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Weフォーラム報告その3
ここのところ、駅で配布する新しい区政レポートの原稿書きや議会の準備であたふたしていて、ブログの更新の間があいてしまいました。
前々回、前回に引き続き、Weフォーラムの報告を書きます。
8月9日、二本松と浜通りを見学する「Re:trip」を終えて、午後は郡山に戻り、シンポジウムに参加しました。
若い女性たちが登壇して、それぞれの活動について語り合うガールズトークカフェ「カワイイ×これからの暮らしを考える」です。

登壇者のおひとり、丹波なほ子さんは20歳の時からファッションモデルをやっているという方ですが、親御さんが始めた農業の手伝いをしたり、スポーツもやっていて、そういうことについてコラムを書くといった仕事もされています。
農業に関わる女性たちのグループ「田舎のヒロインズ」という活動もしていて、このシンポジウムにはその仲間たちと一緒に来たということでした。田舎のヒロインズのことはこちらのページが分かりやすいです。
次の登壇者、永野三智さんは熊本県水俣市で生まれ育ち、現在は水俣病センター相思社のスタッフとして活動されています。
水俣で生まれ育ったので小さいときから患者さんが近くにいるのが当たり前の環境でしたが、ある程度大きくなった時に、他の地域の人からは「水俣と言えば水俣病」というように見られるということを意識して、水俣出身であると言いづらく感じてしまった時期もあるそうです。
でもあるとき、小さい頃からずっとお世話になっていた恩師のご家族が実は水俣病であり、裁判もしていたということを知りました。ずっとお世話になっていた人が水俣病のことでつらい思いをしてきた当事者であったことを知らずにいたことがショックで、そのときにハタと、同じようなことが他にもあったのではないかと気づいたのだそうです。
ちょうどその頃、永野さんはあちこちを旅していて、旅先で知り合う人から水俣の美味しいもののこと、素敵な場所など、ポジティブなイメージを聞かせてもらうという経験もして、改めて「水俣」をとらえ直した時期だったそうです。
そんな経験をして、今は水俣病に関わる仕事をしていらっしゃいますが、永野さんが水俣病の問題に関わるようになってからだけでも6000人ほどの方が新たに水俣病の認定の申請をしたいと相談に訪れているそうです。
それは、体調が悪いとは思っていても、それが水俣病の症状であると気づいていない場合もあるし、たとえ気づいてはいても病気であると言うことによって差別されるのではないかと恐れている面もあるから。だから水俣病の問題が認識されてからこれだけの年月を経てもなお新たな申請が出てくるのかもしれない、ということです。
私は、かつて行ったことのある水俣の美しい風景を思い出しながら永野さんの話を聞いていました。(以前、水俣に行った時の様子はこちらのブログ(2009年11月の記事)をご覧ください。)
3番目の登壇者である曽田めぐみさんは「女子の暮らしの研究所」で活動している福島在住の若い女性です。ふだんは会社員として働いているそうですが、ふだん仕事をしているときと、休日にいろんな社会の課題を考える「女子の暮らしの研究所」の活動をしているときが、まるで別世界のように感じるという感想を話してくださいました。
それは、震災直後には1つだったはずの世界なんだけれども、いつの間にか2つに分かれてしまった感じがする、と。
ふだんの生活のほうでは、友人に原発のこととか、社会問題については話しづらい。重い話をすると友人関係が壊れてしまうのではないかと思ってしまう、と。でも自分にとってはどっちも大切な関係性なので、自分がしんどくならないように、どっちも大切にできる方法を考えていきたいとおっしゃっていました。
その方法として、女子の暮らしの研究所が関わって作っている「ふくいろピアス」など、カワイイものを紹介しながら、そこに込められた思いを知ってもらえたらいいな、と。
(ふくいろピアスは会津木綿を使った、いろんな色のかわいいピアスです。その色に、福島の女の子たちの思いが込められていて、その思いがホームページに書かれていますので、こちらをご覧ください。)
曽田さんがお話された、普段の生活の中での思いを聞いて、永野さんは「それは水俣でも感じることがある」と思ったそうです。
水俣でもふだんは水俣病のことは話しづらいときがある、と。
チッソは今でも水俣にあって、地域の発展に寄与してきた面があるし、「自分の家族もチッソで働けたら生活が安定して良いな」と思う人も多い。そんなまなざしで見られる大企業だから、チッソが加害者である水俣病の話はしづらいのだと。
また、水俣病は劇症型でないかぎり、手足の麻痺や視野狭窄などの症状が出ても見た目に分かるものではないから、「病気だなんてうそをついているのではないか」と言われてしまうこともあるし、住民の多くは正しい知識を知る機会を持たないままである、と。
ふだんの生活で恋バナをするように、もっと自然に、自分のこととして社会問題を語り合えるようになったらいいのに…
そんな、若い女性が語り合うシンポジウムでした。
シンポジウムが終わった後は、聞いていた参加者同士がグループに分かれ、「震災後に何を感じたか。それは今も変わらないか。変わらないとすればそれはなぜなのか。今後はどうしていきたいか。」を話し合いました。
私は震災直後は、「直後だけパニックになって不安になったりいろいろ自粛したりするんじゃなくて、何年たっても長く被災地とつながりを持っていけるようにしたいな」と考えていたし、その気持ちは今も変わらないということを思い起こしました。そしてこれから私にできることは、東北の美味しいものを食べて、友達と楽しく過ごしながらも、その中で今の福島のことや原発の今後のことも話し合えるようになったらいいなと思っていること。
そんな話を、参加者の皆さんと語り合ったひとときでした。
前々回、前回に引き続き、Weフォーラムの報告を書きます。
8月9日、二本松と浜通りを見学する「Re:trip」を終えて、午後は郡山に戻り、シンポジウムに参加しました。
若い女性たちが登壇して、それぞれの活動について語り合うガールズトークカフェ「カワイイ×これからの暮らしを考える」です。

