Entries
水俣病の講演会を聴いて
5月6日に、「水俣病記念講演会」を聞くために有楽町に行ってきました。詳細はこちら
私は水俣には2009年に行っていて、詳しいことは過去のブログに書いてありますのでこちらをご覧ください。水俣の海の写真なども載っています。
今回の講演では、水俣病の当事者である杉本雄さん、作家の高橋源一郎さん、法政大学教授の田中優子さんがお話をされました。
長年患者さんを診てきた、お医者さんの原田正純さんも講演する予定だったのですが、ご病気のため欠席でした。直接お話を聞けず、残念。
どなたのお話も良かったです。まず当事者である杉本さんのお話。
もっと早い時期に、病気の原因を明らかにしていれば、水俣病にならずに済んだ人も多かっただろう、と。
おそらく魚だろうということは早い時期からみんな感じていたけれど、「食べているうちにもし具合が悪くなったらしばらく食べなければ治るだろう」という感覚があったのではないかということでした。
病気の原因と予後について、早くに説明があれば、きっぱりと魚を食べないということができたはずなのに、それが遅れたのはやはりチッソという会社と国のせいである。
その後、「水俣を教訓にして」ということがずっと言われたのにもかかわらず、結局福島の原発事故では同じ問題が繰り返されている。
・・・そういう指摘が、杉本さんからはありました。
一連の講演のなかで私が特に共感したのは、田中優子さんのお話でした。
田中さんはいま62歳。高度経済成長を見ながら育ってきた世代で、「高度経済成長の中で、何かを失っていくような感覚」がしていたという話をしてくださいました。
田中さんは、小さな子どもだった頃、長屋形式の家に住んでいたそうです。優子さん兄弟が大きくなるにつれ、平屋の家が狭くなり、隣の空き地に2階の1戸建てを建てることになった。
戸建てを建てれば、子どもの勉強部屋ができます。子どもたちに勉強して大学に行って良い就職、良い家庭を作ってほしい・・・高度経済成長時代に夢に描いたものを実現するための象徴が、戸建ての住まいだった。
でも、家を建てる空き地には、小さかった優子さんがいつも親しんでいた「いちじくの木」があったのだそうです。木登りをし、季節にはいちじくの実をとって食べていた大切な木を切ってしまわなければ、新しい家は建ちません。
木が切られていく様を見て、小さな優子さんは、「この木を無くしてしまって、私はいったい何を得られるというんだろう」という感覚を持ったのだそうです。
今まで長年ずっと大事にしていたものを切り捨てていく。高度経済成長時代に新たに得たものは、今まで大事にしてきた何かを切り捨てることによって成り立っているんだという感覚を、この「いちじくの木」以来、心のどこかに持ち続けてきたという話でした。
田中さんが水俣病にはじめて関心を持ったのは18歳、大学生になった年だそうです。
石牟礼道子さんの「苦海浄土」を知り、「胎児性水俣病になった人たちは自分と同年代。生まれる場所は選べないのだから、自分がその立場になっていたとしてもおかしくはなかったのだ」という思いから、強い関心を持つようになったそうです。
そこで田中さんは、苦海浄土の一文を読み上げて聞かせてくださいました。
内容としては・・・
水俣では、お金を出さなくても、目の前の海に糸をたらせば魚がとれる。海水で炊いたお米はとてもおいしい。
東京では、まずい死んだ魚をお金で買っているらしい。東京の生活は大変なんだなあ・・・。
水俣の人たちはそうやって暮らしてきたのに、この生活が、工場排水による海の汚染によって奪われてしまったのです。
田中優子さんの話を聞いていると、いちじくの木も、水俣の海も、目の前に広がっているような気持ちになりました。
目の前の豊かな海や土地から、とれたばかりの魚などをとって、金銭によって動いている都会とはまったく別の豊かさと幸せを持って暮らしていた地域。
その生活が突然に奪われる。
しかも、それは、ここに住む人とはまったく関係のない、都会の生活の便利さが原因なのです。
これはまったく、福島と同じ状態です。
自然の豊かさへの感動と、それを台無しにした絶望感を感じます。
水俣にも、また足を運びたいという気持ちになりました。
