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私の病気体験⑫ いろいろ、感じたこと
病気を体験して、心で感じた部分については、愚痴っぽくなるのでさらっと書いて、今回で体験談ブログは終了します。
気持ちの面では、病気になると、ともすれば自分の意思が奪われかねない場面が増えてくるということを感じました。
福祉の分野では、「当事者の主体的な決定が大事」ということが言われますが、元気で自分で動けるときには当たり前と思われるようなこんなことを、あえて言わなければならないほど、弱っている人は主体性が奪われがちであることを実感として感じました。
たとえば、
・病名を公表すべきか否か。
・病院への付き添いが必要か否か。必要なら誰についていってもらうか。
・お見舞いは受け入れるか断るか。受け入れるなら、どの範囲の人まで来てもらってOKにするか。
これらは、本来、病気になった私自身が私の意思で決めるべきことですが、良かれと思って周りが決めてしまいそうになることがありました。
そうなると、「ああ、病気になると、私が自分で決めたいことまで他の人に決められてしまうくらい弱い立場になってしまうんだろうか」という気持ちになりました。
でもあるときから気持ちを切り替えて、「そんな時こそ自分の気持ちをきちんと言葉にして相手に伝えなくてはいけないんだな。相手は良かれと思っていることなんだから、伝えなければ分からないもの。」と思い直しました。
たとえば「お見舞いに行ってあげるよ」と言われることがありましたが、化粧もせずパジャマを着て、ときによっては尿の管をつけてぼーっとしてるところに、できれば他人は来てほしくないというのが私の気持でした。
入院がよほど長引けば淋しいから来てほしいとも思うかもしれないけど、少なくとも私は来てほしいとは思わなかったです。せいぜい、家族やそれに準ずるくらい親しい人までが良いなと思いました。
この気持ちは人によって違うかもしれません。入院している人が女性か男性かということによっても感覚が異なるかもしれないし、その人のもともとの性格によっては、「たくさん来てくれた方が嬉しい」という風に感じる人もいるかもしれないです。
ただ、いずれにしてもお見舞いに行きたいと思った時には、本人が来てほしいかどうかの確認は必要ですね。
励ましの言葉はどんな言葉であっても嬉しいものですが、「お父さんはさぞ悲しかったでしょうね」という言い方をされたときはあまり良い気持ちがしませんでした。
私が病気になったことで家族が悲しむのは言うまでもなく当たり前のことです。
本人が受け止めるショックと、家族が感じるショックはまた別の種類のものだと思います。
家族は、「自分は身体的な苦しみを代わってやることができない」という悲しみを感じるのかもしれません。
父にしてみたらもしかしたら、自分が大腸がんになった時よりもショックだという気持ちをもったかもしれません。
だけど病気を告知されたときにまず第一に、一番ショックなのは当然、私自身です。手術によって失うのは、私の身体の一部であって、私の身体は家族・親の所有物ではないからです。
病気になった本人に対して、「お父さんはショックでしょうね」という、聞いても聞かなくてもいいようなことは言うべきではないと思います。
その言葉が社交辞令ではなくて本当に私の父の気持ちを聞きたいというのであれば、父に直接聞いてもらわなければなりません。
私には父がどう感じていたか、その気持ちは分かりません。
家族は、家族であっても同一人物ではないからです。
当事者への支援と家族への支援は別個に行われるべきものだということを改めて感じました。
あと、私が病名の公表をすることによって、もともとの友人・知人の中から、「実は私も子宮の病気を持っている」「実は私は子宮を摘出する手術を経験している」という人が何人もいました。
私自身は、せっかくの体験を言うことによって他の人に少しでも役立てば良いなと思うし、病名を言ってしまったほうが万一あるとき不調が襲ってきたとしても周りに理解してもらえて自分も楽だろうと思うので公表しましたが、多くの人は病気になってもあまり人には言わないし、婦人科系の病気であればなおさらのことであると思います。
でも、自分の身体は自分のものですから、言いたくなければ言わなくても快適に生きられる権利も保障されなくてはいけないと思います。
軽い雑談のなかで「お子さんはいるんですか」などという会話はまだまだよくあることですし、女性が選挙で立候補するときに「私は子どもを産んだ経験があるから分かるんです」と主張することもよくありますが、そういう何気ない言葉に人知れず傷ついている女性が、実は私たちの目の前にいるかもしれないということを考える必要があると思いました。
妊娠初期の人が体調が悪くても一見妊娠していると分からなくて席を譲ってもらいにくいということもあって、マタニティーマークというのが普及していますが、マークを使って示さないと気遣いあえないというのも残念なことです。
妊娠初期と同様に、病気も、あえて言葉にしなければ目に見えて分からないことも多くあります。
でも、本当は、一見元気そうな人でも、一見若く見える人でも、もしかしたら不調を抱えていたり、困っていることがあるかもしれないと、周りにいる人のことに思いをはせることができる社会にできたら良いですね。