登壇者のおひとり、丹波なほ子さんは20歳の時からファッションモデルをやっているという方ですが、親御さんが始めた農業の手伝いをしたり、スポーツもやっていて、そういうことについてコラムを書くといった仕事もされています。
農業に関わる女性たちのグループ「田舎のヒロインズ」という活動もしていて、このシンポジウムにはその仲間たちと一緒に来たということでした。田舎のヒロインズのことはこちらのページが分かりやすいです。
次の登壇者、永野三智さんは熊本県水俣市で生まれ育ち、現在は水俣病センター相思社のスタッフとして活動されています。
水俣で生まれ育ったので小さいときから患者さんが近くにいるのが当たり前の環境でしたが、ある程度大きくなった時に、他の地域の人からは「水俣と言えば水俣病」というように見られるということを意識して、水俣出身であると言いづらく感じてしまった時期もあるそうです。
でもあるとき、小さい頃からずっとお世話になっていた恩師のご家族が実は水俣病であり、裁判もしていたということを知りました。ずっとお世話になっていた人が水俣病のことでつらい思いをしてきた当事者であったことを知らずにいたことがショックで、そのときにハタと、同じようなことが他にもあったのではないかと気づいたのだそうです。
ちょうどその頃、永野さんはあちこちを旅していて、旅先で知り合う人から水俣の美味しいもののこと、素敵な場所など、ポジティブなイメージを聞かせてもらうという経験もして、改めて「水俣」をとらえ直した時期だったそうです。
そんな経験をして、今は水俣病に関わる仕事をしていらっしゃいますが、永野さんが水俣病の問題に関わるようになってからだけでも6000人ほどの方が新たに水俣病の認定の申請をしたいと相談に訪れているそうです。
それは、体調が悪いとは思っていても、それが水俣病の症状であると気づいていない場合もあるし、たとえ気づいてはいても病気であると言うことによって差別されるのではないかと恐れている面もあるから。だから水俣病の問題が認識されてからこれだけの年月を経てもなお新たな申請が出てくるのかもしれない、ということです。
私は、かつて行ったことのある水俣の美しい風景を思い出しながら永野さんの話を聞いていました。(以前、水俣に行った時の様子はこちらのブログ(2009年11月の記事)をご覧ください。)
3番目の登壇者である曽田めぐみさんは「女子の暮らしの研究所」で活動している福島在住の若い女性です。ふだんは会社員として働いているそうですが、ふだん仕事をしているときと、休日にいろんな社会の課題を考える「女子の暮らしの研究所」の活動をしているときが、まるで別世界のように感じるという感想を話してくださいました。
それは、震災直後には1つだったはずの世界なんだけれども、いつの間にか2つに分かれてしまった感じがする、と。
ふだんの生活のほうでは、友人に原発のこととか、社会問題については話しづらい。重い話をすると友人関係が壊れてしまうのではないかと思ってしまう、と。でも自分にとってはどっちも大切な関係性なので、自分がしんどくならないように、どっちも大切にできる方法を考えていきたいとおっしゃっていました。
その方法として、女子の暮らしの研究所が関わって作っている「ふくいろピアス」など、カワイイものを紹介しながら、そこに込められた思いを知ってもらえたらいいな、と。
(ふくいろピアスは会津木綿を使った、いろんな色のかわいいピアスです。その色に、福島の女の子たちの思いが込められていて、その思いがホームページに書かれていますので、こちらをご覧ください。)
曽田さんがお話された、普段の生活の中での思いを聞いて、永野さんは「それは水俣でも感じることがある」と思ったそうです。
水俣でもふだんは水俣病のことは話しづらいときがある、と。
チッソは今でも水俣にあって、地域の発展に寄与してきた面があるし、「自分の家族もチッソで働けたら生活が安定して良いな」と思う人も多い。そんなまなざしで見られる大企業だから、チッソが加害者である水俣病の話はしづらいのだと。
また、水俣病は劇症型でないかぎり、手足の麻痺や視野狭窄などの症状が出ても見た目に分かるものではないから、「病気だなんてうそをついているのではないか」と言われてしまうこともあるし、住民の多くは正しい知識を知る機会を持たないままである、と。
ふだんの生活で恋バナをするように、もっと自然に、自分のこととして社会問題を語り合えるようになったらいいのに…
そんな、若い女性が語り合うシンポジウムでした。
シンポジウムが終わった後は、聞いていた参加者同士がグループに分かれ、「震災後に何を感じたか。それは今も変わらないか。変わらないとすればそれはなぜなのか。今後はどうしていきたいか。」を話し合いました。
私は震災直後は、「直後だけパニックになって不安になったりいろいろ自粛したりするんじゃなくて、何年たっても長く被災地とつながりを持っていけるようにしたいな」と考えていたし、その気持ちは今も変わらないということを思い起こしました。そしてこれから私にできることは、東北の美味しいものを食べて、友達と楽しく過ごしながらも、その中で今の福島のことや原発の今後のことも話し合えるようになったらいいなと思っていること。
そんな話を、参加者の皆さんと語り合ったひとときでした。
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- 2014-08-29
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Weフォーラム報告その2
前回のブログに引き続き、8月初旬に出かけた福島の「Weフォーラム」のことを書きます。
8月9日の午前中は前日に引き続き、Weフォーラムのオプショナルツアー・「Re:trip」。
朝8時半に相馬の宿を出発し、飯舘村に向かいました。飯舘村は前日はバスで通っただけでしたが、この日は改めてじっくり見学させていただくためです。
飯舘村出身で30代前半の佐藤健太さんからお話を聞きました。

