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Weフォーラム報告その2
前回のブログに引き続き、8月初旬に出かけた福島の「Weフォーラム」のことを書きます。
8月9日の午前中は前日に引き続き、Weフォーラムのオプショナルツアー・「Re:trip」。
朝8時半に相馬の宿を出発し、飯舘村に向かいました。飯舘村は前日はバスで通っただけでしたが、この日は改めてじっくり見学させていただくためです。
飯舘村出身で30代前半の佐藤健太さんからお話を聞きました。

飯舘村は原発からは30~40キロ離れていますが、放射線量は高くなった地域です。原発からの距離によって避難指示が出されていたため、飯舘村は原発の近くの自治体と比べて避難の指示が遅れました。
飯舘村が全村避難することになったときには、避難できる先はかなり埋まっていて、住民が自分たちで避難場所を探さなければならないようなこともあったそうです。
佐藤さんの説明によれば、震災前の飯舘村の人口は約6200人、約1700世帯。3世帯で同居するというようなケースも多かったそうですが、避難生活は元住んでいた家のようにはスペースがとれないため、世帯が分離して(たとえばおじいちゃんおばあちゃんとは別に住む、など)別々に暮らすようになった人も多くて、今は約3200世帯に増えている状態だそうです。
小学校は村に3つあったそうですが、今は3つが合併する形で隣の川俣町に仮設校舎を作っているそうです。

(3つの小学校のうちの1つ)

(上の写真の小学校の、道を隔てた向かい側に除染作業によって生じた土などがシートをかぶって置かれています。
ここは、この周辺の26戸の家の屋根を拭く、表土をはぎ取るなどの除染を4か月間試行された場所だそうです。
写真は字が細かくて見えづらいですが、この写真の下の方の札には「先行除染業務に伴う除去物現地保管所 環境省」「空間放射線量率(地上1m)2.08μSv/h 測定日平成26年8月5日」とあります。)
(世帯の変化のことや帰村についての意向の調査結果は飯舘村のHPにも載っています。こちら)
飯舘村はもともとは田んぼや畑の多い地域で、トマト、大根、わらびなどを作っていたそうです。
住民は野菜は買わなくても自分たちの間で賄うことができたし、また村の約75%が森林という環境で、こどものころから山菜、きのことりをするのが日常だったそうです。

(畑があった場所の今の様子)
飯舘村は20の行政区に分かれているので、それぞれに除染したものの仮の仮置き場をつくよう言われているそうですが、今後帰村した場合、人が住むすぐそばに仮仮置き場がある状態になってしまうのも課題だと聞きました。
飯舘村の除染に現在つけられている予算は約3224億円だそうです。ちなみに人口約71万人の練馬区の今年度当初予算は2391億円強。除染という作業に膨大なお金もかかることを改めて考えさせられます。

(除染の作業をしているところ。)

(田んぼの中に置かれている黒い袋は、除染したものを集めて袋詰めしてあるのです。)
また、除染のための作業員は当初1日4000人くらい来ると言われていたそうですが、決して良いとは言えない労働環境のもと、人手の確保も大変なようで、実際には1日1500~3000人の作業員が村内で働いている状況だそうです。
大変な状況の中、佐藤さんが今やっている活動としては、一つには男性による演劇集団「ロメオパラディッソ」。そして、今回の原発事故の経緯を知ることのできる資料館を作りたいという思いを持っているというお話を聞きました。
田んぼや畑だった場所に雑草が生えてしまっている状況は住民の皆さんにとってはとてもつらいことだと思います。
私の親戚が長野に住んでいて、畑や田んぼも少しやっていますが、毎日の雑草取りが大変だと聞きます。毎日毎日大切にしてきた努力の結晶である畑や田んぼを放置せざるを得ず、草が生えてしまうことは、東京に住む私たちには想像を絶するものがあるのではないかと思います。
それでも美しい緑に囲まれた飯舘村を見学させていただいて、こんなに美しい場所に帰れない、その被害の大きさを改めて思いました。
それが原発事故という人災だったことを、私たちは今後の教訓にしなければいけないはずです。
この日の午後は郡山に移動し、「Weフォーラム」の本編であるシンポジウムが行われました。
その様子はまた次回。
8月9日の午前中は前日に引き続き、Weフォーラムのオプショナルツアー・「Re:trip」。
朝8時半に相馬の宿を出発し、飯舘村に向かいました。飯舘村は前日はバスで通っただけでしたが、この日は改めてじっくり見学させていただくためです。
飯舘村出身で30代前半の佐藤健太さんからお話を聞きました。

