり前だろ?」と。居場所がないんだなと思った。
なんだか「知らねえし」がかわいく思えてきた。「授業の邪魔はするな」「うん!」
「読み書き算盤だけでは計れない人間力 」
生きていくためのスキルや倫理観の習得は、言語や記号だけでは計れない。例えば、人間のコミュニケーションのうち70%以上は、非言語コミュニケーションだと言われています。だから、僕は授業の中で、アニメーションやドキュメンタリー、映画などのDVDをふんだんに使います。時には漫画なども手作り教材に使います。資史料は必ず音読します。歴史の授業では、冒頭に、サルが木から飛びおり、二本脚で歩き、道具を手に入れ、ホモサピエンスに至るまでの無言劇を、教壇を舞台に僕が演じてみます。
『風の谷のナウシカ』、『平成たぬき合戦ぽんぽこ』、『ゴジラ』、『風が吹くとき』、『アフガンに命の水を』、『アミスタッド』、『ダンス・ウィズ・ウルブス』などのDVD鑑賞を通じて生命倫理、環境倫理や異文化への共感を感じ取り、考えてもらい、感想文を書かせる。短く拙い感想の中にキラリと光ったところを取り上げて、みんなの前で褒める。誰が書いたかは言いません。「目立つこと」を嫌いますから。でも自分が書いたことはわかります。
「すげぇ!きれいだ。緑になった。水ってすげぇよ」。『アフガンに命の水を』を見ていて、例の「知らねえし」君が思わず漏らした一言。
プリントには、ちょっと難しい言葉は全部ルビを付け、音読します。必ず側についていて、小声で、訂正したり、「良く読めた!」と褒めたり。音読はクラスの中でも、授業に入らない子に割り振ります。教科書が「読めた!」例え教師の「介助」を受けても「読めた!」という感じが大事だと考えています。
そうして力をつけて、「病院廃止問題」などの難しい新聞記事に挑戦する。こちらからは「もし君たちの近くの総合病院がなくなったらどう?」と公共性に感心を向けさせます。
ある日の授業で、宗教改革をやった。「カルヴァン派の教会」という絵を見せたら、「先生、見てみろよ、この教室と似てないか」と。ヘルニアが痛くて横に寝そべって聞いているやつ、飯食いながら聞いているやつ、お菓子食べながらの女子。勝手なおしゃべりをしているやつ。バラバラなんだけど教室を見回すと、何だか妙に和んだ空気が流れている。生徒は聞くともなしに聞いている。
よく騒いでいた女子の一人が、「先生の側にいれば安心だと思ったんだよ」と話してくれた。コレって何なのだろう?「自分は排除されてない」ってこと?だとしたら、この子たちにそう言わせるこの社会っていったい何なのだろう?
「奮闘努力の甲斐もなく、中退・不登校になってしまったら…」
『高校中退』の著者で、埼玉大学の青砥恭先生が立ち上げたような、地域のネットワーク力を彼ら彼女らの自己実現のための「セーフティーネット」にするしかないと思います。
自治体は、「地域百年の計」の観点から、こうした試みに予算をつけるべきだと思います。
誰でも老後は、人から優しくされたいと思うはずです。私たちがどう考えようが将来、地域の担い手となり、社会的介護の担い手となるのは、まさにこの子たち。だから、豊かな人間性を育んでほしいと思うわけです。
たぬきの凡太
(社会科講師・スクールソーシャルワーカー )
生まれて育ち生活する環境や教育環境がまったく同じ状態であるならばともかく、多くの場合スタートラインが違うのです。
「よくわかる公的扶助」という本に掲載されていた資料をこちらに載せました。
たとえば「朝食をたまにとらない」「ほとんどとらない」という割合は、親の年収が400万円以下の子どもが全体の平均を上回っている。
また、「習い事をさせている」「塾・家庭教師を利用している」「学校の成績ができるほう」の割合についても、親の年収の高さに比例している。
子どもは生まれる環境を選べるわけではないから、どんな教育を受けるかも自分では選べないけれど、時間がたてば子どもは大人になり、そして「努力が足りない」と言われるようになる理不尽さを、私たちは考えなければなりません。
高校の社会科の講師であり、スクールソーシャルワーカーである「たぬきの凡太」さんが、子どもたちの実態についてメールをくださいました。
ぜひ皆さんに読んでいただきたいと考えて、公表できるようにリライトしていただきました。
以下に、凡太さんの文章を載せます。
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「たぬきが会った生徒たち」
僕の出会った生徒たちについて話しましょう。多くの生徒は、とりあえず、「高卒の資格がほしい」という気持ちで来ているようでした。だから、ある意味、割り切っていてドライな印象でした。
その中で1クラスに何人か、何のために学校に来ているのだろうと首をかしげたくなるような生徒がいました。
彼ら、彼女らは、生育歴の中で親に愛された経験がなかったり、小中学校時代に、家庭の養育不十分やいじめ、学校での不適切なかかわり、発達障害などで「いい思い」をした経験がない子たちです。だから簡単に不登校傾向になります。
生徒たちは、学校に在籍するものの、女子ならば、幼い弟妹の母親替わり、「児童ケアラー」となり、自己実現を諦めてしまう生徒もいます。
男子ならば、アルバイトで一家を支えなければならない生徒もいます。
この子たちは「生きること」に対しては比較的に真面目です。
しかし、人間はみんな「弱い」から、道からそれてしまう子もいます。
彼ら彼女らは、ふだんは身の上話はしません。人前で泣いたり、怒ったり、感情を表にだすのは「ダサい」と考えているのかもしれません。
ある年、教科書もノートも持って来ずに、足投げ出して一時間中、後ろのやつと話している男子を叱ったら、「知らねえし」というから、僕もムカついて本気(マジ!)怒鳴ったら、次の授業から出て来なくなってしまった。弱いというより、か細いんだ。