飯舘村は原発からは30~40キロ離れていますが、放射線量は高くなった地域です。原発からの距離によって避難指示が出されていたため、飯舘村は原発の近くの自治体と比べて避難の指示が遅れました。
飯舘村が全村避難することになったときには、避難できる先はかなり埋まっていて、住民が自分たちで避難場所を探さなければならないようなこともあったそうです。
佐藤さんの説明によれば、震災前の飯舘村の人口は約6200人、約1700世帯。3世帯で同居するというようなケースも多かったそうですが、避難生活は元住んでいた家のようにはスペースがとれないため、世帯が分離して(たとえばおじいちゃんおばあちゃんとは別に住む、など)別々に暮らすようになった人も多くて、今は約3200世帯に増えている状態だそうです。
小学校は村に3つあったそうですが、今は3つが合併する形で隣の川俣町に仮設校舎を作っているそうです。

(3つの小学校のうちの1つ)

(上の写真の小学校の、道を隔てた向かい側に除染作業によって生じた土などがシートをかぶって置かれています。
ここは、この周辺の26戸の家の屋根を拭く、表土をはぎ取るなどの除染を4か月間試行された場所だそうです。
写真は字が細かくて見えづらいですが、この写真の下の方の札には「先行除染業務に伴う除去物現地保管所 環境省」「空間放射線量率(地上1m)2.08μSv/h 測定日平成26年8月5日」とあります。)
(世帯の変化のことや帰村についての意向の調査結果は飯舘村のHPにも載っています。こちら)
飯舘村はもともとは田んぼや畑の多い地域で、トマト、大根、わらびなどを作っていたそうです。
住民は野菜は買わなくても自分たちの間で賄うことができたし、また村の約75%が森林という環境で、こどものころから山菜、きのことりをするのが日常だったそうです。

(畑があった場所の今の様子)
飯舘村は20の行政区に分かれているので、それぞれに除染したものの仮の仮置き場をつくよう言われているそうですが、今後帰村した場合、人が住むすぐそばに仮仮置き場がある状態になってしまうのも課題だと聞きました。
飯舘村の除染に現在つけられている予算は約3224億円だそうです。ちなみに人口約71万人の練馬区の今年度当初予算は2391億円強。除染という作業に膨大なお金もかかることを改めて考えさせられます。

(除染の作業をしているところ。)

(田んぼの中に置かれている黒い袋は、除染したものを集めて袋詰めしてあるのです。)
また、除染のための作業員は当初1日4000人くらい来ると言われていたそうですが、決して良いとは言えない労働環境のもと、人手の確保も大変なようで、実際には1日1500~3000人の作業員が村内で働いている状況だそうです。
大変な状況の中、佐藤さんが今やっている活動としては、一つには男性による演劇集団「ロメオパラディッソ」。そして、今回の原発事故の経緯を知ることのできる資料館を作りたいという思いを持っているというお話を聞きました。
田んぼや畑だった場所に雑草が生えてしまっている状況は住民の皆さんにとってはとてもつらいことだと思います。
私の親戚が長野に住んでいて、畑や田んぼも少しやっていますが、毎日の雑草取りが大変だと聞きます。毎日毎日大切にしてきた努力の結晶である畑や田んぼを放置せざるを得ず、草が生えてしまうことは、東京に住む私たちには想像を絶するものがあるのではないかと思います。
それでも美しい緑に囲まれた飯舘村を見学させていただいて、こんなに美しい場所に帰れない、その被害の大きさを改めて思いました。
それが原発事故という人災だったことを、私たちは今後の教訓にしなければいけないはずです。
この日の午後は郡山に移動し、「Weフォーラム」の本編であるシンポジウムが行われました。
その様子はまた次回。
8月9日の午前中は前日に引き続き、Weフォーラムのオプショナルツアー・「Re:trip」。
朝8時半に相馬の宿を出発し、飯舘村に向かいました。飯舘村は前日はバスで通っただけでしたが、この日は改めてじっくり見学させていただくためです。
飯舘村出身で30代前半の佐藤健太さんからお話を聞きました。

飯舘村は原発からは30~40キロ離れていますが、放射線量は高くなった地域です。原発からの距離によって避難指示が出されていたため、飯舘村は原発の近くの自治体と比べて避難の指示が遅れました。
飯舘村が全村避難することになったときには、避難できる先はかなり埋まっていて、住民が自分たちで避難場所を探さなければならないようなこともあったそうです。
佐藤さんの説明によれば、震災前の飯舘村の人口は約6200人、約1700世帯。3世帯で同居するというようなケースも多かったそうですが、避難生活は元住んでいた家のようにはスペースがとれないため、世帯が分離して(たとえばおじいちゃんおばあちゃんとは別に住む、など)別々に暮らすようになった人も多くて、今は約3200世帯に増えている状態だそうです。
小学校は村に3つあったそうですが、今は3つが合併する形で隣の川俣町に仮設校舎を作っているそうです。

(3つの小学校のうちの1つ)

(上の写真の小学校の、道を隔てた向かい側に除染作業によって生じた土などがシートをかぶって置かれています。
ここは、この周辺の26戸の家の屋根を拭く、表土をはぎ取るなどの除染を4か月間試行された場所だそうです。
写真は字が細かくて見えづらいですが、この写真の下の方の札には「先行除染業務に伴う除去物現地保管所 環境省」「空間放射線量率(地上1m)2.08μSv/h 測定日平成26年8月5日」とあります。)
(世帯の変化のことや帰村についての意向の調査結果は飯舘村のHPにも載っています。こちら)
飯舘村はもともとは田んぼや畑の多い地域で、トマト、大根、わらびなどを作っていたそうです。
住民は野菜は買わなくても自分たちの間で賄うことができたし、また村の約75%が森林という環境で、こどものころから山菜、きのことりをするのが日常だったそうです。

