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修士論文報告⑦公共と市民

咳がなかなか治らず、薬を飲んでもなかなか治らず、よれよれになってきまして、現実世界の仕事をするだけで精一杯の10日ほどだったもので、またしてもブログ更新の間があいてしまいました。

さて、今回で修士論文の報告を最終回にします。先日、大学院は無事に修了しました。。


前回は、保育園民営化の課題を書きました。今回は、市民と行政がどのようなかかわりを持つべきなのか、その前提となる「公共性」とは何なのかということについて考えたいと思います。

保育園の民営化は、保護者のニーズへの対応など、色々な理屈をつけながらも、実際には利用者の声は聞かずに進められてきてしまいました。そもそも、市場に任せればすべてがうまくいくというような新自由主義的な発想がどんどん進んでしまい、前回のブログに書いたように、一般論として国民に受け入れられてしまったのはなぜなのでしょう。
前回も引用した宮崎省吾さんが次のように述べています。

住民運動が積み上げてきた「公共性」批判の論理は、単なる公共セクターの縮小=「民営化」へと水路づけられつつあるように思われる。つまり「公共事業」型国家を超える市民的公共性の論理が、ネオリベラリズム的な私化、「自己責任」化の「小さな政府」論へと接合されてしまっているのである。

宮崎さんが住民運動をしていたのは1970年代。地域の住民が問題を提起しても、「これは公共のためなんだ」という理屈で、行政が決めたことがどんどん進められてしまっていた。
「住民を置き去りにしてすべてを行政が決めるのではなくて、ともに課題解決をしていきたい」という方向へ向かうはずが、「行政には住民目線が足りないから市場に任せてしまおう」という方向へと進んでしまったといえます。

それから、齋藤純一さんという人は、「公共性」という本の中で次のように書いています。

「市民社会へ」という方向性は、生命の保障を基本的に個人の自助努力と家族・親族の間での相互扶助に委ね、それが機能しない場合にのみはじめて公的な対応をおこなうという日本の社会保障システム―それは批判的に「残余的福祉モデル」とよばれる―にとって、もともとうまく適合するものである。

日本の社会保障のしくみは基本的に、自分のことは自分でやるか、家族で支えあうということが前提になっている。それがダメなら制度を使おうという考えや感覚がずっとあって、それは福祉の制度が措置から契約へと移行しても変わっていない。
その流れの中で語られる「市民社会へ」という方向性は、市民が主体的に政策決定をしていくことではなくて、自分のことは自分でやりなさいという方向へ向かっていく危険があるわけです。

斎藤さんは次のようにも書いています。

ボランティア活動などの市民社会の活力はそれが非政治的であるかぎりで歓迎される、という問題である。いいかえれば、市民社会において評価されるのは社会的行為であって政治的行為ではない。

市民ができることは現場レベルで対応することであって、そこから見えてくる課題を政策に反映するようなことは求められていないということですね。

しかし、それでは市民が主体的に社会を創っていくことができません。

そこで、そもそも市民が主体的に築いていきたい公共性とは何なのか、を考えてみます。

これまた斎藤さんの引用ですが、

国家が媒介する非人称の連帯のメリットはまず、人称的な関係(世話するものと世話される者)につきまとう依存・従属の関係が廃棄されるという点にある。「国家の世話になる」人びとは、特定の誰かの世話になっているわけではないがゆえに、(少なくとも権利上は)誰かへの遠慮のゆえに声を呑み込む必要はない

市民と市民のかかわりは、固有名詞の人と人のかかわりです。だから、場合によっては迅速で柔軟な対応ができる。

しかし、内容的にも量的にも、顔の見える関係だけでは支えきれない部分もあると思います。だれもが使える保育や、低所得者に対する支援、虐待への対応などは市民だけではなくて、制度として支える必要があるでしょう。

