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光が丘の温室植物園に視察に行きました。
2月8日は議会の初日でしたが、会議が終わった後に会派の5人で光が丘にある「花とみどりの相談所・温室植物園」の視察に行きました。
練馬区はこのところ、建築関係の不祥事が次々と発覚しています。
まず、建築物に本来あるべき「検査済み証」というものがない区立施設がありました。(詳細はこちら)
そして、本来1年間しか使えないという条件のもとに手続きを簡素化して建てることができる「仮設建築物」が何年にもわたって使われていたことが分かりました。全部で8施設見つかったとのこと。しかもその中には手続きの問題だけではない、安全上の問題のある施設もあることが判明したのです。(施設の詳細と今後の対応方針の案はこちら)
これらの建物は今後、撤去することになります。
法令順守した建物を作っていれば、まだ使えた施設のはずなのに、取り壊しや代替施設を用意することに新たな費用がかかってくるのは大きな問題です。リンクを見ていただければわかるように学校の一部や学童クラブなどもあり、なくなっては困るものの代替を見つけていくにはどうしてもお金がかかってしまうことになります。
今回視察に行った、花とみどりの相談所の温室植物園は仮設で建てられてしまった8施設のうちの1つです。
1990年に仮設建築物として建てられ、実に22年間使われていた施設ですが、柱がなくガラスでつくられた温室は強風が吹くなどの際の安全性に問題があるということが分かって、昨年12月に一般公開が中止されました。

(温室の中から天井を見上げたところ)
温室の中にはバナナ、マンゴーをはじめ、温暖な気候にある植物がたくさんあります。今は植物が枯れないように水やりをするだけで、人が訪れることはありませんが、一般公開されていたころはその季節に応じた展示なども行われていたそうです。

(バナナ。バナナの下にぶら下がっているのはお花だそうです。)
安全性に問題がある以上、今ある施設を取り壊さなければいけないことは間違いないのですが、ではその後、この植物たちはいったいどうするのか。―新たな同様の施設を作るのか、植物を他の植物園などに引き取ってもらって、区の施設は終結させてしまうのか―など、まだこれからの検討なのだそうです。
木を目の前にすると、ああ、生きているなあとしみじみ感じます。
大きな木など、移植するにしても木への負担もかかるでしょう。
できるだけ、これらの植物に負担のかからない方法を考えたいものです。

(温室の外観。)
また、これらの植物に会うのを楽しみに、光が丘を散歩していた区民の方も多かったのではないでしょうか。
入口には「当分の間、休園」と書かれています。再び開園するかどうかもまだ決まっていないのに、これでは「いつか開くんだろう」と区民の皆さんは期待されるのではないでしょうか。

(外に掲示されている案内には「当分の間、休園」と書かれている)
今後、植物園をどうしていくべきなのか、しっかり区民の皆さんの意見を聴く機会を作っていくべきだと思います。
この問題に関して、区長が述べたという言葉が1月31日の東京新聞で報道されていたので、一部引用してご紹介します。
志村区長は「今すぐに処分は考えていない。現状を合法的なものにし、安全基準に従った建物にすることが最大の責務」と強調。処分しない理由を「私を含め、懲罰を与えても現状は元に戻らない。当時の責任者はみんな他界している。存命の方もいるが、いっときの調査で適正に処分できるのか」と述べた。
起きてしまった過ちは反省したところで元には戻らない、なんて言い始めたら、社会は成り立たないですよね。本当にこんな発言をしたとすれば、そもそも一社会人としてどうなんだろうと思ってしまいますが、けじめをつけずに許されるならば政治家なんか不要でしょう。
志村区長の決定のもとに行われたすべてのことにおいて、今後何が起きようとも責任はとられないんだと思えてしまいます。
そもそもなぜこういう問題が起きてしまったのか。手続きは安全性に直につながるものではない、時間と手間がかかる手続きを簡略化できる抜け道を見つけられて楽になったと思ってしまったのでしょうか。
しかし、民間施設に法令遵守を求める立場にある行政がみずから法を守っていくことは当然のことだし、安易に流れることを未然に防ぐのが責任者のつとめです。万一、今回のように未然に防ぐことができなければ責任者がけじめをつけて二度と繰り返さないという姿勢を示すのが区長の役割なのではないでしょうか。