(畑があった場所の今の様子)
飯舘村は20の行政区に分かれているので、それぞれに除染したものの仮の仮置き場をつくよう言われているそうですが、今後帰村した場合、人が住むすぐそばに仮仮置き場がある状態になってしまうのも課題だと聞きました。
飯舘村の除染に現在つけられている予算は約3224億円だそうです。ちなみに人口約71万人の練馬区の今年度当初予算は2391億円強。除染という作業に膨大なお金もかかることを改めて考えさせられます。

(除染の作業をしているところ。)

(田んぼの中に置かれている黒い袋は、除染したものを集めて袋詰めしてあるのです。)
また、除染のための作業員は当初1日4000人くらい来ると言われていたそうですが、決して良いとは言えない労働環境のもと、人手の確保も大変なようで、実際には1日1500~3000人の作業員が村内で働いている状況だそうです。
大変な状況の中、佐藤さんが今やっている活動としては、一つには男性による演劇集団「ロメオパラディッソ」。そして、今回の原発事故の経緯を知ることのできる資料館を作りたいという思いを持っているというお話を聞きました。
田んぼや畑だった場所に雑草が生えてしまっている状況は住民の皆さんにとってはとてもつらいことだと思います。
私の親戚が長野に住んでいて、畑や田んぼも少しやっていますが、毎日の雑草取りが大変だと聞きます。毎日毎日大切にしてきた努力の結晶である畑や田んぼを放置せざるを得ず、草が生えてしまうことは、東京に住む私たちには想像を絶するものがあるのではないかと思います。
それでも美しい緑に囲まれた飯舘村を見学させていただいて、こんなに美しい場所に帰れない、その被害の大きさを改めて思いました。
それが原発事故という人災だったことを、私たちは今後の教訓にしなければいけないはずです。
この日の午後は郡山に移動し、「Weフォーラム」の本編であるシンポジウムが行われました。
その様子はまた次回。
- 2014-08-21
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Weフォーラム報告その1
8月8日から10日まで「Weフォーラム」に参加するため、福島県郡山市に出かけていました。何回かに分けて、その内容をご報告します。
ちなみに、今回の旅費、参加費も政務活動費などではなくて自費です。
Weフォーラムは、私が連載をしている雑誌「We」が声をかけて実行委員会で企画を立てながら実施しているイベント。今回は福島で活動している「女子の暮らしの研究所」「peach heart」と共催でした。たくさんの出会いがある、もりだくさんな内容でした。
まず、8月8日の昼から9日の昼まではフォーラムのオプショナルツアーとして、「女子の暮らしの研究所」が実施するスタディツアー「Re:trip」に参加しました。
今回のブログでは8月8日の様子をご紹介します。
8日の昼過ぎに雨降る郡山駅で集合し、1台のバスに乗り込んだ私たちは、まず二本松市東和地区に向かいました。

(ツアーについていろいろと説明してくれる、「女子の暮らしの研究所」の日塔マキさん。)
東和地区は平成の大合併で二本松市になった地域で、桑畑と棚田が特徴だそうです。
東和地区の道の駅に到着し、きぼうのたねカンパニーの菅野瑞穂さんからお話を聞きました。
菅野さんは20代の女性です。大学卒業後の2010年、実家の農業を継ぐために二本松に戻ってきて、農業で東和地区の特徴を出していこうと頑張っていらっしゃいます。
たとえば有機農業やグリーンツーリズム(農業に触れ合うことを目的とした旅の企画)。
養蚕が衰退した今、桑畑を活用するために桑の実を名産として売り出すなどもしているそうです。

山に近いところはまだ放射線量の高い地域もあるけれど、粘土質で有機物の多い土からは、放射性物質はほとんど農作物に移行しないという結果が出ており、そのことは多くの人に知ってほしいとおっしゃっていました。
東和地区を後にして、私たちのバスは飯舘村を通って南相馬に向かいました。

飯舘村は今は住民が避難して住んでいないため、かつて田んぼだった土地には草が生い茂っています。
南相馬では小高ワーカーズベースの和田智行さんと合流し、バスで移動して南相馬のまちの中を見ながら話を聞かせてもらいました。
南相馬市の小高地区出身の和田さんは震災前、東京にプログラマーとしての仕事の拠点を置きつつ、2005年に南相馬に戻って生活をしていたそうです。
震災当時、和田さんには2人の小さなこどもがいたため、関東に避難してしばらく暮らしていました。仕事の拠点はもともと東京にあったので、その点では大きな変化なく仕事を続けられていたけれども、自分の故郷が大変な状態になったのに今までと変わらない仕事をすることに違和感を持ち、現在は会津若松市に住んで南相馬の復興のために働いているのだそうです。

和田さんは将来、家族と一緒に小高に帰ろうと話しあっているのだそうです。だから、こどもにとって小高が誇りに思える故郷になるようにと頑張っているのだ、と。
放射線量は落ちてきているそうですが、原発事故からすでに3年を超える時間が経ち、誰も住まない家は荒れてしまっている場合があります。
泥棒が入ってしまったり、その後開けっ放しになった家に動物が住み着いてしまうようなこともあるそうで、そんな中で、帰るかどうか悩む人も多いようです。たとえ戻ろうと決意しても、大工さんの仕事がめいっぱいで、家の修理を実際に頼めるのは何年も先になってしまいそうだという現実もあります。
今、人が住んでいない原発20キロ圏内には、津波で壊れた建物などもまだ残されています。
私たちは海沿いに行きましたが、ここはだいたい原発から15キロほど離れた場所だと聞きました。