どんな状況にあっても、どんな人も支えてもらうことのできるしくみがあるということが大切なことです。

そして、DVやセクハラのように時代によっては私的な不運と見られてきたような問題も、公共的に解決する問題と再認識されてきたように、どこまでが公共で支えるべき範囲なのかは変わってくるものなのだとも、斎藤さんは言っています。


社会の中でおきる様々な困難のうち、どこまでを公共的課題と位置づけていくべきかは、ずっと議論していかなくてはならないことで。そして、こうした議論や整理の作業に市民が関わっていくことが必要なのだと思います。

そこで、今後必要なこととして論文には、

・政策の決定の過程に市民が参画できること
・財源や国の動き等も含めて情報公開をすること
・公共の範囲はどこまでなのかを議論する場を設定すること
・こうした市民参画のしくみづくりが議員の役割だということ

を結論として書きました。

なんだか、分かりきったような結論なんですがね・・・(--;)


ただ、論文にはうまく書ききれなかったのですが、論文を書きながら色々考えていてハッと思うことが2つほどありました。

ひとつは、「公共の範囲はどこまでなのか」という切り口で様々な問題を見ていくと、社会の問題がとても理解しやすくなるということです。
行政の施策を見るときに、「ムダ使い」という切り口がよく使われますね。
これは一見分かりやすいのだけど、見方を間違えるとちょっと怖いなと思うのです。
人はついつい、自分に関係ないことはムダだと思いがちな部分があるのではないかと思うからです。だから、生活保護にお金をかけすぎるという批判をする人がいるのだろうと思うのです。自分は今生活保護を使っていないから、使っている人を批判するのでしょう。
そういう切り口だけで問題を見ていってしまうと、社会に向かって声を大きく発せない人―相対的に弱い立場に立たされている人に関わるものが切り下げられていく心配があると思います。さっき引用した、非人称の連帯のメリットというのが消されてしまう可能性があります。

だからそういう視点よりもむしろ、その事業はどんな公共性を実現するものなのか―だれのための、何のためのものなのか、を考えていったほうが良いように思います。

たとえば、商店街振興は誰のためにするのか。行政はどこまでの役割を果たすべきなのか。
小学校の統廃合と跡施設の活用は誰のためにやるのか。
などなど・・・。


誰の困難を取り除くための施策なのか、といった観点から見ていくと、「表向きの目的(例えば保育園民営化ならば、「保護者のニーズに対応する」など)」とは違った、その地域の政治の姿が見えてくるように思います。


それから、2つ目に思ったこと。これは、保育園民営化の各地の事例を見ていて気付いたのですが、行政が市民に向き合う姿勢の違いは、その地域の政治の違いだということです。

事例にあげたうちの一つの自治体では、当初、民営化のガイドラインを作る必要はないといっていたのです。しかし、途中から議会での答弁も変化していって、結局はガイドラインを作ることになりました。ガイドライン作りに市民が参画するというところまでは至らなかったようですが、しかし、いったん作らないといったものを作るようになるというのは、練馬だったらなかなか難しいことなんじゃないか、と思いまして。
それで、その自治体に問い合わせてみたのですが、なんだかケロッと、「求められたから作ることにしただけですよー」というような返事が返ってきました。

それで、ふと思い至ったのは、市民の声を聞いてそれを実現するかあるいは突っぱねるかという決定をするのは、行政じゃなくて、政治なんですよね。

市民の声を無視して話を進めたり話し合いの場を打ち切ったり、どんどん計画通りに進めていくのは、担当の課長や部長が意地悪なわけではなくて(^^;)、政治がその方向に持っていっているからだと思ったのです。

「市民と行政の協働」ということがよく言われますが、定義がどうもはっきりしなかったり、その中で結局は、今まで行政がやっていた仕事を安く市民にやらせているだけではないかという批判があったりします。新しく練馬区が作った協働の指針などを見てみても、市民と行政が一緒にできることというのは事業のレベルのことにとどまっていて、政策決定にどう市民が入っていくかというところには至らないのです。

