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共生社会についてのセミナー①
8月2日の夕方から私の夏休みに突入させてもらいました。数日間、長野のいとこの家に滞在します。
だんだん自分の選挙も近づいてくるし、ちょっとほっとできるお休みを取れるのもこれでしばらくはないかもしれないなあと思っているところ・・・。

いとこの家で、新聞の上で眠る猫。カメラを向けたら薄目をあけてしまったので、人相(?)が悪いですが。
さて、7月29日に受講してきた、鉄道弘済会の研修のことを書きます。
ほんとは2日連続だったんですが、30日は清掃リサイクル等特別委員会があったので、29日のみ受講。
テーマは「共生社会への道筋」というものだったのですが、分科会の講師としてハンセン病の当事者に来てほしいという話があって、いろいろなつながりから、私が森元美代治さんという当事者の方をご紹介したのでした。
まあ、紹介したんだから当日まで見守らなくては・・・と思って行きました。
まず基調講演で星加良司さんという、ご自身も視覚障害のある方が「共生社会とは何か」というテーマでお話をされていました。
私はこの日の朝、保谷駅でチラシ配りをしてから行ったものですから、開始時間に遅れてしまい、そして睡眠不足で若干記憶も飛んでいるのですが(^^;)、でも興味深いお話でした。
話の要旨はこんな感じです。
長い間、社会の中では、障害のある人は障害の無い人に比べて低く見られてきた。けれどもその分、救済すべき存在とも見られてきた。
仕事をして自活をすることが生きることの前提となるならば、仕事をせずに支援を受けることは「特権」のように見られるはず。「特権をもって、ずるいじゃないか」と。
でもそうは言われずに支援の対象となってきたのは、障害のある人やなんらかの福祉の支援を受けている人を対等な存在としてではなく、低く見ることによって納得してきたからなのではないか。
障害があろうとなかろうとみんな同じ、対等な人間としてともに生きるんだということが言われるようになると、「じゃあなぜ支援を受けられる人と受けられない人が出てくるのか。障害がなかったとしても生活に困っている人もいるのに、障害があるからというだけで支援を受けられるなんて、ずるいじゃないか」という意見がまた頭をもたげてしまう。
社会のしくみとしてあきらかに障害者への排除が働いている場合には、制度を変えるなどの方法で改善させることができるけれど、一見、「包摂」しているかのように見えながら、実際のところは排除の構造は変わっていないとなると、かえってそのほうが解決しがたい課題として残ってしまうのではないか。
そこで、その後に進むべき選択肢は2つ。ひとつは、やっぱり障害があろうがなかろうが対等に生きようと言うこと自体が無理だったんだとあきらめてしまうこと。でも、そんなの、おかしいですよね。
もうひとつは、今までとは違う新たな価値観を作っていくこと。
たとえば、長年の風習とか慣習にとらわれないとか。
障害のある人が「異なる存在」のように見られてしまうのは、多数派が作りあげてきた慣習に収まりきることが難しいから、ということもあるでしょう。
たとえば、食事をするときに食器で音をたてないというマナーがあると、耳の聞こえない人は音がたったことにも気付くことができないから、ここでとても大きな困難と冷たい目にぶつからざるを得ない。
コミュニケーションのしかた・・・目をあわせてにっこり笑う、けれどもあまりじろじろ相手を凝視しないのがマナー、というようなことが前提にあると、自閉症の人などにはとても大きな壁になってしまう。
こうした、ふだんの生活の中の、ほとんど無意識なほどの習慣が、その習慣を持たない人(文化的に持ったことが無い人も、心身の状況によって持つことができない人も)を無意識に区別し、差別することにつながっているならば、これはとんでもない大きな壁です。
そうした「健常者の価値基準」をいったん脇において見ていくという努力が必要になってくるのかもしれないわけです。
つまり、何をもって対等な存在とみなし、ともに生きるというのはどういうことなのかを改めて考え直すことが必要なのでしょうね。
これはとても大きな壁で、さあどうしたらいいのかというと、私には分からなくなってしまいますが・・・。でも、改めて考えてみる必要があることなのかもしれないですね。
なぜ、「ともに生きる」ということが困難なのか、ということについて、ご自身も障害があるからこそ思い至るお考えなんだろうなと思いました。
ここまで書いたら長くなってきたので、肝心の森元さんの分科会については次回に回します(^^;