(遠くに見える、崖のようになったところの先に、原発があるそうです。)

和田さんとその仲間たちは今、小高に帰った時の仕事づくりを考えているそうです。
そのひとつが養蚕と織物。
近年、養蚕はほとんど行われない状態になっていたけれど、年輩の人たちはこどもの頃に家で養蚕がおこなわれていた記憶がある。農業はなかなか難しいという中で、養蚕に可能性があるのではないかと、現在実験してみているところだということでした。

小高駅前の駐輪場には自転車が停められたままになっています。(写真は雨が降っていて見えづらいですが、右奥の方が駐輪場です。)
これは2011年3月11日、高校生たちが通学のために泊めて行った自転車。その後震災が起きて避難を余儀なくされ、そのまま取りに来られなくなってしまった自転車です。
まちに若い人が戻れない状況が続いているために、コンビニやファストフード店などのバイトの人手不足も起きているという、日常生活の問題もお聞きしました。
1時間強、南相馬の見学とお話をお聞きした後、宿泊先である相馬市松川浦の宿「なぎさの奏 夕鶴」へ向かいました。
宿で夕飯をいただきながら、相馬市議会議員の新妻香織さんのお話を聞きました。
新妻さんはもともと旅行関係の仕事をしていたことから始まり、アフリカの緑化活動をしてきた経験のある方です。
新妻さんはアフリカから故郷・福島に戻ってきた後、原発の問題にも関心を寄せてきたそうですが、当時の福島県知事・佐藤栄佐久さんが原発の問題について声をあげていたのに不当逮捕されてしまい、その後の知事は原発について何も意見を言わなくなってしまった。
そんな中で2010年秋にプルサーマルの運転が始まって、そして原発事故が起きたので事故はより深刻なものになってしまった。そのプロセスを見ていながら事故が起こるまで止められなかったことをくやしく思っている、と聞かせてくださいました。

新妻さんは震災と原発事故を経た現在、いくつかの新しい活動を始めているということでした。
ひとつには、津波の到達地点に神社が多くあり、そこにかつて津波が来たことを知らせる意味で神社を作ってきたという可能性がある。それらを巡礼して震災のことを考えるきっかけにしたいという「東北お遍路(こころのみち)」。
そして太陽光をはじめとする自然エネルギーへの転換を目指す「ふくしま市民発電」の活動です。
原発事故を経て、福島から転換しなければならない!との思いで諦めずに頑張っていきたいというお話を聞きました。
私は震災以降、宮城県内と福島県の中通りに行くことは時々ありましたが、浜通りの地域に行くのは今回が初めてでした。
原発の影響によって津波の被害からの復旧もままならない様子を見て、目には見えない放射性物質の問題を改めて感じました。
また、浜通りでなんとか生活を立て直したい、大好きな故郷を復興させたいと頑張っている人たちのお話を聞いて、実際に行って当事者の話を聞くことの大切さをしみじみ感じました。
どうしてもニュースなどで見るときには、ひとりひとりの人というよりも地域全体、原発のことというマクロなレベルでの話に意識が向くけれど、そこで暮らしていた人にとっては、どこで暮らすか、何を食べるか、仕事はどうするか、買い物はどこでするか、という、あたりまえの日常の問題であることをしみじみ感じましたし、私たちもそういう日常のレベルから福島のことを一緒に考えていきたいと改めて思った、そんな1日目でした。
ちなみに、今回の旅費、参加費も政務活動費などではなくて自費です。
Weフォーラムは、私が連載をしている雑誌「We」が声をかけて実行委員会で企画を立てながら実施しているイベント。今回は福島で活動している「女子の暮らしの研究所」「peach heart」と共催でした。たくさんの出会いがある、もりだくさんな内容でした。
まず、8月8日の昼から9日の昼まではフォーラムのオプショナルツアーとして、「女子の暮らしの研究所」が実施するスタディツアー「Re:trip」に参加しました。
今回のブログでは8月8日の様子をご紹介します。
8日の昼過ぎに雨降る郡山駅で集合し、1台のバスに乗り込んだ私たちは、まず二本松市東和地区に向かいました。

(ツアーについていろいろと説明してくれる、「女子の暮らしの研究所」の日塔マキさん。)
東和地区は平成の大合併で二本松市になった地域で、桑畑と棚田が特徴だそうです。
東和地区の道の駅に到着し、きぼうのたねカンパニーの菅野瑞穂さんからお話を聞きました。
菅野さんは20代の女性です。大学卒業後の2010年、実家の農業を継ぐために二本松に戻ってきて、農業で東和地区の特徴を出していこうと頑張っていらっしゃいます。
たとえば有機農業やグリーンツーリズム(農業に触れ合うことを目的とした旅の企画)。
養蚕が衰退した今、桑畑を活用するために桑の実を名産として売り出すなどもしているそうです。

山に近いところはまだ放射線量の高い地域もあるけれど、粘土質で有機物の多い土からは、放射性物質はほとんど農作物に移行しないという結果が出ており、そのことは多くの人に知ってほしいとおっしゃっていました。
東和地区を後にして、私たちのバスは飯舘村を通って南相馬に向かいました。

飯舘村は今は住民が避難して住んでいないため、かつて田んぼだった土地には草が生い茂っています。
南相馬では小高ワーカーズベースの和田智行さんと合流し、バスで移動して南相馬のまちの中を見ながら話を聞かせてもらいました。
南相馬市の小高地区出身の和田さんは震災前、東京にプログラマーとしての仕事の拠点を置きつつ、2005年に南相馬に戻って生活をしていたそうです。
震災当時、和田さんには2人の小さなこどもがいたため、関東に避難してしばらく暮らしていました。仕事の拠点はもともと東京にあったので、その点では大きな変化なく仕事を続けられていたけれども、自分の故郷が大変な状態になったのに今までと変わらない仕事をすることに違和感を持ち、現在は会津若松市に住んで南相馬の復興のために働いているのだそうです。

