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水俣の見学①
前回もちらりと書いたように、22,23日は九州に行ってきました。水俣の見学のことを2回にわけてブログに書きたいと思います。
22日は福岡で、和力の公演がありました。
私の伯父の妻の姉・・・という、近そうで遠そうな親戚(省略して言えば、義理の伯母、というんでしょうかね)が水俣に住んでいて、看護師さんをしていたんだそうです。それで、今回、初対面だったのですが、この伯母が福岡の和力公演を見に来るというので、帰りに一緒に水俣に連れて行ってもらって、水俣病の支援活動をしている人や当事者を紹介してもらおうという算段だったのです。
水俣の問題は、この数ヶ月、気になっていました。
以前のブログにも書きましたが。
あるとき、私がとても信頼している知り合いと懇親していて(=酒を飲んでいて 笑)、その人が、「水俣は、一度見ておいてほうがいいよ」としみじみおっしゃったのでした。
この知り合いがいうなら絶対見ておいたほうが良いに違いないというのもあったんだと思いますが、なんだか私の心に強く、水俣の問題が貼り付くようになったのです。
野中重男さんという水俣の市議会議員さんが案内をしてくださることになりました。
野中さんは議員になる前は病院で働いていたそうですが、「水俣病のことに関わりたい」ということで、水俣市内の病院に異動してきたということでした。
地域に入って、一人ひとりの声を聞くなかで、水俣病の問題を解明しようとしてきたということ。
んー、議員さんとお話をするのかぁ・・・と最初はもじもじ(?)していたのですが、まぁ、この野中さんという方が目玉が飛び出そうなほど素晴らしい方だったので、お会いできてよかったと思いました。
まず、野中さんのかつての職場である病院から、チッソの工場の全景が見えるということで案内して貰いながら説明を受けました。

あまりに広すぎて全景が一枚で撮りきれないのです・・・

このあたりの工場で、プラスチック製品を作るためのアセトアルデヒドを製造していたとか。アセトアルデヒドを作るための触媒として、有機水銀を使い、使い終わったものを、海へと流し捨てていたのだと。
水俣の海は、なんだか、モコモコと湧き上がってくるように、私には見えます。

海は間近に見ればどこでもきれいだと思うけれど、でも水俣の海は、陸に向かってぐっと迫ってくるものがあるような気がする。
「豊饒の海という言葉がぴったりだ」と、隣に立っていた私の父が言いました。
水俣病が問題になった昭和30年代、この地域の人たちは魚を主食に、いもなどを少し食べるような生活をしていたのだと、野中さんが教えてくれます。
そりゃあ、こんなに美しく迫る海があれば、魚を獲るでしょう。
昭和30年代、一番多い時期で水俣の人口は5万人超(ちなみに今は3万人弱)だったといいます。そのうち、チッソで働いている人は5千人くらい。関連会社も入れれば1万人、その家族も入れたら3万人くらいの人が、チッソの関連で生活をしていたまちだったようです。
現在60代後半になる水俣病の当事者の方からも、お話を聞けました。水俣病が初めて公式に「発見」された地域に住んでいて、11人兄弟のうち6人をすでに病気で亡くしたとか。
初めて亡くなったのは妹で、6歳だった。当時は伝染病と疑われたので、お母さんは6歳の娘のなきがらを、隠すように連れ帰ってきた。・・・ご自身も、おそらくあまり体調のよくない中で、体験を話してくださいました。

まさに、窓から釣り糸を垂らせば魚が獲れそうな場所ですね。
当時の海は真っ白で、近くを通るだけでも頭が痛くなるようなにおいがした。貝は赤くなったり青くなったり黒くなったり、魚は背骨が曲がっていたり、明らかにおかしいと思いながらも、それを食べて生活するしかなかった。
猫やカモメも、おかしいようだった。

