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気仙沼に行ってきました。
1月26日(土)、27日(日)に父と一緒に宮城県気仙沼の復興商店街に行ってきました。
気仙沼は今まで何度か訪ねていますが、父はまだ一度も行ったことがないこと、昨夏訪ねた時に気仙沼の坂本さんが「冬はきっとお客さんが減っちゃうんじゃないかなあ」とおっしゃっていたから「じゃあ冬に行こう」と思ったこと、また、これから先東京に住む私たちはどのような関わりを持っていくことができるかを考えたいという思いから、今回の旅行を計画しました。
1日目は、気仙沼復興商店街の坂本正人さんに市内を案内していただき、2日目はタクシーで運転手さんに案内していただきながら陸前高田に行きました。
まず一日目の気仙沼市内の様子。

気仙沼は津波の被害に加え、地盤沈下が多く起きた地域でもあります。1か月ほど前、NHKのニュースを見ていたら、「地盤沈下が起きている地域が増えていて、東日本大震災の影響と思われる。特に一番地盤沈下が起きているのは気仙沼」という報道がなされていました。震災によって各地に地盤沈下の起きている場所はあるのでしょうが、気仙沼は特に影響が大きかったという理解をすればいいのだと思います。
上の写真は、海ではありません。もともと家が建っていた場所で、建物は津波で壊れてしまった跡です。写真をクリックすると大きく表示されますので、よく見ていただくと、水の中にブロックがあるのが見えると思います。また右端のほうには家の土台があることからも、ここはもともと家があった場所だということが分かるかと思います。土地が地盤沈下しているために海が満ちると冠水してしまうのです。
道路はかさ上げされているのですが、建物が建っていた場所についてはまだ行われていません。
気仙沼に住んでいる方によれば、建物が建っていた場所をかさ上げする場合に国からお金が出ないとか。全部市が負担するとなると、かなり負担が重くなってしまいます。
津波や地盤沈下によって使えなくなってしまった建物は順番に少しずつ解体を進めていると聞きましたが、昨夏行った時と比べて進んでいるようには見えませんでした。
建物が撤去されたとしても、土台が残ってしまっています。土台は、外してから中の鉄筋を取り除き、コンクリート部分はかさ上げの材料として使うことになるそうですが、取り除き、分別する作業には時間と費用がかかるということかと思います。

かなり海から離れた地区に残されたこの船は、後世、震災の爪痕を知るためのものとして残すべきという意見もあれば、つらい記憶を思い起こすので撤去してほしいという声もあり、まだ方針は決まっていないようです。また、残すにしても撤去するにしてもたくさんの費用がかかるという課題もあるようです。

人が立っているのと見比べると、船の大きさが分かるかと思います。

建物の一番上のほうにある青いラインが、津波が到達した地点です。下に立っているのは私。(ちなみに私の身長は160センチ)
2日目は、タクシーで市内を回った後に陸前高田に向かいました。

津波は海から川をのぼって大きな被害を出したようですが、川の土手に生えていた桜は、海水をかぶってしまったので、もうダメだということでした。木が残っているだけに、「でも本当はもうダメなんだなあ・・・」と思うと、悲しい気持ちになります。

陸前高田の市街地だった場所です。市役所やスーパーなど、お店の立ち並ぶ場所だったそうですが、海に近かったためにほとんど何もなくなってしまっています。(建物が残っていたとしても、中は使える状態にありません。)

陸前高田の街にあった大きなスーパー。一番上の階まで津波が来た様子が分かります。

ここは野球場だったそうですが、今は海の一部のようになってしまっています。

これも陸前高田の街の中にある集合住宅で、建物自体は残っていますが、少なくとも4階まではかなり大きな津波の被害にあっていることが遠目からも見て取れます。
陸前高田の見学の後、ふたたび気仙沼に戻って、皆さんにもカンパのご協力をいただきながら交流を続けている気仙沼復興商店街に。


復興商店街内にあるお寿司屋さんのお刺身。
「商店街を見学した人に、〈ずいぶん復興しましたね〉といわれることがある。たしかに飲み屋さんがあったり、美味しいものも出すことができるようにはなっている。だけど、ここはやっぱり仮設だから、ちっとも復興しているわけじゃないんだ」と、商店街の方がおっしゃっていました。本当にそうだと思います。
東日本大震災の被災地に、災害が起こる前に行ったことがない人にとって、震災直後にテレビなどで見たがれきの様子と比べれば、「ずいぶんきれいになったなあ」と思ってしまうかもしれません。
建物が流されてしまったり、あるいは撤去が終わったあとの街は、見渡しのいい平野としか捉えられないかもしれない。
でも、そこにはかつては住宅街があったり、お店があったり、街があって、それがすべて消えてしまったのです。もともと住んでいる人がずっと感じているその喪失感は、震災から時間がたつほどに外部の人には共有されないものになっていくおそれがあるということを感じました。
私も震災後、生まれてはじめて気仙沼に行き、交流が始まりました。だから、かつての街がどんなだったか、写真を見たり想像するしかありません。
だからこそなおさら、今は何もないこの場所はかつて何があったのか、そこに住む人たちにはどんな生活があったのか、ということに思いをはせることが必要だと感じます。
写真を見て分かるように、今はまだまだ基本的な復旧・復興も十分でない状況ですが、これから数年かけて街が少しずつ再生していったとしても、被災した人たちが受けた傷は残るものだということを心に留めながら、これからも継続した交流を続けていきたいと考えています。