和田さんは将来、家族と一緒に小高に帰ろうと話しあっているのだそうです。だから、こどもにとって小高が誇りに思える故郷になるようにと頑張っているのだ、と。
放射線量は落ちてきているそうですが、原発事故からすでに3年を超える時間が経ち、誰も住まない家は荒れてしまっている場合があります。
泥棒が入ってしまったり、その後開けっ放しになった家に動物が住み着いてしまうようなこともあるそうで、そんな中で、帰るかどうか悩む人も多いようです。たとえ戻ろうと決意しても、大工さんの仕事がめいっぱいで、家の修理を実際に頼めるのは何年も先になってしまいそうだという現実もあります。
今、人が住んでいない原発20キロ圏内には、津波で壊れた建物などもまだ残されています。
私たちは海沿いに行きましたが、ここはだいたい原発から15キロほど離れた場所だと聞きました。



(遠くに見える、崖のようになったところの先に、原発があるそうです。)

和田さんとその仲間たちは今、小高に帰った時の仕事づくりを考えているそうです。
そのひとつが養蚕と織物。
近年、養蚕はほとんど行われない状態になっていたけれど、年輩の人たちはこどもの頃に家で養蚕がおこなわれていた記憶がある。農業はなかなか難しいという中で、養蚕に可能性があるのではないかと、現在実験してみているところだということでした。

小高駅前の駐輪場には自転車が停められたままになっています。(写真は雨が降っていて見えづらいですが、右奥の方が駐輪場です。)
これは2011年3月11日、高校生たちが通学のために泊めて行った自転車。その後震災が起きて避難を余儀なくされ、そのまま取りに来られなくなってしまった自転車です。
まちに若い人が戻れない状況が続いているために、コンビニやファストフード店などのバイトの人手不足も起きているという、日常生活の問題もお聞きしました。
1時間強、南相馬の見学とお話をお聞きした後、宿泊先である相馬市松川浦の宿「なぎさの奏 夕鶴」へ向かいました。
宿で夕飯をいただきながら、相馬市議会議員の新妻香織さんのお話を聞きました。
新妻さんはもともと旅行関係の仕事をしていたことから始まり、アフリカの緑化活動をしてきた経験のある方です。
新妻さんはアフリカから故郷・福島に戻ってきた後、原発の問題にも関心を寄せてきたそうですが、当時の福島県知事・佐藤栄佐久さんが原発の問題について声をあげていたのに不当逮捕されてしまい、その後の知事は原発について何も意見を言わなくなってしまった。
そんな中で2010年秋にプルサーマルの運転が始まって、そして原発事故が起きたので事故はより深刻なものになってしまった。そのプロセスを見ていながら事故が起こるまで止められなかったことをくやしく思っている、と聞かせてくださいました。

新妻さんは震災と原発事故を経た現在、いくつかの新しい活動を始めているということでした。
ひとつには、津波の到達地点に神社が多くあり、そこにかつて津波が来たことを知らせる意味で神社を作ってきたという可能性がある。それらを巡礼して震災のことを考えるきっかけにしたいという「東北お遍路(こころのみち)」。
そして太陽光をはじめとする自然エネルギーへの転換を目指す「ふくしま市民発電」の活動です。
原発事故を経て、福島から転換しなければならない!との思いで諦めずに頑張っていきたいというお話を聞きました。
私は震災以降、宮城県内と福島県の中通りに行くことは時々ありましたが、浜通りの地域に行くのは今回が初めてでした。
原発の影響によって津波の被害からの復旧もままならない様子を見て、目には見えない放射性物質の問題を改めて感じました。
また、浜通りでなんとか生活を立て直したい、大好きな故郷を復興させたいと頑張っている人たちのお話を聞いて、実際に行って当事者の話を聞くことの大切さをしみじみ感じました。
どうしてもニュースなどで見るときには、ひとりひとりの人というよりも地域全体、原発のことというマクロなレベルでの話に意識が向くけれど、そこで暮らしていた人にとっては、どこで暮らすか、何を食べるか、仕事はどうするか、買い物はどこでするか、という、あたりまえの日常の問題であることをしみじみ感じましたし、私たちもそういう日常のレベルから福島のことを一緒に考えていきたいと改めて思った、そんな1日目でした。
- 2014-08-16
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結婚しました
突然、私事ですが、2014年8月11日に南相馬市役所に婚姻届を出して、結婚しました。(本籍、住所は大泉学園町です。)
夫になった人は東日本大震災で被災した地域の応援をする活動の中で知り合った人なので、南相馬をはじめ、夫の縁ある場所を訪ねて歩いてきました。
ちなみに私は住まいも苗字も変わらないです。来年落選しなければ、ですが、仕事もこれからも続けたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします♪

夫になった人は東日本大震災で被災した地域の応援をする活動の中で知り合った人なので、南相馬をはじめ、夫の縁ある場所を訪ねて歩いてきました。
ちなみに私は住まいも苗字も変わらないです。来年落選しなければ、ですが、仕事もこれからも続けたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします♪