百間排水口から汚水が流されていた。
特にここの水と、住む魚の状態はひどかったと、当事者の方もおっしゃっていました。

今の状態。

ここもかつては海だった場所だそうです。汚泥を埋め立てている。汚泥や汚染された魚を埋め立てた場所は、水俣の各所にあります。
誰もが、何かおかしいと気づく状態なのに、多くの人には指摘できない。それは、チッソがあることでまちが成り立っているから。そして、チッソが高度経済成長を支える一つの大きな力を発揮しているから、国も見てみぬふりをしていたのでした。
それでも、目の前の現実に突き動かされる人が、わずかだけれど存在する。
猫でチッソの排水の実験をし、猫やカモメがおかしくなっていたのはアセトアルデヒドを作る工場の近くの排水によると証明したお医者さんがいた。
小中学校の子ども達の知能の発達と海の汚染に関係があるということを調査した人がいた。
流産をしたり、生まれてすぐに死んでしまった子どもがどれだけいたかという聞き取り調査をして、胎児にも影響が及んだことを調査した人がいた。
それらの調査はお話を聞くだけでもすさまじく、とりつかれたようにやらずにはいられなかった思いが感じられます。
海の汚染で、まちも住民の人生もぼろぼろになっていく姿を目のあたりにして、何かせずにはいられない、衝き動かされるように行動した人がいたということでしょう。
しかし、国やチッソは、「病気は腐った魚を食べたせいだろう」という報告をまとめたり、「お見舞金をあげるから、万一これから先、チッソの排水が原因だったと分かっても、会社を追及しないように」という念書を書かせたりといったことをしたそうです。
その実態を明らかにするために、昭和40年代に裁判が起きて、その過程で問題が整理されていったようです。
このような活動の大変さは、想像を絶するものだったことでしょう。
地方の小さなまちで、権力に立ち向かう難しさは・・・。
野中さんは、何を質問しても答えてくれました。チッソのことも、まちのことも、海のことも。
なんと説明したら良いのか・・・できることなら皆さんにも会わせてあげたいくらい、すごい人でした。
なんでも答えられるというのは、ただ頭のなかで知識が豊富だというのとは違うのです。
一人ひとりの住民に聞き取りをし、その痛みをともに分かち合ってきたからこそ、湧き上がってくる力強さというのか・・・言葉ではうまく伝えられないのが残念です。
モコモコと湧き上がって地上にまで迫ってくる水俣の海のような人でした。
(ちなみに、私とは所属する政党が違うというのに、「野中さんのことをブログに書いても良いですか」と聞いたら、こともなげに「良いですよ」といってくれました。なんて太っ腹(?)なんだろう・・・)
これはひとつには、ずっと現場と向き合っている強さなのかなと思います。
私は今は議員の仕事だけをしていて(月に2回くらいはヘルパーをしていますが)、時々あちこちの施設を見学させてもらったり、話を聞いたりするけれど、それとは違う。
もっと、一緒になってへとへとになる現場を持たないと生まれない力強さだと思うのです。
ちょっと話が外れますが・・・今年の初めに練馬に年越し派遣村が来て、1週間ずーっと現場にいてボランティアをしていたら、特に言葉を交わしていない人ともだんだん顔見知りになってくるんですね。社会のありように困っている当事者と同じ空間をともに過ごす意味の大きさを感じた1週間でした。
議員1期目のこの4年間は、議員としての活動を確立するだけで精一杯でしたが、もし2期目に当選できたらそれ以降の目標は、しっかりと浸りこめる現場を片方で持ちながら議会活動をすることだと思っています。
それから、やはり政治の役割は、声なき声をどれだけ掬い取れるかということだと思うのです。放っておけば誰も見向きもしないかもしれない人の生活に光を当て、問題を社会全体と共有していくことのほかに、政治の役割はないはずです。
だって、声の大きい人は、政治なんか無くたって声をあげられるでしょ。
ところが、無駄をなくすという名目で、声なき声を見捨ててきたのが小泉構造改革だったのだと思うのです。「だって多くの人は望んでないから」ということでもって平気で見捨てられていく人が出る政治というのは恐ろしいです。
「無駄をなくす」というのは、1980年代の第二次臨時行政調査会でも、小泉構造改革でも同じように言われてきたことです。だから政権交代によって求められているのはむしろ、社会の中のより弱い人に、今まで光が当てられなかった人にしっかりと目を向けていくことなのではないのかなと、私は思うのです。・・・まあ、もっといっぱい思うところはあるのですが、勢い余って余計なことを書きそうなので、追々、じっくり、書くことにします(^^;
さて、水俣病に関してはこの夏に、チッソの分社化という問題が報道をされていたわけですが、あれは一体なんだったのか、次回のブログで私なりに分析したいと思います。
(・・・テーマが重いので、更新が遅くなったらごめんなさい ^^;)
※かとうぎ桜子のHPはこちら
22日は福岡で、和力の公演がありました。
私の伯父の妻の姉・・・という、近そうで遠そうな親戚(省略して言えば、義理の伯母、というんでしょうかね)が水俣に住んでいて、看護師さんをしていたんだそうです。それで、今回、初対面だったのですが、この伯母が福岡の和力公演を見に来るというので、帰りに一緒に水俣に連れて行ってもらって、水俣病の支援活動をしている人や当事者を紹介してもらおうという算段だったのです。
水俣の問題は、この数ヶ月、気になっていました。
以前のブログにも書きましたが。
あるとき、私がとても信頼している知り合いと懇親していて(=酒を飲んでいて 笑)、その人が、「水俣は、一度見ておいてほうがいいよ」としみじみおっしゃったのでした。
この知り合いがいうなら絶対見ておいたほうが良いに違いないというのもあったんだと思いますが、なんだか私の心に強く、水俣の問題が貼り付くようになったのです。
野中重男さんという水俣の市議会議員さんが案内をしてくださることになりました。
野中さんは議員になる前は病院で働いていたそうですが、「水俣病のことに関わりたい」ということで、水俣市内の病院に異動してきたということでした。
地域に入って、一人ひとりの声を聞くなかで、水俣病の問題を解明しようとしてきたということ。
んー、議員さんとお話をするのかぁ・・・と最初はもじもじ(?)していたのですが、まぁ、この野中さんという方が目玉が飛び出そうなほど素晴らしい方だったので、お会いできてよかったと思いました。
まず、野中さんのかつての職場である病院から、チッソの工場の全景が見えるということで案内して貰いながら説明を受けました。