私は水俣には2009年に行っていて、詳しいことは過去のブログに書いてありますのでこちらをご覧ください。水俣の海の写真なども載っています。
今回の講演では、水俣病の当事者である杉本雄さん、作家の高橋源一郎さん、法政大学教授の田中優子さんがお話をされました。
長年患者さんを診てきた、お医者さんの原田正純さんも講演する予定だったのですが、ご病気のため欠席でした。直接お話を聞けず、残念。
どなたのお話も良かったです。まず当事者である杉本さんのお話。
もっと早い時期に、病気の原因を明らかにしていれば、水俣病にならずに済んだ人も多かっただろう、と。
おそらく魚だろうということは早い時期からみんな感じていたけれど、「食べているうちにもし具合が悪くなったらしばらく食べなければ治るだろう」という感覚があったのではないかということでした。
病気の原因と予後について、早くに説明があれば、きっぱりと魚を食べないということができたはずなのに、それが遅れたのはやはりチッソという会社と国のせいである。
その後、「水俣を教訓にして」ということがずっと言われたのにもかかわらず、結局福島の原発事故では同じ問題が繰り返されている。
・・・そういう指摘が、杉本さんからはありました。
一連の講演のなかで私が特に共感したのは、田中優子さんのお話でした。
田中さんはいま62歳。高度経済成長を見ながら育ってきた世代で、「高度経済成長の中で、何かを失っていくような感覚」がしていたという話をしてくださいました。
田中さんは、小さな子どもだった頃、長屋形式の家に住んでいたそうです。優子さん兄弟が大きくなるにつれ、平屋の家が狭くなり、隣の空き地に2階の1戸建てを建てることになった。
戸建てを建てれば、子どもの勉強部屋ができます。子どもたちに勉強して大学に行って良い就職、良い家庭を作ってほしい・・・高度経済成長時代に夢に描いたものを実現するための象徴が、戸建ての住まいだった。
でも、家を建てる空き地には、小さかった優子さんがいつも親しんでいた「いちじくの木」があったのだそうです。木登りをし、季節にはいちじくの実をとって食べていた大切な木を切ってしまわなければ、新しい家は建ちません。
木が切られていく様を見て、小さな優子さんは、「この木を無くしてしまって、私はいったい何を得られるというんだろう」という感覚を持ったのだそうです。
今まで長年ずっと大事にしていたものを切り捨てていく。高度経済成長時代に新たに得たものは、今まで大事にしてきた何かを切り捨てることによって成り立っているんだという感覚を、この「いちじくの木」以来、心のどこかに持ち続けてきたという話でした。
田中さんが水俣病にはじめて関心を持ったのは18歳、大学生になった年だそうです。
石牟礼道子さんの「苦海浄土」を知り、「胎児性水俣病になった人たちは自分と同年代。生まれる場所は選べないのだから、自分がその立場になっていたとしてもおかしくはなかったのだ」という思いから、強い関心を持つようになったそうです。
そこで田中さんは、苦海浄土の一文を読み上げて聞かせてくださいました。
内容としては・・・
水俣では、お金を出さなくても、目の前の海に糸をたらせば魚がとれる。海水で炊いたお米はとてもおいしい。
東京では、まずい死んだ魚をお金で買っているらしい。東京の生活は大変なんだなあ・・・。
水俣の人たちはそうやって暮らしてきたのに、この生活が、工場排水による海の汚染によって奪われてしまったのです。
田中優子さんの話を聞いていると、いちじくの木も、水俣の海も、目の前に広がっているような気持ちになりました。
目の前の豊かな海や土地から、とれたばかりの魚などをとって、金銭によって動いている都会とはまったく別の豊かさと幸せを持って暮らしていた地域。
その生活が突然に奪われる。
しかも、それは、ここに住む人とはまったく関係のない、都会の生活の便利さが原因なのです。
これはまったく、福島と同じ状態です。
自然の豊かさへの感動と、それを台無しにした絶望感を感じます。
水俣にも、また足を運びたいという気持ちになりました。
- 2012-05-12
- カテゴリ : 未分類
- コメント : 0
- トラックバック : -