気持ちの面では、病気になると、ともすれば自分の意思が奪われかねない場面が増えてくるということを感じました。
福祉の分野では、「当事者の主体的な決定が大事」ということが言われますが、元気で自分で動けるときには当たり前と思われるようなこんなことを、あえて言わなければならないほど、弱っている人は主体性が奪われがちであることを実感として感じました。
たとえば、
・病名を公表すべきか否か。
・病院への付き添いが必要か否か。必要なら誰についていってもらうか。
・お見舞いは受け入れるか断るか。受け入れるなら、どの範囲の人まで来てもらってOKにするか。
これらは、本来、病気になった私自身が私の意思で決めるべきことですが、良かれと思って周りが決めてしまいそうになることがありました。
そうなると、「ああ、病気になると、私が自分で決めたいことまで他の人に決められてしまうくらい弱い立場になってしまうんだろうか」という気持ちになりました。
でもあるときから気持ちを切り替えて、「そんな時こそ自分の気持ちをきちんと言葉にして相手に伝えなくてはいけないんだな。相手は良かれと思っていることなんだから、伝えなければ分からないもの。」と思い直しました。
たとえば「お見舞いに行ってあげるよ」と言われることがありましたが、化粧もせずパジャマを着て、ときによっては尿の管をつけてぼーっとしてるところに、できれば他人は来てほしくないというのが私の気持でした。
入院がよほど長引けば淋しいから来てほしいとも思うかもしれないけど、少なくとも私は来てほしいとは思わなかったです。せいぜい、家族やそれに準ずるくらい親しい人までが良いなと思いました。
この気持ちは人によって違うかもしれません。入院している人が女性か男性かということによっても感覚が異なるかもしれないし、その人のもともとの性格によっては、「たくさん来てくれた方が嬉しい」という風に感じる人もいるかもしれないです。
ただ、いずれにしてもお見舞いに行きたいと思った時には、本人が来てほしいかどうかの確認は必要ですね。
励ましの言葉はどんな言葉であっても嬉しいものですが、「お父さんはさぞ悲しかったでしょうね」という言い方をされたときはあまり良い気持ちがしませんでした。
私が病気になったことで家族が悲しむのは言うまでもなく当たり前のことです。
本人が受け止めるショックと、家族が感じるショックはまた別の種類のものだと思います。
家族は、「自分は身体的な苦しみを代わってやることができない」という悲しみを感じるのかもしれません。
父にしてみたらもしかしたら、自分が大腸がんになった時よりもショックだという気持ちをもったかもしれません。
だけど病気を告知されたときにまず第一に、一番ショックなのは当然、私自身です。手術によって失うのは、私の身体の一部であって、私の身体は家族・親の所有物ではないからです。
病気になった本人に対して、「お父さんはショックでしょうね」という、聞いても聞かなくてもいいようなことは言うべきではないと思います。
その言葉が社交辞令ではなくて本当に私の父の気持ちを聞きたいというのであれば、父に直接聞いてもらわなければなりません。
私には父がどう感じていたか、その気持ちは分かりません。
家族は、家族であっても同一人物ではないからです。
当事者への支援と家族への支援は別個に行われるべきものだということを改めて感じました。
あと、私が病名の公表をすることによって、もともとの友人・知人の中から、「実は私も子宮の病気を持っている」「実は私は子宮を摘出する手術を経験している」という人が何人もいました。
私自身は、せっかくの体験を言うことによって他の人に少しでも役立てば良いなと思うし、病名を言ってしまったほうが万一あるとき不調が襲ってきたとしても周りに理解してもらえて自分も楽だろうと思うので公表しましたが、多くの人は病気になってもあまり人には言わないし、婦人科系の病気であればなおさらのことであると思います。
でも、自分の身体は自分のものですから、言いたくなければ言わなくても快適に生きられる権利も保障されなくてはいけないと思います。
軽い雑談のなかで「お子さんはいるんですか」などという会話はまだまだよくあることですし、女性が選挙で立候補するときに「私は子どもを産んだ経験があるから分かるんです」と主張することもよくありますが、そういう何気ない言葉に人知れず傷ついている女性が、実は私たちの目の前にいるかもしれないということを考える必要があると思いました。
妊娠初期の人が体調が悪くても一見妊娠していると分からなくて席を譲ってもらいにくいということもあって、マタニティーマークというのが普及していますが、マークを使って示さないと気遣いあえないというのも残念なことです。
妊娠初期と同様に、病気も、あえて言葉にしなければ目に見えて分からないことも多くあります。
でも、本当は、一見元気そうな人でも、一見若く見える人でも、もしかしたら不調を抱えていたり、困っていることがあるかもしれないと、周りにいる人のことに思いをはせることができる社会にできたら良いですね。
- 2012-05-04
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