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教育
「区民と区長のつどい」という意見交換会が時々あるのですが、今回は教育をテーマにしているということなので、見に行きました。
教育と福祉は、人に関わる、人を育てるという意味で隣接しているはずなのに、今のところ私は、なかなか日常の教育に踏み込んでいく機会を見出せずにいます。
子どもがいれば、自分の子どもを通して見えてくるんでしょうけれど。でもその体験を待ってたんじゃ、今すぐ産んでもあと7年かかりますものね・・・(^^;
私は教員免許ももっているんだけれども、その勉強をしているときから、なにかスッと心に落ちてこない何かがあって、見えない壁を感じているように思います。
何に壁を感じるのかなあと、考えました。
今の社会で、色々と問題が起きた時に、「なにが悪いんだろう」と突き詰めていくと必ず出る意見で「教育のせいだ」というのがあるでしょう。
で、さらに、「家庭が悪い」「道徳教育を」みたいな風にもなっていく。
ここになんだか違和感を覚えるのです。
前に書いたように、私は物事を「感覚」で捉える癖があって、今それを矯正しようと努力しているので(^^;)、「違和」の感覚の理由を分析してみようと思って、さらにつらつらと考えました。
ここで、ふと思い出しました。
私が小学生の頃、同級生が悪さをしたときに、そのお母さんが「どうして学校で教育してくれないんですか?」ということがあった。その頃、テレビドラマなんかでもそういうセリフが結構あったような記憶もある。
これはこれで、私は子ども心に、違和感をもっていました。
そういう、学校への責任を問う親が多かったことが背景にあって、「そうじゃなくて家庭での教育はどうなっているんだ!」という反論が、今の教育の議論で出てくる声なのかなあと、ふと思いました。
でも、この「学校が悪い」という言い分と「家庭が悪い」という言い分は、鏡映しになって左右対称になっているだけのような気がします。
結局、どっちもがどっちかに責任を持たせようとしているだけで、解決方法が見出せない。子どもの教育に対して、大人の間で、世代間の対立や男女間の対立を生んでいるだけのような気がします。
だから違和感を持ったのかなーと、自分の気分を分析してみました。
で、さらに、じゃあ社会で起きているいろんな深刻な問題やひずみはどうして起きるのかな?ということも考えてみました。
教育だとしたら、「教育の何が」問題なのか、家庭だとしたら、「家庭の何が」問題なのか・・・。
それは、コミュニケーションの不足と、想像力の不足なのかな、と考えました。
「モンスターペアレント」という言い方がありますが、一方で、「そういうカテゴリー化した呼び方は、親の気持ちに寄り添わずに突き放すことにしかならない」という考えがあります。
私は、後者の考えです。
一見、道理に合わないクレームをつけたり、ということがある人であっても、「なんでこの人は、こういう言い方をするのかな」と、まずその人に目線を合わせて隣に並んで座ってみることが必要なのではないかと思うのです。
そうしたら、外に表れる言葉の裏に、もっと違うニーズが隠れているのかもしれない。
赤ちゃんがニーズを表明するのに「おぎゃあおぎゃあ」と言うしかないように、その人は自分のニーズの発露をクレームという形でしか表現できていないのかもしれない。
「何が悲しいのか」「何に怒っているのか」「何が不満なのか」を、適切な言葉に置き換えて相手に伝えるという技術を育てあうことが必要なのではないかと思います。
それから、問題解決に主体的に関わる経験を積まないままで大人になっていくということが多いのもあるかもしれませんよね。
何か問題が起きた時に、「誰かが何とかしてくれるべきだ」と思ってしまうために、自分では解決できないし、問題の対処方法が「クレーム」という形になってしまうのかもしれない。
何によって問題が起きているのかを想像できなかったり、自分とは異なる相手の立場に身を置き換えて問題を捉えることができないままに。
でもそれは、「クレームをつける人はなぜクレームを言うのか」という立場に身を置き換えずに「モンスターペアレント」という言葉で済ませてしまうことも、鏡映しで左右対称ですよね。
福祉に求められるのは「良い人」であることではない、と以前のブログで書きましたが、でも、人との関わりや福祉は、「良いこと」であることが求められてる現実があるように思います。
だけど、何が「良い」ことなのかは人によって違う。「良い」か「悪い」かで物事を判断すると、相手にこちらの価値観を押し付けることになるように思います。
「思いやり」は本来の語源は「思い遣り」なんだから、相手の立場に思いを遣わして感じることなんだと思いますが、なんとなく、日頃使われる「思いやり」の言葉の中には、上から下へ授けるような印象を受けます。
「相手が痛んでいたら可哀想だから手を差し伸べる」のではなくて、「相手の立場に自分がいたら、とてもいたたまれないほど心が痛い」と深刻に思う、その想像力を育てあえるかどうか、というところなのではないかと思いました。
「いじめは悪いことだからやめましょう」と言うよりも、「自分自身や、自分の愛する人が、いじめられた時、どんな気持ちになるか」と、相手の痛みを自分自身のものとして感じる練習、ですかね。
なんか、言葉にすると陳腐になって、うまく伝えられませんが・・・。
まあ、まずは私自身が、価値観の異なる相手の身になって物事を考える努力をしないといけないな、と思って、精一杯、持ちうる「共感の気持ち」を最大限、「区民と区長のつどい」で壇上にいる区長や部長さんたちに向けてみましたが・・・。