左が気仙沼復興商店街で中心的に活動している坂本正人さん、真ん中が私、右が私の父です。
3月中旬に気仙沼復興商店街でイベントがあるそうで、そこに私のいとこが主宰している和力も出演させてもらうことになりました。せっかくだからその際にまた出掛けたいと思っています。ご関心のある方はお問い合わせください。
気仙沼は今まで何度か訪ねていますが、父はまだ一度も行ったことがないこと、昨夏訪ねた時に気仙沼の坂本さんが「冬はきっとお客さんが減っちゃうんじゃないかなあ」とおっしゃっていたから「じゃあ冬に行こう」と思ったこと、また、これから先東京に住む私たちはどのような関わりを持っていくことができるかを考えたいという思いから、今回の旅行を計画しました。
1日目は、気仙沼復興商店街の坂本正人さんに市内を案内していただき、2日目はタクシーで運転手さんに案内していただきながら陸前高田に行きました。
まず一日目の気仙沼市内の様子。

気仙沼は津波の被害に加え、地盤沈下が多く起きた地域でもあります。1か月ほど前、NHKのニュースを見ていたら、「地盤沈下が起きている地域が増えていて、東日本大震災の影響と思われる。特に一番地盤沈下が起きているのは気仙沼」という報道がなされていました。震災によって各地に地盤沈下の起きている場所はあるのでしょうが、気仙沼は特に影響が大きかったという理解をすればいいのだと思います。
上の写真は、海ではありません。もともと家が建っていた場所で、建物は津波で壊れてしまった跡です。写真をクリックすると大きく表示されますので、よく見ていただくと、水の中にブロックがあるのが見えると思います。また右端のほうには家の土台があることからも、ここはもともと家があった場所だということが分かるかと思います。土地が地盤沈下しているために海が満ちると冠水してしまうのです。
道路はかさ上げされているのですが、建物が建っていた場所についてはまだ行われていません。
気仙沼に住んでいる方によれば、建物が建っていた場所をかさ上げする場合に国からお金が出ないとか。全部市が負担するとなると、かなり負担が重くなってしまいます。
津波や地盤沈下によって使えなくなってしまった建物は順番に少しずつ解体を進めていると聞きましたが、昨夏行った時と比べて進んでいるようには見えませんでした。
建物が撤去されたとしても、土台が残ってしまっています。土台は、外してから中の鉄筋を取り除き、コンクリート部分はかさ上げの材料として使うことになるそうですが、取り除き、分別する作業には時間と費用がかかるということかと思います。

かなり海から離れた地区に残されたこの船は、後世、震災の爪痕を知るためのものとして残すべきという意見もあれば、つらい記憶を思い起こすので撤去してほしいという声もあり、まだ方針は決まっていないようです。また、残すにしても撤去するにしてもたくさんの費用がかかるという課題もあるようです。

人が立っているのと見比べると、船の大きさが分かるかと思います。

建物の一番上のほうにある青いラインが、津波が到達した地点です。下に立っているのは私。(ちなみに私の身長は160センチ)
2日目は、タクシーで市内を回った後に陸前高田に向かいました。

津波は海から川をのぼって大きな被害を出したようですが、川の土手に生えていた桜は、海水をかぶってしまったので、もうダメだということでした。木が残っているだけに、「でも本当はもうダメなんだなあ・・・」と思うと、悲しい気持ちになります。

陸前高田の市街地だった場所です。市役所やスーパーなど、お店の立ち並ぶ場所だったそうですが、海に近かったためにほとんど何もなくなってしまっています。(建物が残っていたとしても、中は使える状態にありません。)

陸前高田の街にあった大きなスーパー。一番上の階まで津波が来た様子が分かります。

ここは野球場だったそうですが、今は海の一部のようになってしまっています。

これも陸前高田の街の中にある集合住宅で、建物自体は残っていますが、少なくとも4階まではかなり大きな津波の被害にあっていることが遠目からも見て取れます。
陸前高田の見学の後、ふたたび気仙沼に戻って、皆さんにもカンパのご協力をいただきながら交流を続けている気仙沼復興商店街に。


復興商店街内にあるお寿司屋さんのお刺身。
「商店街を見学した人に、〈ずいぶん復興しましたね〉といわれることがある。たしかに飲み屋さんがあったり、美味しいものも出すことができるようにはなっている。だけど、ここはやっぱり仮設だから、ちっとも復興しているわけじゃないんだ」と、商店街の方がおっしゃっていました。本当にそうだと思います。
東日本大震災の被災地に、災害が起こる前に行ったことがない人にとって、震災直後にテレビなどで見たがれきの様子と比べれば、「ずいぶんきれいになったなあ」と思ってしまうかもしれません。
建物が流されてしまったり、あるいは撤去が終わったあとの街は、見渡しのいい平野としか捉えられないかもしれない。
でも、そこにはかつては住宅街があったり、お店があったり、街があって、それがすべて消えてしまったのです。もともと住んでいる人がずっと感じているその喪失感は、震災から時間がたつほどに外部の人には共有されないものになっていくおそれがあるということを感じました。
私も震災後、生まれてはじめて気仙沼に行き、交流が始まりました。だから、かつての街がどんなだったか、写真を見たり想像するしかありません。
だからこそなおさら、今は何もないこの場所はかつて何があったのか、そこに住む人たちにはどんな生活があったのか、ということに思いをはせることが必要だと感じます。
写真を見て分かるように、今はまだまだ基本的な復旧・復興も十分でない状況ですが、これから数年かけて街が少しずつ再生していったとしても、被災した人たちが受けた傷は残るものだということを心に留めながら、これからも継続した交流を続けていきたいと考えています。

左が気仙沼復興商店街で中心的に活動している坂本正人さん、真ん中が私、右が私の父です。
3月中旬に気仙沼復興商店街でイベントがあるそうで、そこに私のいとこが主宰している和力も出演させてもらうことになりました。せっかくだからその際にまた出掛けたいと思っています。ご関心のある方はお問い合わせください。
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- 2013-01-30
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