※かとうぎ桜子のHPはこちら
だんだん自分の選挙も近づいてくるし、ちょっとほっとできるお休みを取れるのもこれでしばらくはないかもしれないなあと思っているところ・・・。

いとこの家で、新聞の上で眠る猫。カメラを向けたら薄目をあけてしまったので、人相(?)が悪いですが。
さて、7月29日に受講してきた、鉄道弘済会の研修のことを書きます。
ほんとは2日連続だったんですが、30日は清掃リサイクル等特別委員会があったので、29日のみ受講。
テーマは「共生社会への道筋」というものだったのですが、分科会の講師としてハンセン病の当事者に来てほしいという話があって、いろいろなつながりから、私が森元美代治さんという当事者の方をご紹介したのでした。
まあ、紹介したんだから当日まで見守らなくては・・・と思って行きました。
まず基調講演で星加良司さんという、ご自身も視覚障害のある方が「共生社会とは何か」というテーマでお話をされていました。
私はこの日の朝、保谷駅でチラシ配りをしてから行ったものですから、開始時間に遅れてしまい、そして睡眠不足で若干記憶も飛んでいるのですが(^^;)、でも興味深いお話でした。
話の要旨はこんな感じです。
長い間、社会の中では、障害のある人は障害の無い人に比べて低く見られてきた。けれどもその分、救済すべき存在とも見られてきた。
仕事をして自活をすることが生きることの前提となるならば、仕事をせずに支援を受けることは「特権」のように見られるはず。「特権をもって、ずるいじゃないか」と。
でもそうは言われずに支援の対象となってきたのは、障害のある人やなんらかの福祉の支援を受けている人を対等な存在としてではなく、低く見ることによって納得してきたからなのではないか。
障害があろうとなかろうとみんな同じ、対等な人間としてともに生きるんだということが言われるようになると、「じゃあなぜ支援を受けられる人と受けられない人が出てくるのか。障害がなかったとしても生活に困っている人もいるのに、障害があるからというだけで支援を受けられるなんて、ずるいじゃないか」という意見がまた頭をもたげてしまう。
社会のしくみとしてあきらかに障害者への排除が働いている場合には、制度を変えるなどの方法で改善させることができるけれど、一見、「包摂」しているかのように見えながら、実際のところは排除の構造は変わっていないとなると、かえってそのほうが解決しがたい課題として残ってしまうのではないか。
そこで、その後に進むべき選択肢は2つ。ひとつは、やっぱり障害があろうがなかろうが対等に生きようと言うこと自体が無理だったんだとあきらめてしまうこと。でも、そんなの、おかしいですよね。
もうひとつは、今までとは違う新たな価値観を作っていくこと。
たとえば、長年の風習とか慣習にとらわれないとか。
障害のある人が「異なる存在」のように見られてしまうのは、多数派が作りあげてきた慣習に収まりきることが難しいから、ということもあるでしょう。
たとえば、食事をするときに食器で音をたてないというマナーがあると、耳の聞こえない人は音がたったことにも気付くことができないから、ここでとても大きな困難と冷たい目にぶつからざるを得ない。
コミュニケーションのしかた・・・目をあわせてにっこり笑う、けれどもあまりじろじろ相手を凝視しないのがマナー、というようなことが前提にあると、自閉症の人などにはとても大きな壁になってしまう。
こうした、ふだんの生活の中の、ほとんど無意識なほどの習慣が、その習慣を持たない人(文化的に持ったことが無い人も、心身の状況によって持つことができない人も)を無意識に区別し、差別することにつながっているならば、これはとんでもない大きな壁です。
そうした「健常者の価値基準」をいったん脇において見ていくという努力が必要になってくるのかもしれないわけです。
つまり、何をもって対等な存在とみなし、ともに生きるというのはどういうことなのかを改めて考え直すことが必要なのでしょうね。
これはとても大きな壁で、さあどうしたらいいのかというと、私には分からなくなってしまいますが・・・。でも、改めて考えてみる必要があることなのかもしれないですね。
なぜ、「ともに生きる」ということが困難なのか、ということについて、ご自身も障害があるからこそ思い至るお考えなんだろうなと思いました。
ここまで書いたら長くなってきたので、肝心の森元さんの分科会については次回に回します(^^;
※かとうぎ桜子のHPはこちら
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