あまりに広すぎて全景が一枚で撮りきれないのです・・・

このあたりの工場で、プラスチック製品を作るためのアセトアルデヒドを製造していたとか。アセトアルデヒドを作るための触媒として、有機水銀を使い、使い終わったものを、海へと流し捨てていたのだと。
水俣の海は、なんだか、モコモコと湧き上がってくるように、私には見えます。

海は間近に見ればどこでもきれいだと思うけれど、でも水俣の海は、陸に向かってぐっと迫ってくるものがあるような気がする。
「豊饒の海という言葉がぴったりだ」と、隣に立っていた私の父が言いました。
水俣病が問題になった昭和30年代、この地域の人たちは魚を主食に、いもなどを少し食べるような生活をしていたのだと、野中さんが教えてくれます。
そりゃあ、こんなに美しく迫る海があれば、魚を獲るでしょう。
昭和30年代、一番多い時期で水俣の人口は5万人超(ちなみに今は3万人弱)だったといいます。そのうち、チッソで働いている人は5千人くらい。関連会社も入れれば1万人、その家族も入れたら3万人くらいの人が、チッソの関連で生活をしていたまちだったようです。
現在60代後半になる水俣病の当事者の方からも、お話を聞けました。水俣病が初めて公式に「発見」された地域に住んでいて、11人兄弟のうち6人をすでに病気で亡くしたとか。
初めて亡くなったのは妹で、6歳だった。当時は伝染病と疑われたので、お母さんは6歳の娘のなきがらを、隠すように連れ帰ってきた。・・・ご自身も、おそらくあまり体調のよくない中で、体験を話してくださいました。

まさに、窓から釣り糸を垂らせば魚が獲れそうな場所ですね。
当時の海は真っ白で、近くを通るだけでも頭が痛くなるようなにおいがした。貝は赤くなったり青くなったり黒くなったり、魚は背骨が曲がっていたり、明らかにおかしいと思いながらも、それを食べて生活するしかなかった。
猫やカモメも、おかしいようだった。