起きた問題そのものだけではなくて、区長の政治姿勢が問われる問題であると思います。
練馬区はこのところ、建築関係の不祥事が次々と発覚しています。
まず、建築物に本来あるべき「検査済み証」というものがない区立施設がありました。(詳細はこちら)
そして、本来1年間しか使えないという条件のもとに手続きを簡素化して建てることができる「仮設建築物」が何年にもわたって使われていたことが分かりました。全部で8施設見つかったとのこと。しかもその中には手続きの問題だけではない、安全上の問題のある施設もあることが判明したのです。(施設の詳細と今後の対応方針の案はこちら)
これらの建物は今後、撤去することになります。
法令順守した建物を作っていれば、まだ使えた施設のはずなのに、取り壊しや代替施設を用意することに新たな費用がかかってくるのは大きな問題です。リンクを見ていただければわかるように学校の一部や学童クラブなどもあり、なくなっては困るものの代替を見つけていくにはどうしてもお金がかかってしまうことになります。
今回視察に行った、花とみどりの相談所の温室植物園は仮設で建てられてしまった8施設のうちの1つです。
1990年に仮設建築物として建てられ、実に22年間使われていた施設ですが、柱がなくガラスでつくられた温室は強風が吹くなどの際の安全性に問題があるということが分かって、昨年12月に一般公開が中止されました。

(温室の中から天井を見上げたところ)
温室の中にはバナナ、マンゴーをはじめ、温暖な気候にある植物がたくさんあります。今は植物が枯れないように水やりをするだけで、人が訪れることはありませんが、一般公開されていたころはその季節に応じた展示なども行われていたそうです。

(バナナ。バナナの下にぶら下がっているのはお花だそうです。)
安全性に問題がある以上、今ある施設を取り壊さなければいけないことは間違いないのですが、ではその後、この植物たちはいったいどうするのか。―新たな同様の施設を作るのか、植物を他の植物園などに引き取ってもらって、区の施設は終結させてしまうのか―など、まだこれからの検討なのだそうです。
木を目の前にすると、ああ、生きているなあとしみじみ感じます。
大きな木など、移植するにしても木への負担もかかるでしょう。
できるだけ、これらの植物に負担のかからない方法を考えたいものです。

(温室の外観。)
また、これらの植物に会うのを楽しみに、光が丘を散歩していた区民の方も多かったのではないでしょうか。
入口には「当分の間、休園」と書かれています。再び開園するかどうかもまだ決まっていないのに、これでは「いつか開くんだろう」と区民の皆さんは期待されるのではないでしょうか。

(外に掲示されている案内には「当分の間、休園」と書かれている)
今後、植物園をどうしていくべきなのか、しっかり区民の皆さんの意見を聴く機会を作っていくべきだと思います。
この問題に関して、区長が述べたという言葉が1月31日の東京新聞で報道されていたので、一部引用してご紹介します。
志村区長は「今すぐに処分は考えていない。現状を合法的なものにし、安全基準に従った建物にすることが最大の責務」と強調。処分しない理由を「私を含め、懲罰を与えても現状は元に戻らない。当時の責任者はみんな他界している。存命の方もいるが、いっときの調査で適正に処分できるのか」と述べた。
起きてしまった過ちは反省したところで元には戻らない、なんて言い始めたら、社会は成り立たないですよね。本当にこんな発言をしたとすれば、そもそも一社会人としてどうなんだろうと思ってしまいますが、けじめをつけずに許されるならば政治家なんか不要でしょう。
志村区長の決定のもとに行われたすべてのことにおいて、今後何が起きようとも責任はとられないんだと思えてしまいます。
そもそもなぜこういう問題が起きてしまったのか。手続きは安全性に直につながるものではない、時間と手間がかかる手続きを簡略化できる抜け道を見つけられて楽になったと思ってしまったのでしょうか。
しかし、民間施設に法令遵守を求める立場にある行政がみずから法を守っていくことは当然のことだし、安易に流れることを未然に防ぐのが責任者のつとめです。万一、今回のように未然に防ぐことができなければ責任者がけじめをつけて二度と繰り返さないという姿勢を示すのが区長の役割なのではないでしょうか。
起きた問題そのものだけではなくて、区長の政治姿勢が問われる問題であると思います。