飯舘村は原発からは30~40キロ離れていますが、放射線量は高くなった地域です。原発からの距離によって避難指示が出されていたため、飯舘村は原発の近くの自治体と比べて避難の指示が遅れました。
飯舘村が全村避難することになったときには、避難できる先はかなり埋まっていて、住民が自分たちで避難場所を探さなければならないようなこともあったそうです。
佐藤さんの説明によれば、震災前の飯舘村の人口は約6200人、約1700世帯。3世帯で同居するというようなケースも多かったそうですが、避難生活は元住んでいた家のようにはスペースがとれないため、世帯が分離して(たとえばおじいちゃんおばあちゃんとは別に住む、など)別々に暮らすようになった人も多くて、今は約3200世帯に増えている状態だそうです。
小学校は村に3つあったそうですが、今は3つが合併する形で隣の川俣町に仮設校舎を作っているそうです。

(3つの小学校のうちの1つ)

(上の写真の小学校の、道を隔てた向かい側に除染作業によって生じた土などがシートをかぶって置かれています。
ここは、この周辺の26戸の家の屋根を拭く、表土をはぎ取るなどの除染を4か月間試行された場所だそうです。
写真は字が細かくて見えづらいですが、この写真の下の方の札には「先行除染業務に伴う除去物現地保管所 環境省」「空間放射線量率(地上1m)2.08μSv/h 測定日平成26年8月5日」とあります。)
(世帯の変化のことや帰村についての意向の調査結果は飯舘村のHPにも載っています。こちら)
飯舘村はもともとは田んぼや畑の多い地域で、トマト、大根、わらびなどを作っていたそうです。
住民は野菜は買わなくても自分たちの間で賄うことができたし、また村の約75%が森林という環境で、こどものころから山菜、きのことりをするのが日常だったそうです。

(畑があった場所の今の様子)
飯舘村は20の行政区に分かれているので、それぞれに除染したものの仮の仮置き場をつくよう言われているそうですが、今後帰村した場合、人が住むすぐそばに仮仮置き場がある状態になってしまうのも課題だと聞きました。
飯舘村の除染に現在つけられている予算は約3224億円だそうです。ちなみに人口約71万人の練馬区の今年度当初予算は2391億円強。除染という作業に膨大なお金もかかることを改めて考えさせられます。

(除染の作業をしているところ。)

(田んぼの中に置かれている黒い袋は、除染したものを集めて袋詰めしてあるのです。)
また、除染のための作業員は当初1日4000人くらい来ると言われていたそうですが、決して良いとは言えない労働環境のもと、人手の確保も大変なようで、実際には1日1500~3000人の作業員が村内で働いている状況だそうです。
大変な状況の中、佐藤さんが今やっている活動としては、一つには男性による演劇集団「ロメオパラディッソ」。そして、今回の原発事故の経緯を知ることのできる資料館を作りたいという思いを持っているというお話を聞きました。
田んぼや畑だった場所に雑草が生えてしまっている状況は住民の皆さんにとってはとてもつらいことだと思います。
私の親戚が長野に住んでいて、畑や田んぼも少しやっていますが、毎日の雑草取りが大変だと聞きます。毎日毎日大切にしてきた努力の結晶である畑や田んぼを放置せざるを得ず、草が生えてしまうことは、東京に住む私たちには想像を絶するものがあるのではないかと思います。
それでも美しい緑に囲まれた飯舘村を見学させていただいて、こんなに美しい場所に帰れない、その被害の大きさを改めて思いました。
それが原発事故という人災だったことを、私たちは今後の教訓にしなければいけないはずです。
この日の午後は郡山に移動し、「Weフォーラム」の本編であるシンポジウムが行われました。
その様子はまた次回。
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- 2014-08-21
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