とうとうその学期はほとんど来なかった。
次の学期になって、クラスの誰かから「おい、タヌキはいいやつだぞ」とでも聞いたのか、ポツポツと来るようになった。「先生、俺この教室にいていいのか?」と聞いてきたから、「当たり前だろ?」と。居場所がないんだなと思った。
なんだか「知らねえし」がかわいく思えてきた。「授業の邪魔はするな」「うん!」
「読み書き算盤だけでは計れない人間力 」
生きていくためのスキルや倫理観の習得は、言語や記号だけでは計れない。例えば、人間のコミュニケーションのうち70%以上は、非言語コミュニケーションだと言われています。だから、僕は授業の中で、アニメーションやドキュメンタリー、映画などのDVDをふんだんに使います。時には漫画なども手作り教材に使います。資史料は必ず音読します。歴史の授業では、冒頭に、サルが木から飛びおり、二本脚で歩き、道具を手に入れ、ホモサピエンスに至るまでの無言劇を、教壇を舞台に僕が演じてみます。
『風の谷のナウシカ』、『平成たぬき合戦ぽんぽこ』、『ゴジラ』、『風が吹くとき』、『アフガンに命の水を』、『アミスタッド』、『ダンス・ウィズ・ウルブス』などのDVD鑑賞を通じて生命倫理、環境倫理や異文化への共感を感じ取り、考えてもらい、感想文を書かせる。短く拙い感想の中にキラリと光ったところを取り上げて、みんなの前で褒める。誰が書いたかは言いません。「目立つこと」を嫌いますから。でも自分が書いたことはわかります。
「すげぇ!きれいだ。緑になった。水ってすげぇよ」。『アフガンに命の水を』を見ていて、例の「知らねえし」君が思わず漏らした一言。
プリントには、ちょっと難しい言葉は全部ルビを付け、音読します。必ず側についていて、小声で、訂正したり、「良く読めた!」と褒めたり。音読はクラスの中でも、授業に入らない子に割り振ります。教科書が「読めた!」例え教師の「介助」を受けても「読めた!」という感じが大事だと考えています。
そうして力をつけて、「病院廃止問題」などの難しい新聞記事に挑戦する。こちらからは「もし君たちの近くの総合病院がなくなったらどう?」と公共性に感心を向けさせます。
ある日の授業で、宗教改革をやった。「カルヴァン派の教会」という絵を見せたら、「先生、見てみろよ、この教室と似てないか」と。ヘルニアが痛くて横に寝そべって聞いているやつ、飯食いながら聞いているやつ、お菓子食べながらの女子。勝手なおしゃべりをしているやつ。バラバラなんだけど教室を見回すと、何だか妙に和んだ空気が流れている。生徒は聞くともなしに聞いている。
よく騒いでいた女子の一人が、「先生の側にいれば安心だと思ったんだよ」と話してくれた。コレって何なのだろう?「自分は排除されてない」ってこと?だとしたら、この子たちにそう言わせるこの社会っていったい何なのだろう?
「奮闘努力の甲斐もなく、中退・不登校になってしまったら…」
『高校中退』の著者で、埼玉大学の青砥恭先生が立ち上げたような、地域のネットワーク力を彼ら彼女らの自己実現のための「セーフティーネット」にするしかないと思います。
自治体は、「地域百年の計」の観点から、こうした試みに予算をつけるべきだと思います。
誰でも老後は、人から優しくされたいと思うはずです。私たちがどう考えようが将来、地域の担い手となり、社会的介護の担い手となるのは、まさにこの子たち。だから、豊かな人間性を育んでほしいと思うわけです。
たぬきの凡太
(社会科講師・スクールソーシャルワーカー )
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増え続ける非正規-労働力調査の結果から
2月20日、労働力調査の2011年の平均が公表されました。
今回は、岩手・宮城・福島を除くというものです。
この概要版を見ると、2011年平均の雇用者4918万人のうち正規職員・従業員は3185万人。一方で非正規の職員・従業員は1733万人。雇用者に占める非正規の割合は、35.2%。
男女別で見ると、男性の非正規率は19.9%、女性はなんと54.7%です。
働く女性の半数以上が非正規ということですね・・・。
非正規は、ふだんの身分の不安定さはもちろんのこと、いざというときのセーフティネットにも問題があると思います。
たとえば、がんで手術・療養が必要になった場合、正規の仕事であれば休業・治療後の復職が可能になると思いますが、非正規ではそうはいきません。
また、これだけ正規職員が減っている状況では、正規であっても事実上、「働けないなら辞めてくれ」と言われることもあるかもしれません。
お給料の面だけではなく、いざというときの安心という点でも、働いている人の中にも貧困問題が広がっているといえると思います。
今回は、岩手・宮城・福島を除くというものです。
この概要版を見ると、2011年平均の雇用者4918万人のうち正規職員・従業員は3185万人。一方で非正規の職員・従業員は1733万人。雇用者に占める非正規の割合は、35.2%。
男女別で見ると、男性の非正規率は19.9%、女性はなんと54.7%です。
働く女性の半数以上が非正規ということですね・・・。
非正規は、ふだんの身分の不安定さはもちろんのこと、いざというときのセーフティネットにも問題があると思います。
たとえば、がんで手術・療養が必要になった場合、正規の仕事であれば休業・治療後の復職が可能になると思いますが、非正規ではそうはいきません。
また、これだけ正規職員が減っている状況では、正規であっても事実上、「働けないなら辞めてくれ」と言われることもあるかもしれません。
お給料の面だけではなく、いざというときの安心という点でも、働いている人の中にも貧困問題が広がっているといえると思います。