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- 2013-02-16
- カテゴリ : 未分類
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児童養護施設についての勉強会に参加しました
2月9日、飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターでおこなわれた「ボランタリーフォーラム」に参加してきました。
ボランタリーフォーラムはいつもこの時期におこなわれています。様々なテーマの課題について学び、参加者同士が議論する分科会が開かれます。
私が介護の仕事をしていたころは、分科会を企画する側に関わったこともあったのですが、議員になってからはこの時期は議会の準備で手いっぱいになってしまい、なかなか行くことができませんでした。
今年は私は、「実際にボランティア活動をすること、学ぶこと」をもっとたくさんやろうという目標を立てたので、久々に出かけたというわけです。
外国籍住民の話を聞くという分科会と、児童養護施設についての分科会に参加してきました。
外国籍住民については今回は1家族の話を聞いたので、今後もっとたくさんの当事者の話を聞き、制度的課題を整理したいと考えているので、深められた段階で紹介したいと思います。
今回は児童養護施設の分科会のことをご紹介。
児童養護施設は、親が仕事の都合や体調でどうしてもこどもを育てることができない事情があったり、親が亡くなってしまったり、親からの虐待があって家で育てられることが適切でないといった、様々な理由で家庭での養育ができない場合に入所する施設です。入所理由はもっぱら大人にあるというのが特徴といえると思います。
(養護学校と混同される場合があるようなのですが、養護学校(今は特別支援学校という名前に変わりました)はこども本人の障害を理由に入る学校で、名前は似ているけれどまったく関係ないものです)
同様の事情があっても赤ちゃんの場合は乳児院に入ることになりますので、児童養護施設は1歳から18歳未満が対象となります。
練馬区内には2つの児童養護施設があります。
施設には20人以上のこどもが一緒に生活をする大規模な「大舎制」というタイプのものと、もっと少人数で暮らす「小舎制」というもの、さらに少人数で6名を基本としているグループホーム、といったものがあります。
私は、福祉の学校に行っていたときに実習で児童養護施設に行った経験があります。
幼稚園や小学校低学年といった小さな子は親に会いたい、甘えたいという様子だったし、思春期に入った子は思春期特有の様々な葛藤をもっているように見えました。
施設の職員は、こどもたちの学校で行事があれば必ず足を運び、学校や地域との信頼関係づくりにも熱心に取り組んでいたし、こどもたちとも一生懸命向き合っていましたが、なにせ物理的に人手が足りないのです。
(配置基準は小学生以上6人に対して職員1人。今度の4月から5.5:1に改善される予定。)
私はその状態を思い出すたびに、つらい気持ちになっていました。
2011年に東京都が、かつて児童養護施設を利用した経験のある人を対象としたアンケート調査をおこないました。(こちら)
この内容を見ても、18歳という若さで施設を出た後のサポートの不十分さが見えてきており、まだまだ児童養護施設利用者への支援が不十分であると感じます。
今回私が参加した分科会には、2つの施設の卒業生が来て話を聞かせてくださいました。
話してくれた皆さんは、施設について温かい思い出を持っている方々でした。
施設を自分の家のように思っていたこと。
施設ではいろいろなイベントがあったこと。
児童養護施設は国と都道府県の補助金によって運営されているので、制約もいろいろあって、たとえば習い事はできなかったけどその代わりにボランティアの人たちが来ていろんなことを教えてくれたこと。塾にも行かれなかったので(今は行かれるように制度が変わったそうです)、学習ボランティアも来てくれたこと。こうして職員とはちがう大人と交流し、生き方など学ぶことも大きかったこと。
学校の友人は特に偏見を持つことなく、施設に来て一緒に遊ぶこともあったこと。
ただ、そうした生活の中でも、家で暮らす子に比べたら門限が厳しかったり、おしゃれをするためのお小遣いがもらえなかったり、日常の中での不満はあって、話してくれたうちの一人は、ときに反抗的な態度をとることもあったというエピソードを聞かせてくれました。