百間排水口から汚水が流されていた。
特にここの水と、住む魚の状態はひどかったと、当事者の方もおっしゃっていました。

今の状態。

ここもかつては海だった場所だそうです。汚泥を埋め立てている。汚泥や汚染された魚を埋め立てた場所は、水俣の各所にあります。
誰もが、何かおかしいと気づく状態なのに、多くの人には指摘できない。それは、チッソがあることでまちが成り立っているから。そして、チッソが高度経済成長を支える一つの大きな力を発揮しているから、国も見てみぬふりをしていたのでした。
それでも、目の前の現実に突き動かされる人が、わずかだけれど存在する。
猫でチッソの排水の実験をし、猫やカモメがおかしくなっていたのはアセトアルデヒドを作る工場の近くの排水によると証明したお医者さんがいた。
小中学校の子ども達の知能の発達と海の汚染に関係があるということを調査した人がいた。
流産をしたり、生まれてすぐに死んでしまった子どもがどれだけいたかという聞き取り調査をして、胎児にも影響が及んだことを調査した人がいた。
それらの調査はお話を聞くだけでもすさまじく、とりつかれたようにやらずにはいられなかった思いが感じられます。
海の汚染で、まちも住民の人生もぼろぼろになっていく姿を目のあたりにして、何かせずにはいられない、衝き動かされるように行動した人がいたということでしょう。
しかし、国やチッソは、「病気は腐った魚を食べたせいだろう」という報告をまとめたり、「お見舞金をあげるから、万一これから先、チッソの排水が原因だったと分かっても、会社を追及しないように」という念書を書かせたりといったことをしたそうです。
その実態を明らかにするために、昭和40年代に裁判が起きて、その過程で問題が整理されていったようです。
このような活動の大変さは、想像を絶するものだったことでしょう。
地方の小さなまちで、権力に立ち向かう難しさは・・・。
野中さんは、何を質問しても答えてくれました。チッソのことも、まちのことも、海のことも。
なんと説明したら良いのか・・・できることなら皆さんにも会わせてあげたいくらい、すごい人でした。
なんでも答えられるというのは、ただ頭のなかで知識が豊富だというのとは違うのです。
一人ひとりの住民に聞き取りをし、その痛みをともに分かち合ってきたからこそ、湧き上がってくる力強さというのか・・・言葉ではうまく伝えられないのが残念です。
モコモコと湧き上がって地上にまで迫ってくる水俣の海のような人でした。
(ちなみに、私とは所属する政党が違うというのに、「野中さんのことをブログに書いても良いですか」と聞いたら、こともなげに「良いですよ」といってくれました。なんて太っ腹(?)なんだろう・・・)
これはひとつには、ずっと現場と向き合っている強さなのかなと思います。
私は今は議員の仕事だけをしていて(月に2回くらいはヘルパーをしていますが)、時々あちこちの施設を見学させてもらったり、話を聞いたりするけれど、それとは違う。
もっと、一緒になってへとへとになる現場を持たないと生まれない力強さだと思うのです。
ちょっと話が外れますが・・・今年の初めに練馬に年越し派遣村が来て、1週間ずーっと現場にいてボランティアをしていたら、特に言葉を交わしていない人ともだんだん顔見知りになってくるんですね。社会のありように困っている当事者と同じ空間をともに過ごす意味の大きさを感じた1週間でした。
議員1期目のこの4年間は、議員としての活動を確立するだけで精一杯でしたが、もし2期目に当選できたらそれ以降の目標は、しっかりと浸りこめる現場を片方で持ちながら議会活動をすることだと思っています。
それから、やはり政治の役割は、声なき声をどれだけ掬い取れるかということだと思うのです。放っておけば誰も見向きもしないかもしれない人の生活に光を当て、問題を社会全体と共有していくことのほかに、政治の役割はないはずです。
だって、声の大きい人は、政治なんか無くたって声をあげられるでしょ。
ところが、無駄をなくすという名目で、声なき声を見捨ててきたのが小泉構造改革だったのだと思うのです。「だって多くの人は望んでないから」ということでもって平気で見捨てられていく人が出る政治というのは恐ろしいです。
「無駄をなくす」というのは、1980年代の第二次臨時行政調査会でも、小泉構造改革でも同じように言われてきたことです。だから政権交代によって求められているのはむしろ、社会の中のより弱い人に、今まで光が当てられなかった人にしっかりと目を向けていくことなのではないのかなと、私は思うのです。・・・まあ、もっといっぱい思うところはあるのですが、勢い余って余計なことを書きそうなので、追々、じっくり、書くことにします(^^;
さて、水俣病に関してはこの夏に、チッソの分社化という問題が報道をされていたわけですが、あれは一体なんだったのか、次回のブログで私なりに分析したいと思います。
(・・・テーマが重いので、更新が遅くなったらごめんなさい ^^;)
※かとうぎ桜子のHPはこちら
4件のコメント
[C289] しゅうりりえんえん
- 2009-11-29
- 編集
[C290] 格差是正
高校を卒業した18歳から 定年の年齢よりも上のかたまで 求職者 全員が 就職できる 日本を 期待しています。
議会でも 格差是正 雇用対策を 提案して下さい。
よろしくお願い致します。
議会でも 格差是正 雇用対策を 提案して下さい。
よろしくお願い致します。
- 2009-12-06
- 編集
[C291] Re: しゅうりりえんえん
アッキーさん
お久しぶりです。お返事が遅くなりすみません。
本のご紹介、ありがとうございます。探してみたいと思います。
読んだら感想書きますね。
お久しぶりです。お返事が遅くなりすみません。
本のご紹介、ありがとうございます。探してみたいと思います。
読んだら感想書きますね。
- 2009-12-06
- 編集
[C297] Re: 格差是正
ふくろうさん
ずいぶん以前にコメントをいただいていたのに、すみません。
性別、年齢によって壁を感じることなく生活できる社会を作りたいと私も思います。
今年もよろしくお願いします。
ずいぶん以前にコメントをいただいていたのに、すみません。
性別、年齢によって壁を感じることなく生活できる社会を作りたいと私も思います。
今年もよろしくお願いします。
- 2010-01-17
- 編集
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水俣病に関する本は、たくさん出ていると思いますが、
ぜひ、見ていただきたい絵本があります。
「みなまた うみのこえ」という絵本です。
「しゅうりりえんえん」というのは、この絵本に出てくる呪文のようなものです。
練馬区立図書館にも所蔵されています。