- 2014-08-15
- カテゴリ : 未分類
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7月16,17日に気仙沼に行ってきました。
これもまたご報告が遅くなりましたが、7月16日、17日の2日間、宮城県気仙沼に出かけてきました。
行ってきた様子のご報告の前に、最近、議員が政務活動費を実態がないと思われる旅費に使っていた問題が話題になったので、今回の私の旅費について書いておきます。
私は基本的には交通費等はどこに行くにも政務活動費を使わず自費で行っているのですが(研修や視察に行くときの交通費は出しても良いものだと思いますが、私はそうしていない)、福島・宮城に行く時も費用は全部自費です。区民の皆さんをお誘いしてみんなで気仙沼ツアーをする時にも、市民ふくしフォーラムの費用からも出しておらず、全額参加者が実費負担をしています。
さて、内容のご報告です。
気仙沼は2011年夏に初めて訪れて以来、特に南町紫市場という仮説商店街の方と交流を続けています。
初めて訪れた時はまだ避難所がようやく終了したころで、商店街もできていませんでした。
南町紫市場は2011年12月にオープンしました。仮設といってもオープンさせるためには一定の費用や物理的な負担がかかる。その負担をできるだけ抑えて本設移行の力をつけられるようにと、商店街を中心に支えている坂本さんが努力をされて、助成金に応募したりカンパを募るなどをしながら店舗の家賃などの費用負担を抑えられるようにがんばっていらっしゃいます。
そんな大変なご苦労をお聞きしていたので、2011年12月に商店街がオープンしてから私も皆さんによびかけてカンパを募り、お送りしています。
時折実際に出かけて最近の気仙沼の様子を拝見し、交流をするという活動も続けています。
前回、区民の皆さんをお誘いして気仙沼に行ったのは1月のことでした。半年の時間がたちましたので、最近の様子をまた見て皆さんに報告し、そして次の気仙沼ツアーで訪れる場所を考えてこようということで、今回は一人で出かけてきました。(一人で行ったので私が写ってる写真がないのですが…)

これが南町紫市場の建物。現在54店舗が営業中。本設の商店街の計画が具体的に進められてきているので、現在は商店街をどのようなものにしていくか、話し合いがおこなわれていると伺いました。

こちらは紫市場から少しのぼったところにある紫神社の境内にある集会所「紫会館」。震災後は夏まで地域の人の自主的な運営による避難所になっていました。「紫市場」の名前も、ここから来ているんですね。
私が初めて訪ねた2011年8月は避難所がすでに閉鎖されていたので、ここに泊めさせていただきました。


街の中はかさあげの工事が進められています。気仙沼は津波の被害のほかに広範囲にわたって地盤沈下が起きているので、復興のまちづくりを進めるためにはまずは土地のかさ上げをしなければならないのです。街の中はトラックがたくさん走っていました。

今回は、リアス・アーク美術館というところにも行ってきました。
南町紫市場からは車で15分くらいの距離にあるので、今まで行く機会を持てず、今回初めて行きましたが、とてもよかったです。
大昔からの気仙沼の漁業や食文化、生活のことなどをまとめた民俗資料の展示は、手描きの絵なども交えたとても分かりやすい興味深い展示でした。
また、東日本大震災の時の写真や、被災した人から話を聞いてまとめた文章の展示などもすごくよかったです。一人一人の声が記されているものを読んで、震災がどれだけ一人一人の人生に影響を与えたかを改めて感じました。
私は閉館前の1時間、見てきましたが、この2つの展示を見るのには時間が足りませんでした。じっくり読むには2時間くらいあったほうがよさそうです。
本当に良い展示でしたので、気仙沼にお立ち寄りのときはぜひ行ってみてください。
今度、私が皆さんをお誘いするツアーをやる時にも、ここはぜひ行きたいと思いました。
南町紫市場は12月でオープンから丸3年になります。その時期にまた伺いたいと心に決めて帰ってきました。
行ってきた様子のご報告の前に、最近、議員が政務活動費を実態がないと思われる旅費に使っていた問題が話題になったので、今回の私の旅費について書いておきます。
私は基本的には交通費等はどこに行くにも政務活動費を使わず自費で行っているのですが(研修や視察に行くときの交通費は出しても良いものだと思いますが、私はそうしていない)、福島・宮城に行く時も費用は全部自費です。区民の皆さんをお誘いしてみんなで気仙沼ツアーをする時にも、市民ふくしフォーラムの費用からも出しておらず、全額参加者が実費負担をしています。
さて、内容のご報告です。
気仙沼は2011年夏に初めて訪れて以来、特に南町紫市場という仮説商店街の方と交流を続けています。
初めて訪れた時はまだ避難所がようやく終了したころで、商店街もできていませんでした。
南町紫市場は2011年12月にオープンしました。仮設といってもオープンさせるためには一定の費用や物理的な負担がかかる。その負担をできるだけ抑えて本設移行の力をつけられるようにと、商店街を中心に支えている坂本さんが努力をされて、助成金に応募したりカンパを募るなどをしながら店舗の家賃などの費用負担を抑えられるようにがんばっていらっしゃいます。
そんな大変なご苦労をお聞きしていたので、2011年12月に商店街がオープンしてから私も皆さんによびかけてカンパを募り、お送りしています。
時折実際に出かけて最近の気仙沼の様子を拝見し、交流をするという活動も続けています。
前回、区民の皆さんをお誘いして気仙沼に行ったのは1月のことでした。半年の時間がたちましたので、最近の様子をまた見て皆さんに報告し、そして次の気仙沼ツアーで訪れる場所を考えてこようということで、今回は一人で出かけてきました。(一人で行ったので私が写ってる写真がないのですが…)

これが南町紫市場の建物。現在54店舗が営業中。本設の商店街の計画が具体的に進められてきているので、現在は商店街をどのようなものにしていくか、話し合いがおこなわれていると伺いました。

こちらは紫市場から少しのぼったところにある紫神社の境内にある集会所「紫会館」。震災後は夏まで地域の人の自主的な運営による避難所になっていました。「紫市場」の名前も、ここから来ているんですね。
私が初めて訪ねた2011年8月は避難所がすでに閉鎖されていたので、ここに泊めさせていただきました。