でもどんな反抗的なことをしても、施設職員が見守っていてくれることを感じて育ってきて、今は「かつての自分と同じような立場にあるこどもたちを、今度は自分が支えたい」と、保育士を目指しているということでした。
思えば、施設に入っていようがいまいが、こどもは日々悩みながら成長していくわけで、関わる大人はその時その時に「このかかわり方でよかっただろうか」と悩むとしても、誠実に向き合っていくということが大事なんだろうなと思いました。
そして、物理的には厳しい環境の中でも、こどもたちを大切にした施設運営の実践が現にあるということを聞くことができて、本当によかったです。
実習に行って以来、ずっと感じていたモヤモヤした気持ちが、少し整理できたようです。
ただ、今回、お話をしてくれた人たちは、温かい思い出があるからこそ、わざわざ飯田橋まで来て話してくれたのであって、必ずしもすべての施設がそういう温かさを作り出せているわけではないだろうし、すべてのこどもが良い思い出をもつわけではないだろうということは、都のアンケートを見ると予想できるところです。
各地の児童養護施設を、ボランティアに行くなどの形で、私たち一人一人が支えていくことが、こどもにとっても施設職員にとっても、そして施設の環境改善のためにも大切であると思いました。
私も、なにかしらの関わり方を模索していきたいと思います。
分科会が終わって廊下に出たら、福祉の学生時代にバイトしてたところ(福祉の研修機関)で一緒に働いていた人にばったり再会しました。
前回ブログに書いた、福祉専門学校の同級生の場合と同様にたぶん8年ぶりくらいの再会です。(なんで立て続けに8年ぶりの再会をしているのか、不思議ですが)
私はこの8年の間に、デイサービス→ヘルパー→議員という具合に何度も転職しているので、改めて名刺交換をしたら、「へー!加藤木さん、議員になったの?ひとりで牛丼屋に入ってビールを飲んでいた加藤木さんがねぇ・・・」と言われました
そういわれてみたら、そうだったかも・・・。
8年前の私はひとりで牛丼屋に入ってビールを飲み、学校の授業中には文化祭の企画を立てて紙を回していたという、ひどい像が浮かび上がってきました・・・(+_+)
ボランタリーフォーラムはいつもこの時期におこなわれています。様々なテーマの課題について学び、参加者同士が議論する分科会が開かれます。
私が介護の仕事をしていたころは、分科会を企画する側に関わったこともあったのですが、議員になってからはこの時期は議会の準備で手いっぱいになってしまい、なかなか行くことができませんでした。
今年は私は、「実際にボランティア活動をすること、学ぶこと」をもっとたくさんやろうという目標を立てたので、久々に出かけたというわけです。
外国籍住民の話を聞くという分科会と、児童養護施設についての分科会に参加してきました。
外国籍住民については今回は1家族の話を聞いたので、今後もっとたくさんの当事者の話を聞き、制度的課題を整理したいと考えているので、深められた段階で紹介したいと思います。
今回は児童養護施設の分科会のことをご紹介。
児童養護施設は、親が仕事の都合や体調でどうしてもこどもを育てることができない事情があったり、親が亡くなってしまったり、親からの虐待があって家で育てられることが適切でないといった、様々な理由で家庭での養育ができない場合に入所する施設です。入所理由はもっぱら大人にあるというのが特徴といえると思います。
(養護学校と混同される場合があるようなのですが、養護学校(今は特別支援学校という名前に変わりました)はこども本人の障害を理由に入る学校で、名前は似ているけれどまったく関係ないものです)
同様の事情があっても赤ちゃんの場合は乳児院に入ることになりますので、児童養護施設は1歳から18歳未満が対象となります。
練馬区内には2つの児童養護施設があります。
施設には20人以上のこどもが一緒に生活をする大規模な「大舎制」というタイプのものと、もっと少人数で暮らす「小舎制」というもの、さらに少人数で6名を基本としているグループホーム、といったものがあります。
私は、福祉の学校に行っていたときに実習で児童養護施設に行った経験があります。
幼稚園や小学校低学年といった小さな子は親に会いたい、甘えたいという様子だったし、思春期に入った子は思春期特有の様々な葛藤をもっているように見えました。
施設の職員は、こどもたちの学校で行事があれば必ず足を運び、学校や地域との信頼関係づくりにも熱心に取り組んでいたし、こどもたちとも一生懸命向き合っていましたが、なにせ物理的に人手が足りないのです。