・・・ほほほ。
※かとうぎ桜子を育てる会のHPはこちら
教育と福祉は、人に関わる、人を育てるという意味で隣接しているはずなのに、今のところ私は、なかなか日常の教育に踏み込んでいく機会を見出せずにいます。
子どもがいれば、自分の子どもを通して見えてくるんでしょうけれど。でもその体験を待ってたんじゃ、今すぐ産んでもあと7年かかりますものね・・・(^^;
私は教員免許ももっているんだけれども、その勉強をしているときから、なにかスッと心に落ちてこない何かがあって、見えない壁を感じているように思います。
何に壁を感じるのかなあと、考えました。
今の社会で、色々と問題が起きた時に、「なにが悪いんだろう」と突き詰めていくと必ず出る意見で「教育のせいだ」というのがあるでしょう。
で、さらに、「家庭が悪い」「道徳教育を」みたいな風にもなっていく。
ここになんだか違和感を覚えるのです。
前に書いたように、私は物事を「感覚」で捉える癖があって、今それを矯正しようと努力しているので(^^;)、「違和」の感覚の理由を分析してみようと思って、さらにつらつらと考えました。
ここで、ふと思い出しました。
私が小学生の頃、同級生が悪さをしたときに、そのお母さんが「どうして学校で教育してくれないんですか?」ということがあった。その頃、テレビドラマなんかでもそういうセリフが結構あったような記憶もある。
これはこれで、私は子ども心に、違和感をもっていました。
そういう、学校への責任を問う親が多かったことが背景にあって、「そうじゃなくて家庭での教育はどうなっているんだ!」という反論が、今の教育の議論で出てくる声なのかなあと、ふと思いました。
でも、この「学校が悪い」という言い分と「家庭が悪い」という言い分は、鏡映しになって左右対称になっているだけのような気がします。
結局、どっちもがどっちかに責任を持たせようとしているだけで、解決方法が見出せない。子どもの教育に対して、大人の間で、世代間の対立や男女間の対立を生んでいるだけのような気がします。
だから違和感を持ったのかなーと、自分の気分を分析してみました。
で、さらに、じゃあ社会で起きているいろんな深刻な問題やひずみはどうして起きるのかな?ということも考えてみました。
教育だとしたら、「教育の何が」問題なのか、家庭だとしたら、「家庭の何が」問題なのか・・・。
それは、コミュニケーションの不足と、想像力の不足なのかな、と考えました。
「モンスターペアレント」という言い方がありますが、一方で、「そういうカテゴリー化した呼び方は、親の気持ちに寄り添わずに突き放すことにしかならない」という考えがあります。
私は、後者の考えです。
一見、道理に合わないクレームをつけたり、ということがある人であっても、「なんでこの人は、こういう言い方をするのかな」と、まずその人に目線を合わせて隣に並んで座ってみることが必要なのではないかと思うのです。
そうしたら、外に表れる言葉の裏に、もっと違うニーズが隠れているのかもしれない。
赤ちゃんがニーズを表明するのに「おぎゃあおぎゃあ」と言うしかないように、その人は自分のニーズの発露をクレームという形でしか表現できていないのかもしれない。
「何が悲しいのか」「何に怒っているのか」「何が不満なのか」を、適切な言葉に置き換えて相手に伝えるという技術を育てあうことが必要なのではないかと思います。
それから、問題解決に主体的に関わる経験を積まないままで大人になっていくということが多いのもあるかもしれませんよね。
何か問題が起きた時に、「誰かが何とかしてくれるべきだ」と思ってしまうために、自分では解決できないし、問題の対処方法が「クレーム」という形になってしまうのかもしれない。
何によって問題が起きているのかを想像できなかったり、自分とは異なる相手の立場に身を置き換えて問題を捉えることができないままに。
でもそれは、「クレームをつける人はなぜクレームを言うのか」という立場に身を置き換えずに「モンスターペアレント」という言葉で済ませてしまうことも、鏡映しで左右対称ですよね。
福祉に求められるのは「良い人」であることではない、と以前のブログで書きましたが、でも、人との関わりや福祉は、「良いこと」であることが求められてる現実があるように思います。
だけど、何が「良い」ことなのかは人によって違う。「良い」か「悪い」かで物事を判断すると、相手にこちらの価値観を押し付けることになるように思います。
「思いやり」は本来の語源は「思い遣り」なんだから、相手の立場に思いを遣わして感じることなんだと思いますが、なんとなく、日頃使われる「思いやり」の言葉の中には、上から下へ授けるような印象を受けます。
「相手が痛んでいたら可哀想だから手を差し伸べる」のではなくて、「相手の立場に自分がいたら、とてもいたたまれないほど心が痛い」と深刻に思う、その想像力を育てあえるかどうか、というところなのではないかと思いました。
「いじめは悪いことだからやめましょう」と言うよりも、「自分自身や、自分の愛する人が、いじめられた時、どんな気持ちになるか」と、相手の痛みを自分自身のものとして感じる練習、ですかね。
なんか、言葉にすると陳腐になって、うまく伝えられませんが・・・。
まあ、まずは私自身が、価値観の異なる相手の身になって物事を考える努力をしないといけないな、と思って、精一杯、持ちうる「共感の気持ち」を最大限、「区民と区長のつどい」で壇上にいる区長や部長さんたちに向けてみましたが・・・。
・・・ほほほ。
※かとうぎ桜子を育てる会のHPはこちら
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