街の中はかさあげの工事が進められています。気仙沼は津波の被害のほかに広範囲にわたって地盤沈下が起きているので、復興のまちづくりを進めるためにはまずは土地のかさ上げをしなければならないのです。街の中はトラックがたくさん走っていました。

今回は、リアス・アーク美術館というところにも行ってきました。
南町紫市場からは車で15分くらいの距離にあるので、今まで行く機会を持てず、今回初めて行きましたが、とてもよかったです。
大昔からの気仙沼の漁業や食文化、生活のことなどをまとめた民俗資料の展示は、手描きの絵なども交えたとても分かりやすい興味深い展示でした。
また、東日本大震災の時の写真や、被災した人から話を聞いてまとめた文章の展示などもすごくよかったです。一人一人の声が記されているものを読んで、震災がどれだけ一人一人の人生に影響を与えたかを改めて感じました。
私は閉館前の1時間、見てきましたが、この2つの展示を見るのには時間が足りませんでした。じっくり読むには2時間くらいあったほうがよさそうです。
本当に良い展示でしたので、気仙沼にお立ち寄りのときはぜひ行ってみてください。
今度、私が皆さんをお誘いするツアーをやる時にも、ここはぜひ行きたいと思いました。
南町紫市場は12月でオープンから丸3年になります。その時期にまた伺いたいと心に決めて帰ってきました。
- 2014-08-02
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横浜市の「めぐカフェ」視察
ブログの更新がずいぶん間あいてしまいました。
今回のブログでは、7月15日に横浜市の男女共同参画センターで実施している「めぐカフェ」の事業を視察してきた様子をご紹介します。
会派を一緒に組んでいる議員さんと5人で、横浜市の南太田という駅の近くにある施設「男女共同参画センター横浜南(フォーラム南太田)」に伺いました。

この施設では、例えばさまざまな講座がおこなわれていたり、依存症やDVの被害体験など様々課題を抱えた人同士の自助グループをおこなうなどの活動がありますが、この施設の1階に喫茶スペース「めぐカフェ」があります。

(めぐカフェで紫蘇ジュースをいただきました。)
「めぐカフェ」は2010年にオープンしたカフェで、若い女性のための就労支援の場になっています。
行政が実施している女性への支援はたとえば子育て支援、結婚・出産を機に仕事をやめた女性が復職するための講座などのサポート、DV被害者支援などがありますが、結婚していない若い世代の女性を対象にした事業はあまり考えられてきませんでした。そもそも、困りごとを抱えているかどうかの把握すらおこなわれてこなかったといえます。
そこで横浜市では2008年に若い女性の状況調査をおこないました。そして調査の中で、生活や健康面での課題を抱えて孤立する若い女性が多くいることを把握しました。しかし一方で結婚していない女性の場合「家事手伝い」と位置づけられて、ひきこもっている状態すらも把握されることなく、サポートから外れてしまうのです。若い人のための就労支援策として国は「若者サポートステーション」という事業を実施していて横浜でもやってはいるのですが、女性の参加は少なかった(男女比が7対3)ということもあり、別途、女性のための支援を始めたという経過があったそうです。
「めぐカフェ」は現在、月曜から木曜の11時30分~16時に営業。就労支援の講座を受講し終えた女性たちが実習生として訓練を受けています。
今まで、困りごとそのものが把握されていなかったことに光を当てていくことはとても大切だと考えます。
練馬区も石神井に男女共同参画センターがあります。そこで取り組むべき課題として提案していきたいと思います。

(会派の皆さんと一緒に。)
今回のブログでは、7月15日に横浜市の男女共同参画センターで実施している「めぐカフェ」の事業を視察してきた様子をご紹介します。
会派を一緒に組んでいる議員さんと5人で、横浜市の南太田という駅の近くにある施設「男女共同参画センター横浜南(フォーラム南太田)」に伺いました。

この施設では、例えばさまざまな講座がおこなわれていたり、依存症やDVの被害体験など様々課題を抱えた人同士の自助グループをおこなうなどの活動がありますが、この施設の1階に喫茶スペース「めぐカフェ」があります。

(めぐカフェで紫蘇ジュースをいただきました。)
「めぐカフェ」は2010年にオープンしたカフェで、若い女性のための就労支援の場になっています。
行政が実施している女性への支援はたとえば子育て支援、結婚・出産を機に仕事をやめた女性が復職するための講座などのサポート、DV被害者支援などがありますが、結婚していない若い世代の女性を対象にした事業はあまり考えられてきませんでした。そもそも、困りごとを抱えているかどうかの把握すらおこなわれてこなかったといえます。
そこで横浜市では2008年に若い女性の状況調査をおこないました。そして調査の中で、生活や健康面での課題を抱えて孤立する若い女性が多くいることを把握しました。しかし一方で結婚していない女性の場合「家事手伝い」と位置づけられて、ひきこもっている状態すらも把握されることなく、サポートから外れてしまうのです。若い人のための就労支援策として国は「若者サポートステーション」という事業を実施していて横浜でもやってはいるのですが、女性の参加は少なかった(男女比が7対3)ということもあり、別途、女性のための支援を始めたという経過があったそうです。
「めぐカフェ」は現在、月曜から木曜の11時30分~16時に営業。就労支援の講座を受講し終えた女性たちが実習生として訓練を受けています。
今まで、困りごとそのものが把握されていなかったことに光を当てていくことはとても大切だと考えます。
練馬区も石神井に男女共同参画センターがあります。そこで取り組むべき課題として提案していきたいと思います。

(会派の皆さんと一緒に。)
- 2014-08-01
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