(配置基準は小学生以上6人に対して職員1人。今度の4月から5.5:1に改善される予定。)
私はその状態を思い出すたびに、つらい気持ちになっていました。
2011年に東京都が、かつて児童養護施設を利用した経験のある人を対象としたアンケート調査をおこないました。(こちら)
この内容を見ても、18歳という若さで施設を出た後のサポートの不十分さが見えてきており、まだまだ児童養護施設利用者への支援が不十分であると感じます。
今回私が参加した分科会には、2つの施設の卒業生が来て話を聞かせてくださいました。
話してくれた皆さんは、施設について温かい思い出を持っている方々でした。
施設を自分の家のように思っていたこと。
施設ではいろいろなイベントがあったこと。
児童養護施設は国と都道府県の補助金によって運営されているので、制約もいろいろあって、たとえば習い事はできなかったけどその代わりにボランティアの人たちが来ていろんなことを教えてくれたこと。塾にも行かれなかったので(今は行かれるように制度が変わったそうです)、学習ボランティアも来てくれたこと。こうして職員とはちがう大人と交流し、生き方など学ぶことも大きかったこと。
学校の友人は特に偏見を持つことなく、施設に来て一緒に遊ぶこともあったこと。
ただ、そうした生活の中でも、家で暮らす子に比べたら門限が厳しかったり、おしゃれをするためのお小遣いがもらえなかったり、日常の中での不満はあって、話してくれたうちの一人は、ときに反抗的な態度をとることもあったというエピソードを聞かせてくれました。
でもどんな反抗的なことをしても、施設職員が見守っていてくれることを感じて育ってきて、今は「かつての自分と同じような立場にあるこどもたちを、今度は自分が支えたい」と、保育士を目指しているということでした。
思えば、施設に入っていようがいまいが、こどもは日々悩みながら成長していくわけで、関わる大人はその時その時に「このかかわり方でよかっただろうか」と悩むとしても、誠実に向き合っていくということが大事なんだろうなと思いました。
そして、物理的には厳しい環境の中でも、こどもたちを大切にした施設運営の実践が現にあるということを聞くことができて、本当によかったです。
実習に行って以来、ずっと感じていたモヤモヤした気持ちが、少し整理できたようです。
ただ、今回、お話をしてくれた人たちは、温かい思い出があるからこそ、わざわざ飯田橋まで来て話してくれたのであって、必ずしもすべての施設がそういう温かさを作り出せているわけではないだろうし、すべてのこどもが良い思い出をもつわけではないだろうということは、都のアンケートを見ると予想できるところです。
各地の児童養護施設を、ボランティアに行くなどの形で、私たち一人一人が支えていくことが、こどもにとっても施設職員にとっても、そして施設の環境改善のためにも大切であると思いました。
私も、なにかしらの関わり方を模索していきたいと思います。
分科会が終わって廊下に出たら、福祉の学生時代にバイトしてたところ(福祉の研修機関)で一緒に働いていた人にばったり再会しました。
前回ブログに書いた、福祉専門学校の同級生の場合と同様にたぶん8年ぶりくらいの再会です。(なんで立て続けに8年ぶりの再会をしているのか、不思議ですが)
私はこの8年の間に、デイサービス→ヘルパー→議員という具合に何度も転職しているので、改めて名刺交換をしたら、「へー!加藤木さん、議員になったの?ひとりで牛丼屋に入ってビールを飲んでいた加藤木さんがねぇ・・・」と言われました

そういわれてみたら、そうだったかも・・・。
8年前の私はひとりで牛丼屋に入ってビールを飲み、学校の授業中には文化祭の企画を立てて紙を回していたという、ひどい像が浮かび上がってきました・・・(+_+)
- 2013-02-14
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障害のある人が震災に遭った時―ドキュメンタリー映画を見てきました。
ご近所の友人から「東日本大震災で被災した障害のある人のドキュメンタリーができたらしいよ」と教えてもらって、2月3日に上映会に行きました。映画のタイトルは「逃げ遅れる人々」。(ホームページはこちら)
今回の震災で被災した、障害のある複数の方々が登場し、話をしてくれます。
避難所ではベッドがないために、2週間もの間、横になることができず車いすに乗ったまま生活していた人。