でも、そもそも行政がやっている仕事は、その地域の政治の方向性だと考えてみれば、「市民と行政との協働」というのが現場レベルの問題解決にとどまり、ときに下請け的になってしまうという理屈も合点がいくような気がするのです。

本当に市民が自ら課題解決に関与する社会を創るためには、行政との協働よりも前に、政治と市民が協働しないといけないのですね。

政治と市民とのかかわりという議論をすっ飛ばして、行政と市民とのかかわりという議論にしてしまったのは、政治の責任逃れのような気がするし、だから、「新しい公共(行政だけが公共を担うのではなく、NPOなど様々な主体が公共を支える社会)」と「新自由主義的な発想(行政の役割を減らして市場に任せていく)」がごちゃ混ぜになってしまったのかなとも思います。


だから議員としての私にできることは、政治の世界を市民に開いていくことと、行政が市民を置き去りにしている場面に出会ったときに政治家としてどう軌道修正できるかを考えていくことだろうと思います。

それから、そうした行政組織の特徴を考えてみると、たとえ、中にいる職員さんたちが現状の市民との関係で課題を感じたとしてもなかなかすぐに変えることはできないのだろうとも思います。それは、良くも悪くも行政という組織がかっちりとある意味でしょう。
大きくてかっちりした組織のメリットは、決定した方向に向かって大人数で実行に移せることだろうし、デメリットは多くの組織人が課題に気付いていても変えるまでに時間がかかることだと思います。

私が1年半ほど前、議会で大人数の会派から一人会派に移ったときに、いろんな人から「少人数になってしまったら変えることができないじゃないか」といわれました。
これからも永久に少人数でいることが理想的だと思っているわけではありませんが(笑)、ただ、大人数になることによって私が言うべきと考えることが言えなくなったら本末転倒だと思うのです。
まずはたとえ少数であっても、もしかしたら誰もが気付いていてもすぐに変えられていない課題、だれも指摘することができずにいる課題を俎上にあげることができると思うのです。

私がかつて大会派にいたときにそうだったように、組織の中にいることによって指摘したいことが言えなくなってしまったら(ブログでは言っていましたが・・・ ^^; でもブログでぼやいているだけだったら議員である意味がないですしね)、行政組織と変わらなくなってしまう。
それじゃあ、議員としては、いてもいなくても良い存在だと思うんですよね。声をあげることができないならば、議員ではなくて違う仕事をしたほうがよほど区民の役に立つかもしれないもの。


そんな、地方自治体の政治、行政、市民の関係について改めて考え、そして私のなすべきことを考えることのできた論文でした。

できれば今年中にちょっと加筆したり読みやすいものに編集しなおして、冊子にできたら良いなと思っています。


それから、今回のブログの最後にちらっと書いた、私の議員としての役割という話ですが、次の練馬区長選・区議選まであと1年ちょっとです。
私が2期目の選挙に向けて、どんな考えを持っているか、ということも、4月中にはご報告したいと思っています。

※かとうぎ桜子のHPはこちら

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プロフィール

かとうぎ桜子

Author:かとうぎ桜子
1980年生まれ。

保育士、ヘルパー2級、社会福祉士の資格を使って福祉の仕事をしてきました。
制度だけでは一人ひとりが安心して生活するまちを作るには不十分だと考え、誰もが安心できるまちのしくみ作りをしていきたいと考えています。

2007年4月の統一地方選で練馬区議会議員に初当選。

2010年3月、「市民参加と公共性―保育園民営化を契機として」と題する修士論文を書き、立教大学大学院・21世紀社会デザイン研究科を修了。

2011年4月 無所属で2期目に当選。

2011年末に子宮頸がんが見つかり、2012年春に円錐切除の手術をしました。その後は今のところ再発もなく元気に仕事しています。
この経験を活かし、がん検診の啓発など健康に関する課題にも取り組んでいこうとしています。

2015年4月、3期目に当選。

会派は市民ふくしフォーラム。

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