障害のある人にとって避難所が物理的に使いづらく暮らせないというだけではなく、「障害のある人は自分の家で暮らしたほうが良いんじゃない?」という、周囲からの突き放すような言葉を受け、いたたまれなくなって自宅に戻ったものの救援物資を誰も届けてくれない・自分でも取りに行くことができないという状態になってしまったという人。
原発事故があって、介護の仕事をしている人も逃げなくてはならないので、当事者、介助者、家族みんなで集団で避難する決断をした人。一方で避難することが難しく、残る決断をした人。
今まで住んだまちが戻れる状態ではなく、障害を持ちながら遠く離れたまちで突然一人暮らしを余儀なくされ、先の見通しも立てることができない人。
震災と津波の被害、そして特に今回は原発の事故によって、多くの人の日常生活が奪われ、コミュニティが奪われました。
被害にあった誰もがつらい思いをされていますが、障害のある人はなおさら、自分だけの判断で今後を選択できない状態に追いやられてしまいました。
また、もともと障害のある人にとって、地方は東京のような都心よりもずっと厳しい環境に置かれています。障害のある私の友人の話を聞いても、地方に住む人はヘルパーの事業所数なども少なく、不十分な介護に我慢せざるを得ないことが多いし、こうした外からの支援を受けずに家族だけでひっそりと頑張っているケースも多いようです。だからなおさら、被災したときの困難が増してしまいます。そもそも、震災当時に障害者がどこにいるのかを把握することすら困難な状況になってしまったのです。
「災害が起きた時、障害のある人はいったいどうしていたのだろうか」ということは、私もすごく気になるところだったし、その困難を一定程度想像することはできますが、やはり、映画を通してでも、当事者からの言葉を聞くことができるというのはとても重要だと思います。
監督は、「今回、お話を聴けた人たちは、不十分であったとしてもなんらかの支援グループにはつながっていて、そこを通じて私も話を聞くことができた。でも、被災地には本当に何の支援にもつながっておらず、すごく困っている状態の渦中にある人はまだまだいっぱいいるのではないかと感じた」とおっしゃっていました。
今後、東日本大震災の被害にあった方に対して私たちができる支援を考えるうえで、障害のある人たちに何ができるのかという観点から考えていくことはとても大切だと思いますし、今後東京で起こるかもしれない震災の備えをするうえで、障害のある被災者の声を教訓にしていく必要があると思いました。
何らかの形で、この映画の上映会を練馬区内でできたらいいなと思います。
偶然なのですが、この映画の監督・飯田基晴さんはもともとの知り合いでした。
私が議員になってから、2008年に一度上映会をしたことがありましたが、「あしがらさん」という路上生活の人のドキュメンタリー映画を作った人です。
もとは、私が社会福祉士の学校(上智社会福祉専門学校というところ)に通っていた2004年に、学校の文化祭で「あしがらさん」の上映会をできないかということで連絡を取ったのがきっかけで知り合ったのです。
そんなわけで、今回上映会に行ってみたら、久しぶりに社会福祉士の専門学校の時の同級生とも再会できました。たぶん、卒業してから初めて会うくらい久しぶりだったと思います。
「桜子ちゃん、議員さんになったのー?人前で話すの、得意そうじゃないのにねー。特に選挙の時なんかつらいでしょう?」と同級生。
うーむ、的中だ…と思いつつ、「そうねぇ、どちらかと言えば何か企画したり原稿書いたりするほうが好きだから、私が原稿などを作る役をやって、別の人が人前に立つ役やってくれたらもっといいんだけどねぇ」と返事。
すると、同級生、ニコニコしながら、「そうよね、桜子ちゃん、学生の時、前のほうの席に座ってたくせに授業中に[今度文化祭で上映会やります]みたいな紙を回してたものねぇ。考えてみたら、失礼だったわよねぇ…」と(+_+)
あれれ、そうだったっけ・・・。そうだったかも・・・。
悪気はないんですけどね、何か一生懸命やろうとすると自分のペースで進める傾向が・・・(+_+)
議員になってからは、あんまり非常識なことをしないように心掛けているつもりなんですが、失礼なことをしていることがあったらすみません((+_+))
「ああ、そうかー、私、失礼だったかー」とブツブツ独り言を言いながら帰宅しました。
久々に同級生に会って動揺した、2月3日でした
今回の震災で被災した、障害のある複数の方々が登場し、話をしてくれます。
避難所ではベッドがないために、2週間もの間、横になることができず車いすに乗ったまま生活していた人。
障害のある人にとって避難所が物理的に使いづらく暮らせないというだけではなく、「障害のある人は自分の家で暮らしたほうが良いんじゃない?」という、周囲からの突き放すような言葉を受け、いたたまれなくなって自宅に戻ったものの救援物資を誰も届けてくれない・自分でも取りに行くことができないという状態になってしまったという人。
原発事故があって、介護の仕事をしている人も逃げなくてはならないので、当事者、介助者、家族みんなで集団で避難する決断をした人。一方で避難することが難しく、残る決断をした人。
今まで住んだまちが戻れる状態ではなく、障害を持ちながら遠く離れたまちで突然一人暮らしを余儀なくされ、先の見通しも立てることができない人。
震災と津波の被害、そして特に今回は原発の事故によって、多くの人の日常生活が奪われ、コミュニティが奪われました。
被害にあった誰もがつらい思いをされていますが、障害のある人はなおさら、自分だけの判断で今後を選択できない状態に追いやられてしまいました。
また、もともと障害のある人にとって、地方は東京のような都心よりもずっと厳しい環境に置かれています。障害のある私の友人の話を聞いても、地方に住む人はヘルパーの事業所数なども少なく、不十分な介護に我慢せざるを得ないことが多いし、こうした外からの支援を受けずに家族だけでひっそりと頑張っているケースも多いようです。だからなおさら、被災したときの困難が増してしまいます。そもそも、震災当時に障害者がどこにいるのかを把握することすら困難な状況になってしまったのです。
「災害が起きた時、障害のある人はいったいどうしていたのだろうか」ということは、私もすごく気になるところだったし、その困難を一定程度想像することはできますが、やはり、映画を通してでも、当事者からの言葉を聞くことができるというのはとても重要だと思います。
監督は、「今回、お話を聴けた人たちは、不十分であったとしてもなんらかの支援グループにはつながっていて、そこを通じて私も話を聞くことができた。でも、被災地には本当に何の支援にもつながっておらず、すごく困っている状態の渦中にある人はまだまだいっぱいいるのではないかと感じた」とおっしゃっていました。
今後、東日本大震災の被害にあった方に対して私たちができる支援を考えるうえで、障害のある人たちに何ができるのかという観点から考えていくことはとても大切だと思いますし、今後東京で起こるかもしれない震災の備えをするうえで、障害のある被災者の声を教訓にしていく必要があると思いました。
何らかの形で、この映画の上映会を練馬区内でできたらいいなと思います。
偶然なのですが、この映画の監督・飯田基晴さんはもともとの知り合いでした。
私が議員になってから、2008年に一度上映会をしたことがありましたが、「あしがらさん」という路上生活の人のドキュメンタリー映画を作った人です。
もとは、私が社会福祉士の学校(上智社会福祉専門学校というところ)に通っていた2004年に、学校の文化祭で「あしがらさん」の上映会をできないかということで連絡を取ったのがきっかけで知り合ったのです。
そんなわけで、今回上映会に行ってみたら、久しぶりに社会福祉士の専門学校の時の同級生とも再会できました。たぶん、卒業してから初めて会うくらい久しぶりだったと思います。
「桜子ちゃん、議員さんになったのー?人前で話すの、得意そうじゃないのにねー。特に選挙の時なんかつらいでしょう?」と同級生。
うーむ、的中だ…と思いつつ、「そうねぇ、どちらかと言えば何か企画したり原稿書いたりするほうが好きだから、私が原稿などを作る役をやって、別の人が人前に立つ役やってくれたらもっといいんだけどねぇ」と返事。
すると、同級生、ニコニコしながら、「そうよね、桜子ちゃん、学生の時、前のほうの席に座ってたくせに授業中に[今度文化祭で上映会やります]みたいな紙を回してたものねぇ。考えてみたら、失礼だったわよねぇ…」と(+_+)
あれれ、そうだったっけ・・・。そうだったかも・・・。
悪気はないんですけどね、何か一生懸命やろうとすると自分のペースで進める傾向が・・・(+_+)
議員になってからは、あんまり非常識なことをしないように心掛けているつもりなんですが、失礼なことをしていることがあったらすみません((+_+))
「ああ、そうかー、私、失礼だったかー」とブツブツ独り言を言いながら帰宅しました。
久々に同級生に会って動揺した、2月3日でした

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